医学界新聞

 

〔連載〕How to make <看護版>

クリニカル・エビデンス

浦島充佳(東京慈恵会医科大学 臨床研究開発室)


(前回,2466号

〔第9回〕NBCテロリズム(1)-対岸の火事

ハーバード大学からの手紙

 昨(2001)年11月初旬,母校ハーバード・スクール・オブ・パブリック・ヘルスの学部長であるブルーム先生から“親愛なる友へ”と題した3頁にわたる手紙をいただきました。それは,昨年9月に米・ニューヨークで起きた同時多発テロ事件に関するもので,「9月11日の事件を悼むとともに,私たちはテロリズムに対応できるよう大学の研究および教育をより充実させる。だから,君らもがんばれ!」という内容でした。
 同校は,WHOおよびCDC(米疾病対策予防センター)のディレクターをはじめ,医療面において数え切れないリーダーを輩出してきました。そしてブルーム学部長は,「君らは,ここハーバードで膨大な知識だけではなく,自由と尊厳のスピリット,討論することの重要さを学び,旅立っていったはずである。その心を忘れず,この世界をより住みやすい場所にするべく,粉骨砕身の努力をしてほしい」とつけ加えています。

テロリズムの時代

 今回のタイトルに使いました「NBC」とは,Nuclear(核),Bio(生物),Chemical(化学物質)の略で,この3つを合わせて「NBCテロリズム」と呼びます。従来テロリズムの手段として用いられてきた爆発テロリズムとは異なり,これらの兵器は目に見えないために,人々の恐怖をより一層煽ることができます。そして,対処する側には特殊な知識が必要になってきます。
 最近(昨年12月現在),アメリカ同時多発テロ,そしてアルカイダの話題が報道されない日はありません。しかし極東の島国に住む私たちは,どこか対岸の火事といった気持ちで眺めているように思います。そして,アメリカでは昨年10月から炭疽菌を使ったバイオテロリズムが起きました。
 今後,日本でテロリズムは発生しないのでしょうか?
 「否定はできない」どころか,すでに日本はオウム真理教による「サリン」を使ったNBCテロリズムが,1995年3月に遂行されているのです。彼らは,サリン以前に炭疽菌やボツリヌス毒素を散布しましたが,幸いなことに毒性が弱かったため,この被害に遭った人はいません。そのため彼らは,バイオテロリズムをあきらめケミカルテロリズムに切り替え,松本と東京で事件を起こしたのです。ですから,日本でバイオ・ケミカルテロリズムがいつ発生してもおかしくはないのです。

対岸の火事から学んだアメリカ

 アメリカ連邦議会は,「東京地下鉄サリン事件」の直後,この新しい形のテロリズムに備えるにはどうしたらよいかを真剣に討議してきました。そのシステムとは,まず有事の際には,地域のDOD(デパートメント・オブ・デフェンス:防衛局)が対処します。そのために,政府は各地域のDODがすぐに反応できるように特別チームを編成して,全米120の地域で技術指導および訓練に当たらせたのでした。
 1999年の時点で,50のDODがこの訓練を受けています。例えば化学物質を撒いて,あの宇宙服のようなものものしい出で立ちで,患者をトリアージし,化学物質を判定するのです。日本のシステムは,総論的に報告書で終わってしまうのですが,アメリカのシステム作りは常に実践から入ります。さらに,アメリカは情報システム(ラピッド・レスポンス・インフォメーション・システム)を充実させ,公衆衛生局はメトロポリタン医療チームを編成し,DODは地域の検査室の充実を図りました。また,バイオテロリズムに対する予算も数百億にまで増えています。これは政治家を含めた人々の意識の違いでしょうか。
 日本は世界唯一の被爆国であり,ケミカルテロリズム体験国であり,バイオテロリズムの危険に曝された国です。そして第2次世界大戦中に,日本陸軍731部隊が満州(現・中国東北部)で生物兵器の人体実験をしたという暗い経験もあります。「対岸の火事」に学んだアメリカに対して,今度は日本人が「対岸の火事に学ぶ」番です。世界でも数少ないクリニカル・エビデンスを深く掘り下げ,新しい形のテロリズムに医療人として,あるいは地域を守る人間として,対処する方法を思い描かなくてはなりません。まさに温故知新を実行する時なのです。
 「Advocacy:唱道」とは「先に立って伝えること」です。これは,パブリックヘルサーとしての重要な役割の1つだと信じています。そこで,今号から3回にわたり,テロリズム対策を考える上で役に立ちそうなクリニカル・エビデンスを,読者の皆さんに紹介していきたいと思います。まずは,炭疽菌のことから始めましょう。

炭疽菌による大量死は聖書の時代からあった

 聖書にある「出エジプト記」での人と家畜の大量死,17世紀ヨーロッパで大量の人と家畜が死亡したエピソードは,症状からして炭疽菌であったろうと推測されます。
 1945年,イランで羊炭疽菌が大流行し,100万頭が死亡しました。この後,炭疽菌に対するワクチンを家畜に施行するようになってからは,100万という大流行はなくなりました。しかし,1979年10月から1985年にかけて,ジンバブエでは1万人が皮膚炭疽に罹患しています。多くは,イギリスで羊毛を扱う職人にみられた皮膚炭疽でしたが,現在先進国でこの病気をみることは稀となっていました。
 たいていは,最初に家畜がこの病気にかかり,人はこれを扱うことによって炭疽に罹患します。しかし,人から人への伝染はめったにありません。その進入経路の多くは皮膚です。診断も比較的簡単につくため,抗生剤を投与することにより軽快します。アジアの1部やアフリカ・サハラ砂漠付近に多い病気ですが,アメリカでは1992年の発生が最後となっていました。
 しかし,テロリズムの際には菌散布が予想されるために,犠牲者は皮膚感染ではなく肺感染の形をとります。芽胞を吸い込むと,芽胞は小さく軽いので肺の末端に達し,マクロファージ(微生物や異物を食べる働きがある免疫細胞の1つ)に貪食されリンパ節に運ばれます。ここで芽を出し,縦隔の炎症を起します。発熱,倦怠,乾いた咳,胸痛などが出現。その後呼吸困難や敗血症性ショック,髄膜炎を併発して24-36時間以内に死亡します。史上最強の細菌と言えるかもしれません。
 生物兵器としての炭疽菌の研究は,およそ80年前から始まりました。今日,17の国が生物兵器を保持していると考えられていますが,その中でいくつの国が炭疽菌を保有しているかは不明です。しかし,イラクは炭疽菌を生産・保有していることが確かめられています。1950-60年代に,炭疽はアメリカ防衛の生物兵器として製造されましたが,現在は中止されています。
 さらに,1989年にアメリカは,イラク,イラン,リビア,シリアに対し,危険な微生物の輸出を禁止しました。イラクは,1991年と1995年に生物兵器を製造していた疑いにより国連の査察を受けました。フセイン大統領は,生物兵器製造の事実を認めたのですが,国連は生物兵器を押収することはできませんでした。核戦争の脅威は未だにありますが,「21世紀は生物兵器による脅威の時代」になりつつあるのです。