医学界新聞

 

【鼎談】

これからの国際地域看護を考える
看護の醍醐味がある世界

毛利多恵子
(毛利助産院)
 森口 育子
(兵庫県立看護大学)
 関 育子
(日本看護協会神戸研修センター)


―― 「国際保健」「国際地域看護」という言葉がさまざまな場で使われています。しかし,実際にはどのような実践をされているのかは,マスコミに登場するごく一部の人たちの活動は知られているものの,一部の医療職・看護職者だけが知っている,というところが現状だと思います。今回は,これまでに,また現在もプライマリ・ヘルスケア(以下,PHC)を中心とした「国際地域看護」にかかわりのある方々にお集まりいただきました。国際地域保健にかかわるようになったきっかけや,活動の内容を紹介いただくとともに,その課題,将来展望などにつきましてお話し合いをいただければと思います。それでは最初に,森口さんからお願いいたします。

■国際地域看護の活動内容

日本の保健婦活動を活かして

森口 私は,20代の青春時代に青年海外協力隊に加わり,ネパールで2年半結核予防に携わりました。結核予防会の病院に2年間いて,重症化した入院患者さんたちの看護をしていたのですが,そこで手遅れになって入院してくる患者さんをみていました。当時は,カトマンズの住民の1割が「結核」と言われていながら,入院できる患者は25人にすぎませんでした。そこでの「病院で患者を待つ」ことに限界を感じ,地域に出て行って,予防や早期発見のための看護をすることが大事と考え,地域活動を始めたのです。その活動を通して,地域のフロントラインのヘルスワーカーが住民とともに活動することが大事だということを,非常に強く感じて日本に帰ってきました。
 帰国してからも,日本の保健婦活動とネパールの看護で体験したことには何か共通するものがありそうだと考えていました。そうしている時に出会ったのが,1978年にWHOのPHCに関する国際会議で出された「2000年までにすべての人に健康を」をスローガンとする「アルマ・アタ宣言」です。「おお!これが,日本といわゆる途上国に共通する柱なのだ」と思いまして,保健婦教育の中にPHCの考え方を取り入れたのです。自分でも公衆衛生院で,日本の昭和20-30年代の保健婦活動をPHCの視点で研究し,当時の保健婦が専門職PHCワーカーとして機能をしていたことを明らかにして,そこから「専門職PHCワーカーの活動モデル」を作成しました。
 1984年から1年半,国際協力事業団(以下,JICA)の初の看護教育プロジェクトである,インドネシアのプロジェクトに専門家として参加をしました。当時,すでにインドネシアにはPHCの考え方は入っていたのですが,教員や看護学生たちは,やはり臨床,病院志向でした。国の政策としては,地域で予防活動を重視した看護職を育成したいという目標があり,私はPHCの考え方を教員と共有して,日本の保健婦活動の経験を活かして,地域に出向いて看護実習をするとともに,地域のボランティアを育てていく活動をしました。
 帰国後は教育現場に戻ったのですが,途上国のPHCを基盤とする地域看護の質的向上に関心を持ち,この15年は毎年1-2回インドネシアを行き来し,その他にタイ,フィリピンにもかかわっています。

自分の判断と技術が試される

 私のスタートも森口さんに似ていまして,1981年に青年海外協力隊でアフリカのマラウィに助産婦として行ったのが最初です。きっかけは,病院での出産は医師主導で進められますが,「医師に介入されない分娩介助というのはどういうものなのかな」と考えたことからです。それで,少し現場から離れてみようかと思った時に,この話にめぐりあったのです。
 マラウィの村では,医師がいませんので自分の判断と技術だけで出産に立ち会います。ですから,骨盤位であろうが,双胎であろうが,触診で判断をするしかありません。そういう現場に2年の任期でいまして日本に戻ってきたのですが,また協力隊から声がかかり,同じマラウィに行きました。今度は,派遣隊員の健康管理の仕事です。これは医療調整員という名称で,健康モニタリング・予防・対策・対応という活動を一貫して現地で行ない,またそのシステムを作るというユニークな仕事でした。
 この2つの仕事を通して,臨床看護以外の知識が必要なことを痛感し,一応保健婦のライセンスはあるのですが,帰国後に公衆衛生やPHCを勉強しました。そのような折りに,JICAからケニアの「医療技術教育強化プロジェクト」に看護教育の専門家として参加をしないか,という話がきました。結果として,2年半そのプロジェクトにかかわりました。ケニアの看護教育の仕方や看護婦の活動は地域中心で,めざしているもの,考え方が日本の看護婦とはまったく違うのです。私は直接地域に出て活動をしていませんけれども,学生を連れてフィールド調査をしたり,研究したりすることの経験の中で,ケニアの看護婦の姿を見ながら,常に日本の看護婦はどうなのかということを考えていました。
 現在は,日本看護協会神戸研修センターで,主に臨床看護婦を対象とした継続教育の仕事をしていますが,神戸という土地柄から,国際看護も取りあげようという方針があって,それが私の課題になっています。

1次ケアレベルの大切さ

毛利 私は,臨床の助産婦を14年ぐらい,最初は3次医療でしたが,次いで2次医療の場,そして助産所という1次医療の場で6年目になります。その間,看護婦教育に携わったことはありましたが,国際的なことはまったく考えてはいませんでした。
 実は,助産所で仕事をするようになって,初めて病院では見えなかった助産婦という仕事が何かわかったんですね。その体験も手伝ったのかもしれませんが,助産を中心にしたブラジルでの「母子保健プロジェクト」が,地域で働く助産婦を求めているという話が助産所にありまして,私がそのプロジェクトに参加することになりました。そこで,国際協力という世界を初めて知ることになりました。それが1998年のことで,その年に短期専門家で2回行き,99年からは2年間の長期でかかわりました。
 ブラジルでは,母子保健の領域が6-7割を占めます。とてもニーズが高いし,母子保健の指標をとにかくよくしたいというのが目的だったのですが,ブラジルには助産婦がいません。まだ人材も十分に教育されていないし,お産は,大病院に「お産工場」のように人を集めて行なわれるか,まったく手薄な医療のもとで行なわれるかのどちらかでした。
 ところが,そのようなところでも,妊娠期からのケアを含め,安全と出産の質を高めるために,助産所の知恵を生かすことができる,日本のよいものが海外で貢献できるんだなと思いました。1次レベルのケアが大事だなと実感しているところです。

活かされる日本の保健婦活動の経験

―― ケニアでは,看護教育は地域に出て行なうとのことでしたが,それは日本の保健婦教育とは異なるものなのでしょうか。
 日本では,看護職が,看護婦・保健婦・助産婦という3つのライセンスできれいに分かれていますよね。ケニアも以前はそのような教育でしたが,今は,看護婦・保健婦・助産婦の業務が1本化されて「看護婦」として教育されています。
森口 インドネシアには,保健婦という職種はありません。地域のフロントラインには,看護婦ではなく安全なお産ができるよう助産婦が配置されています。インドネシアの助産婦教育は中学卒業後3年間の看護教育を受けてさらに1年間の教育を受けます。彼女たちは,村で唯一の保健医療関係者ですので,母子管理だけではなくて,簡単な病気の治療や予防接種から,妊婦・乳児健診など,住民の健康教育など日本の保健婦の役割もカバーしています。私は,彼女らを専門の資格を持った「専門職PHCワーカー」と呼んでいます。
 インドネシアで,彼女らの活動実態調査をしたのですが,村の中の助産所に駐在し,24時間勤務で,住民からは期待されています。保健所がいくつかの村単位であるのですが,そこからのサポートはほとんどありません。その時に,教育レベルは違うにしても,日本の保健婦の体験がかなり活かされるのではないかと感じたのです。日本の昭和20-30年代の保健婦,開業助産婦は同じような役割をしていたのですね。その時代の活動方法が,いわゆる途上国で活かせるのではないかと考え,途上国に活かせる活動モデルを思いついたのです。

ブラジルにおける助産婦の役割

毛利 ブラジルは,日本が歩んできた歴史を20年ぐらい後から追っている感じですね。それから,アメリカ医学の影響が大です。ただ,言葉がポルトガル語ですから,英語のものが訳されるのには時間がかかるために,すごく古い時代のアメリカナーシングを習っていて,それをみんなが大事に思っているところがあります。過去のものをモデルに一生懸命しているわけです。
 お産は,とにかく施設か大きな病院に行けという方針ですから,出産のためには,バスに揺られ,車を借りたりしながら,村から3時間かかっても病院へ行くわけです。昔はTBA(Traditional Birth Attendant;資格を有しない伝統的産婆)がいて,お産は地域の中でされていました。しかし,法律でそれを禁止してしまったのですね。ところが病院は満杯です。1日に40-50人が来院し出産するものですから,人間的ケアなんてできない,もう工場なんですね。
 そのように,TBAの存在がなくなるとそのよさもなくなり,お産の文化やいろいろな意味でよかったものが全部崩されてしまった。そして,今になって「どうしよう」とブラジルでは考えているのです。ある意味,そこは日本がずっと通ってきた道でもあるのです。しかし,日本はアメリカの影響を受けたけれど,やはりもっと地域に根ざした1次医療を大事にしよう,助産婦も病院ばかりではなく,もう1度地域に戻ることが必要だと反省をしてきているわけです。ですから,私たちは自分たちの歴史をブラジルの方々に伝えて,ブラジルが取捨選択をするという方向になるようにしました。そのためには,エビデンスを持った実証が大事なのかもしれません。
 ブラジルには迷いがあって,工場化して分担作業をするようになったけれど,昔あった地域のネットワークのよさは見直そう,という動きになりつつあります。けれども看護婦が少数で,現場では中学校を出て1年の教育を受けただけの,いわゆる准看護婦が見よう見まねで助産の仕事をしています。彼女たちの言い分は,「教育も受けていないのに,やることには1人前のことが求められる。緊急時には,医者と看護婦は逃げてしまう」(笑)。
 ブラジルでは,看護婦さんはエリートなんですね。実際にはケアをしない,大卒の管理者。先ほども言いましたけれど,5年前,10年前のアメリカの翻訳物で学び,大学では実践を教えませんし,現場での実践はありません。ですから,何がよくて,何が役立たないかという検証ができない。看護の世界は,本だけ読んで済むところではないですよね。現場では,「看護婦が来ても口だけで何もできない」と,信用されていません。
 そこで,助産婦である私の立場ですが,女性の健康を末永く見つづけるということにコミットする職が要るなと思ったんですね。その意味でも,助産婦と保健婦の職域は必要だと考えました。ブラジルでも,看護婦で地域に出たいという人は多くいます。が,出ると実践から行政レベルまで,地域のありとあらゆることを任されてしまいます。ですから,その部分をしっかりと担える人を,適正配置する必要を感じました。ブラジルは,看護職を1本化にしましたけれど,助産婦を作るシステムに戻すそうです。地域保健に関しては,医師と看護婦がペアとなって地域に出向くという「家族チームプログラム」ができています。そこでは,大学を出た看護婦が,地域・家族保健プログラムというものを独自に勉強をして,医師と組んで人口5-6000人の地域を担当するという形なのですが,そこにブラジル政府がお金を出しています。
森口 それは国の政策なのですか。
毛利 そうですが,地域看護そのものはまだ政策にはなっていません。各州や県の保健局が家族保健プロジェクトの研修をするというレベルですね。

地域助産婦導入の施策

森口 インドネシアでは,国の政策として1990年から地域助産婦が導入されました。ASEAN地域の中で,経済的には比較的高かったものの,妊産婦死亡が非常に高いことから,当時の大統領が「それでは恥ずかしい」と,5万4000人の助産婦を7年間で育成するという施策をとりました。つまり,看護学校を卒業した女性は,全員助産婦学校に行かせた(笑)。
 そうしたために1996年にはほとんど全部の村に地域助産婦がいる状態になりました。そういうところはすごいなぁと思いますね。私は,ちょうどその当時にインドネシアにかかわっていましたから,これこそ「専門職PHCワーカー」だと実感させられました。インドネシアがブラジルと違うのは,TBAを禁止しなかったことです。当時は,8割がTBAによる出産でした。だから,村に入った助産婦たちは,まずTBAたちを指導して,難しいケースや異常と思われる場合は,自分たちが担当するという方法をとったのです。ただ,当初問題となったのは,TBAが自分たちの仕事を取られてしまうと警戒して,非協力的だったことです。でも徐々に関係ができるようになり,TBAから助産婦に紹介していって,現在では5割ぐらいを地域助産婦が取りあげています。その背景には,TBAが村の人たちから信頼されていることもあるのでしょう。その信頼性はそのままに,地域助産婦に協力することで,助産婦に対する住民の評価も高まったように思われます。
毛利 産婆さんというのは,命を扱う仕事ですから村の人の評価は厳しいですよね。あの産婆にかかると死ぬとか,それでセレクトされるんですね。
森口 村長の奥さんがTBAだったりしてね(笑)。本当に,村では尊敬されている。それを,うまく利用したなと思いますね。

■国際地域看護の現状と課題

日本での基礎知識があってこそ

―― 看護職の持つ高い技術,特に病院の中での技術を途上国に対して支援していこうとしてきたのが,国際地域看護の分野というイメージがあるように思います。実際に日本から支援や協力に行った場合に,どのようなかかわりを持つのでしょうか。
森口 インドネシアやその他の途上国では,都市部の大きな病院に看護学校卒や大学卒の看護婦がいます。ですが,農村地域には彼女たちは行きたがりませんので,農村地域は教育レベルの低い看護婦や助産婦が担当することになります。そして,彼女らは住民や行政からの過重な期待と仕事によりバーンアウトしてしまったりしています。そのために,地域で一緒に仕事をしながら指導してもらえる人が求められ,日本に対しても協力要請があります。でも今は,地域の診療所やヘルスセンターで働く人の要請が多くなってきていますね。
―― 日本では,医療は病院でというイメージがあります。関さんは,アフリカで医療調整員として,地域で活動する看護職へのアドバイスをされたと思いますが,彼女らからジレンマですとか,葛藤などをお聞きになったことはありますか。
 私自身に,「え? 看護婦がここまでやるの」という戸惑いがありましたね。検査,治療,診断から処方までしてしまうわけですから。私は,協力隊隊員の時は助産婦で参加をしたのですが,もう,すべてが助産婦にかかってきます。自分が診断して,CPD(児頭骨盤不均衡)なら医師に「帝王切開しかないですから,手術をしてください」とお願いするわけです。医師がそこにいればよいのですが,コンタクトが取れない場合は,自分でそれをどうにかしなければいけない。そこまでも助産婦,すなわち看護婦の仕事になるわけです。
 となると,そこは自分の知識と技術といったもので勝負していかないと――勝負といったら変ですけどね――看護婦に対してすべてを問われている状況が常にあります。それが最初はすごいジレンマなんですが,わかってくると視点が変わりますから,「これって看護婦にできるじゃない。これだってできる」という考えになって,逆に,「日本ではどうして臨床の狭い場面だけで看護をとらえるのか」,「もう少し広く考えてもよいのでは」と思いましたね。そして,やってみて,別にそれほど間違いはないと実感していくわけですね。医師がいなくても,吸引分娩や骨盤位の分娩介助もするし,胎盤用手剥離術や頚管裂傷の縫合も助産婦すなわち看護婦がやっているのです。
―― 地域の中に入り込んで行くと,日本の状況からすれば「何ごとも足りない」という条件がつきまとうわけですが,逆にその中ではどんどん力をつけていくことができる,ということになるのでしょうか。
 そうですね。でも,その力をつけていく時に,基礎的な教育は全部日本で受けて,知識として持っているというところがやはり強いと思いましたね。私が,日本で骨盤位分娩介助をある程度経験していたからできた,ということもあるでしょうが,日本では骨盤位分娩介助を助産婦が行なうのはあくまでも緊急避難的な性質のものです。
 しかし,たとえ一生に1度出会うかどうかの緊急場面であっても,プロとして行動できるように常に練習し,技術も磨いておかないといけない。それが,現場に行った時に活きるわけです。

地域住民の意識向上を図るには

―― プロジェクトでは,地域の方とはどのようにかかわるのですか。
 プロジェクトにはさまざまな分野の人が参加し,その人たちと企画を練りますが,私の場合は看護の専門職は1人でした。その地域の保健局のメンバーと一緒にトレーニングを企画し,具体的な内容を進めます。
森口 大事なのはそこだと思いますね。1人で入っても,自分1人がするのではなくて,現地の人たちとどのように協力して進めるのかにかかってきます。1つのプロジェクトは5年ですとか,7年で終わるわけですから,その期間中に現地の職員が自立してできるところまで指導していかなければなりません。はじめはこちらが主導していきますが,次第に現地の人たちが協力してできるようになり,プロジェクトが終わる頃には,自分たちで実施できるように技術移動が済んでいる必要があります。
毛利 ブラジルの場合ですが,私たちは女性がケアを受けて,そこに変化が起こらない限り成果は出ないと考え,フロントラインにまず人材を投入しました。開始にあたって調査をしたところ,出産は准看護婦レベルの人が85%を扱っていることがわかりました。そこで,まず彼女らのトレーニングから始めました。その結果として変化が起こってきて,それはよかったのですが,看護婦や医師は管理者としてその上に存在しているのですね。とすると,このような状況を管理者が理解しなければ,彼女たちは仕事がしにくいのですね。
 それに気がついた後は,フロントラインにいる人とその管理者の人,あと保健局や市長を巻き込み,合同でトレーニングをしました。小さな町,市レベルでしましたので,そのことが町中に広がり,お産に関するケアを皆で共有できるようになるわけです。そして,トレーニングの最終日には,必ず学んだことをその地域の住民に還元するというセッションを入れました。そうしたら,町の高校生が200人集まったりとか,町の女の人たちが来たりして,そこで病院のスタッフが「私たちは今回,こういうことを学んだ」と発表する。そのように,住民とフロントラインと管理者が同じ概念を共有していくことで伝達が速くなり,誤解も少なくなったという感がありましたね。
森口 そういう地域の実態や,管理者である保健所助産婦のスーパーバイザーが知っているかと言うと,意外と知らないんですよね。「お産の技術が下手」ということは言っても,いかに大変な状態にあるかを知らない。月1回のミーティングに報告書を出させ,問題を指導しても,介入をしている様子は見られません。そこで,看護管理者である,県の母子保健課長,それと各村を管轄する保健所の助産婦スーパーバイザーの人たちに,地域の実態を知らせることが重要と考えて,管理者と地域助産婦たちが一緒に取り組めることを考えました。妊産婦死亡を減らすために地域助産婦を駐在させるようにしたわけですが,どうして妊産婦が死亡するのかが明らかになっていないので,妊産婦死亡の実態調査をしようとなりました。県が主体となって,管轄する保健所の助産婦と地域助産婦の両者が訪問して,担当する村で亡くなった妊産婦についてそれぞれ実態調査をしました。
 私は,半分くらいの実態でよいと思っていたのですが,県内の2年間に死亡した14人全員の調査ができ,直接死因や死亡に影響を与えた間接原因が明らかになりました。助産婦たちの住民の信頼や彼女たちの持つ力を改めて考えさせられましたね。

誰を指導すれば変わるのか

毛利 実態調査とおっしゃいましたが,私たちのプロジェクトにも疫学の専門家がいました。現場に入って参加観察と住民インタビューによる研究をしたのですが,保健局がとらえているデータと実態調査によるデータに差が現われたんですね。いかに保健局が少なく見積もっていたかという実態がばれちゃった。女性たちの声を聞くと,ケアサービスへの不満が出ている。管理者も,そのデータを見せられると,「え!こんなことが……」という感じだったそうです。それは,保健局長の責任にまでなってしまう。そういう意味では,実態調査はさまざまなレベルの人を巻き込むのに,よい教材になるなぁと思いましたね。
 ケニアでの私の活動は,看護教員を教育するプロジェクトでしたが,フロントラインにいるPHCワーカーのサービスの質をあげようというのが本来の目的でした。そのためには,直接その人たちを教育するのではなくて,看護婦教育をする人たちを指導すれば,それが教育に反映され,現場の看護職の意識も高まっていき,サービスの質があがるだろうという考え方でした。
 ただ,やはりそうなるまでには時間がかかります。教員をどう変えていくかが問題でしたし,教員は自分たちの住む街の実態を知らないんですね。私がいたところはナイロビでしたが,急激な都市化が進む一方で,プロジェクト本部の近くにすごく大きなスラムができている。でも,教員たちはそこへ行ったことがない。看護教育を受けている人たちは,いわゆる上流階級にいる方たちでしたので,シビアな地域の健康問題を耳にすることがあっても,直接目にしたことはないという階層でした。
 ところが,そこをフィールドにできないかという話になった。保健医療従事者の多職種のチームを作って地域に入って,そこの保健問題を調査,分析し,問題を住民と一緒に解決していこうという,つまり地域密着型の研究を活動の1つとして取りあげたのです。4か月ぐらいかかりましたが,データを分析してまとめ,保健大臣などの要職にある方を呼んで研究発表会を開催して提言を出しました。その上で,今度は地域にこの結果を還元する意味で,地域の中でも同じ発表をしました。

■国際地域看護の将来は

行政・政策にどうかかわれるか

―― 外国で活動していると,日本では気づかなかった広い視野で看護の役割が見えてくると思いますが,これから世界に出て行こうとしている若い人たちに向けて,国際地域看護の魅力を語ってください。
 私は,1960年末から1970年末の間に日本の保健医療事情の中で教育され,臨床経験をして,1981年に初めてアフリカの現状に触れました。そして,異なる文化や状況に対した時,いろいろなショックがあったり,発見もあったりしましたが,世界がこれだけグローバル化してくると,そういう時代はもう終わってきたかなという感もしないではありません。これからは,国際協力についても,日本の看護職がどうとらえるのかという視点も教育の中に入れていくことも必要でしょう。そのような基礎的な知識があれば,私が感じた混乱や戸惑いが少なくなるだろうと思います。
 これからの日本の看護職が,途上国に対してどのように貢献ができるのかですが,途上国というのは,独立してもそれ以前に行なわれていた占領国の施策や国のシステム,教育というのをまだひきずっています。ですから,新しく自分の国になった時に,国の保健政策をどう立てていくのか,そしてそれに対してどういう看護職を育てていくのかということに,看護職はまだ思いが至っていないのです。そういう政策に提言するまでの看護職をどう育てるか,すなわち人材育成を支援していくことが,私たちの役割かもしれませんね。
毛利 私は,ケアというのは人間の基本的なシンプルなものであって,文化を超えて共有できると思っています。出産の場合は,いわゆるテクノロジーもあるかもしれないけれど,お産は生理的で,愛情に守られたシンプルな民族愛です。それはまた,アフリカであったり,アジア,南アメリカなど,いろいろな文化にも守られている。その優しさが最も大事なコアなのですが,日本にいるとその手順とかテクノロジーに重きが置かれてしまい,大切なことを忘れてしまうことが多いような気がしますね。途上国に行くと,そこにはテクノロジーはなく,物もない。でも,最もシンプルで大事なものが浮き彫りになってくる。その最も根源的なところを,私たち自身がしっかり持っていなければいけないでしょうね。また,日本で取り組んでいなければ,海外に行ってもできないということもあります。人種の違いは大きいですね。日本人は和を尊び,思いやりのある国民。ブラジルは個人主義なのですね。日本人でしたら,「もし私がその立場だったら」と考え,「だからこうしてあげよう」と思いますよね。これは,日本のよさだと思うのです。
 私は,ブラジルで話をする時に,よく日本のお産・医療の歴史を話しました。日本の医療・看護界はこのような選択をし,医療を行なってきて,現実にはこうなった。今振り返ってみれば,こういうところはよかったけれども,間違った選択もあった。というように,ブラジルが同じような道を歩む必要は決してないんだと,自分たちの歴史から伝えたつもりです。
 あとは,行政や政策に,私たちの仕事をどう結びつけていくのか,ということです。女性の問題,新生児・乳幼児のことなどをもっと意識して,提言していく能力を持たなければいけないですね。海外では,特に行政と末端の結びつきが大きく影響しますので,政治的なかかわりをもっと意識することだと気づかされました。
 今回私は,ブラジルの政府関係者,厚生省や保健局の方々と話をする機会がありましたが,保健局長は本当に住民のことを考えているのですね。「貧しい女性のためにどうしたらいいだろうか」「どのような教育を……」と聞かれまして,それを実行に移そうとするのですね。そういう視点を教えられました。

学ぶところの多い国際地域看護

森口 1昨年前にジュネーブのWHOに5か月ほど行きましたが,ヨーロッパ地方事務局でも,ソ連邦崩壊後に途上国を抱えることになり,PHCナーシングの分野で,新しく「ファミリーヘルスナース」というものを作っていこうとしていました。
 途上国の保健政策は,PHCが核です。そこで,地域で予防とか健康増進をお金をかけないで進めるためには,看護職に対してPHCを基盤にした活動が,どこの国でも期待されているのではないでしょうか。
 50年前には,物はない,施設はないという状況の中で,日本の看護職は住民と一緒にやってきた背景があります。私は教育の中で,アメリカから入ってきた看護理論だけを教えるのではなくて,日本の地域看護が実践してきた経験を,少しは理論づけをして学生に伝えたいという思いがあります。また,私たちが一方的に途上国の看護職に技術協力するだけではなく,途上国に学ぶことも多いと訴えたいですね。
 私は将来的には,アジアの国々の看護職が,ともにパートナーとなって,互いがよいものを持ち寄った共同研究ができると考えています。その足がかりとして,兵庫県立看護大附置研推進センターでは,昨年から「PHCと基礎看護」の研修を始め,初年度としてはフィジーとインドネシアの人たちに,PHCを基盤にしながら日本の経験と現状から学んでもらいました(本紙2001年11月26日付,2463号2-3面参考)。また,両国の看護の状況を学生に伝えてもらいました。このような研修を共通基盤として,共同研究は可能だと思います。
 また,国際地域看護におけるすばらしい実践者が日本にいます。その方々の実践を基盤に理論構築をし,これからの国際地域看護をめざす看護職に伝えていけるよう,研究会を作りたいと考えています。今は実践者による交流を図っているところで,ぼつぼつと誕生しつつあります。
毛利 相手国から学ぶという視点ですが,確かにブラジルの政策とか行政,それから保健所長,地域ヘルスワーカーのありように触れて,学ぶことが多いと思いました。ブラジル政府は,医師会の反対がすごかったのですけれど,助産婦を作るプロジェクトを立ちあげました。その際の厚生大臣の判断には,一番貧しい女性に,コスト効率がよく,安全で質の高いケアを提供するために,いろいろ調査をして決定したのだから,どんな圧力があろうとも「やるぞ!」という信念があったのですね。このようなやり方というのは,勉強になりました。
―― 世界のあらゆる地域における看護の活動の中で,看護とは何かがより明確に見えてくることがあるのだと思います。日本でしっかり看護に取り組めていなければ,外国での活動もできません。日本独自の伝統的な文化のよさを大切にしながら,かつて日本が歩んできた原点というようなところをもう1度見直してもよいのではないかという気がします。今日は,有意義なお話をありがとうございました。
※兵庫県立看護大学附置研究推進センター
 TEL(078)925-9610/FAX(078)925-0878