医学界新聞

 

新春随想
2002


医学教育と情報メディア実感

寺山和雄(信州大学名誉教授)


一般教育

 1929(昭和4)年,北海道生まれの私が小学校に入学したのは1936(昭和11)年のことである。
 「サイタ,サイタ,サクラガサイタ」という,片仮名の国語教科書であった。先生が木製黒板に白墨(チョーク)で書く時に「トン ズー,トン ズー」という音がした。平仮名に替わって「トン ズーー,トン ズーー」となった。黒板に書かれた文字や画をゆっくり帳面に書き写すことができた。校舎や教室の風景や先生の背中と一緒にインプットされている。
 中学2年生から4年生の8月敗戦の日(1945年)までは勤労奉仕として,農家や石綿鉱山で暮らした。教科書を背嚢(リュックサック)に入れて持ち込み,夕食後に自学自習した。知識欲の旺盛な少年に与えられた情報としては薄っぺらな教科書であったが,授業なしの割にはよく身についたものと思っている。「英語は敵性外国語だから,勉強不要」という指導であったが,辞書を1頁ごとに暗記し終わったら,その頁を口から飲み込んでしまうというやつもいた。
 1946(昭和21)年,敗戦の翌年に旧制第二高等学校に入学した。本を読み,だべるのが毎日の寮生活で,学校の授業は二の次であった。しかし,ドイツ語のレクラム文庫を辞書なしで読むやつもいれば,群論,集合論や位相幾何学などに没頭するやつもいた。これらの仲間の情報交流によって知らず知らずの間に,人の道や世界観が醸成された。カリキュラムなしで,好みの知識を蓄積する楽しさがあった。

医学教育を受けて

 1949(昭和24)年に東北大学医学部に入ったが,医学部ではすべてのカリキュラムを修得しなければならなかった。解剖学の骨学が最初の講義であったが,骨の出っ張りや凹みの名前を覚えるのは無味乾燥の感があった。私は,東北大学庭球部に入っていたが,法学部や経済学部などの学生とほぼ同等の練習をこなすためには出席する講義を厳選する必要があった。
 入学間もなく,古本屋でLauber-Kopischの『Lehrbuch und Atlas der Anatomie des Menschen』を見つけた。出版されたのが1929年,私が生まれた年であったので,全5巻を思い切って購入した。講義欠席の穴埋めとして,この本をよく勉強した形跡が残っている。後に整形外科を専攻するとは思っていなかったが,骨学,筋学・血管学の2冊にはあちこちに書き込みがあり,48年後の現在も座右の書となっている。
 斯界の碩学である教授陣は,風格と機知に富む先生が多かった。吉田肉腫で高名な吉田富三先生の講義には,学生が気づくのが少し遅れるギャグが入っていた。病理学実習室には,「教不厳師怠也」という額が飾られていた。「教育が厳しくないのは教師の怠慢」という意味である。後にがんセンター総長となられた黒川利雄先生は,ふくよかな笑顔で,学生の名前をよく覚えておられた。ある日,「君は北海道出身だね。私は幌内だよ」と言われた。幌内は私が生まれた万字炭山の隣であった。
 外科学の臨床講義は2つの手術台を並べた手術室兼用の階段教室であった。武藤完雄教授は片方の手術台から他方の手術台に移って,ペッツをかけて胃を切除するさわりどころを次々と供覧された。手術室の感染防止が厳しい現在では不可能な教育であり,階段に座った学生には術野はほとんど見えなかったが,その雰囲気に感銘した。武藤先生の再試験は口頭試問であった。
 「高齢者の黄疸を診たら,何を考えるか?」という設問に対して,「胆石と癌」と答えれば合格とされていた。だが,肝心要のところは忘れないように教えられた。

医学教育を担当して

 私は1959(昭和34)年から1995(平成7)年までの36年間,整形外科の講義と臨床実習を担当した。黒板は樹脂加工された緑のボードになり,チョークの音は「カン,カン,スー」に変わった。スライドが主要なメディアとして使えるようになったので,黒板に下手な字や画を描く必要もなくなった。
 ところが,暗い教室で,教師がスライドのほうだけに顔を向けたまま長々としゃべっていると,学生はみな居眠りしている。現職の終わりの頃は,OHPを使うことにした。現在のようにOHPシートに焼きつけるパソコンはなかったので,コピーした画を切り張りし,手書きの大きな字で説明を書き込んだ。比較的明るい教室で,学生のほうに向かって話せるので,居眠りは少 し減少した。たまにはビデオも供覧した。学生は興味を持って見ているようであったが,中味は覚えていないという印象であった。

まとめとこれから

 以上の体験からの実感は,次の通りである。(1)文字や画像の情報に加えて,音や匂いや背景などを複合した総合情報として伝達されるのが教育である。(2)教師の人間像が教育効果に大きく反映する。(3)学生同士の体験交流が自学自習を促進する。(4)自学自習のためには,いつでも反復して閲覧できるメディアが必要である。
 さて,交互交流(インタラクティブ)可能な動画や,音声を含んだメディアが医学教育に利用できるようになった。例えば,解剖や手術で表層から切開を加えると,次の層の画像が展開されるCD-ROMがある。このような教育資料は積極的に開発し,インターネット上で学生がいつでも閲覧できるようにしていくべきであろう。しかし,教師の人間像を伝えることはできないという限界を忘れてはならない。私は医学書院発行の『標準整形外科学』の編集に20年以上携わってきた。その中に“主訴と主症状から想定すべき疾患”という表がある。いずれは表中の疾患名をクリックすれば,リンクされた頁が表示されるメディアを作りたいと考えている。
 印刷された教科書が消えて,すべてディジタルメディアになってしまう,というおそれが出版関係者の一部にあるらしい。しかし,私の『Lauber-Kopisch解剖書』のように,50年以上も使い続けられるメディアとしては,書籍の存在意義は続くであろう。そのためには座右の書となるような内容の本を出版する努力が必要と信じている。


家庭医のテレビドラマ

葛西龍樹((社)カレス アライアンス・北海道家庭医療学センター所長)


 今年も,私は,家庭医療が日本でも発展することを願って仕事をしていこうと思う。家庭医と各科専門医――この2種類の医師がそれぞれの役割を発揮して協働する医療が,次の世代の国民の健康と,医療それ自体が「全体」を取り戻すために最も必要なことだと信じているからである。
 さて,新春随想ということで,多少肩の力を抜いて,「家庭医のテレビドラマを作りたい」という話をしたい。「救命病棟24時」や「ちゅらさん」の人気を見ていると,日本でテレビドラマの果たす影響の大きさを思い知らされる。救命救急医や看護婦という職種に対して人間的な理解が進むからすごいものである。また,医療をしている私たちから見ると,テレビドラマは,世間の人々が医療に何を期待しているかを知る窓の1つでもある。家庭医のテレビドラマによって,国民に家庭医療についての理解が進み,それがうねりのようになって盛り上がることを期待したいのである。そこで,もう今年の「お正月スペシャル」には間に合わないが,こんなあらすじを考えてみた。

 東京発帯広行きの機内で,ある初老の男性の具合が悪くなる。「機内に医師はいらっしゃいますか」とアナウンスがかかる。「よし,俺の出番だ」と立ち上がる救急救命専門のE医師(「救命病棟24時」のヒーロー役の江口洋介氏に演じてもらいたいものだ)。
 しかし,患者の容態は改善しない。病院で治療しなくてはならない。「緊急着陸できないか?」尋ねるE医師にパイロットは,「目的地の帯広空港が最短なので,そこに着陸します」。E医師は,「急いでくれ。救急隊の出動を要請して空港に待機させるんだ」と叫ぶ。
 機内全体に不安を乗せて,飛行機は雪で覆われた十勝の大平原に位置する帯広空港に着陸する。待機していた救急隊がきびきびした動作で患者を救急車に収容する。「行き先は?」と尋ねるE医師に,「もちろんS村診療所です」と救急隊員。「そんな田舎の医者に任せられるか。帯広へ行くんだ」「大丈夫です」自信に満ちた救急隊員の答にE医師がなかばあきれているうちに,空港から最短のS村診療所に到着。入り口で待機していた2人の若い医師が自己紹介をした。
 「ご苦労様です。状態を聞かせてください」。E医師に尋ねながらも,2人は機敏に患者の容態をチェックし,消防隊員や診療所の看護婦と事務員に指示を出しながら診察・検査・処置に取りかかっている。チームが一体となって動いている。驚きながらも,いつの間にかE医師もそのチームを手伝っていた。「いったい,ここは……?」
 しかし,E医師をもっと驚かせたことがあった。それは,S村診療所の2人の医師が,その救急患者のケアの最初から「家族はどうしていますか」,「家族の状態を見てください」と言っていることだった。
 E医師はそれまで気がつかなかったが,患者の家族が同じ飛行機に乗っていたのだった。村の診療所の医師が,最初から患者とともにその家族もケアの対象にしていることは驚きだった。慌てて転んで捻挫した息子と,「あの人は死ぬんですか」と取り乱していた妻の顔にも,この診療所に到着してから,2人の医師が患者のケアの合間に頻繁にケアと説明にやって来ることで,まもなく安堵の表情が現れるのがわかった。
 とうとうそうせずにはいられなくなって,E医師は2人の医師に尋ねた。「いったい,あなたたちは何科が専門なのですか?」。2人の医師は互いに顔をちょっと見合わせてからこう答えた。「私たちは家庭医です」(ここで第1話は終わる)

 「空想がすぎる」とお叱りを受けそうだが,次の世代の国民の健康と,医療それ自体が「全体」を取り戻すことが大きな目標であるので,新春でもあり,どうかご容赦いただきたい。第2話も第3話も考えてあるので,おもしろいと思われた方や,テレビドラマの関係者に知り合いのいる方,お力添えをいただける方はぜひご連絡ください。
(メールアドレスは,ryukikas@nikkomhp.dp.u-netsurf.ne.jp


その人らしい生活を支援するために

杉原素子(国際医療福祉大学教授・日本作業療法士協会長)


 新しい年を迎え,皆様のご健康とご多幸をお祝い申し上げます。皆様には,平素より作業療法士の業務および教育にご指導,ご鞭撻をいただき厚くお礼を申し上げます。
 今年は日本に作業療法士が誕生して37年目の年になり,作業療法士有資格者数はおよそ2万人になろうとしています。現在,日本の男性と女性の作業療法士の比は当初からあまり変わらず,ほぼ1/3が男性です。全体の平均年齢は30歳,うち半数近くが20代の女性です。作業療法士数の人口10万人対比では,大きい順に石川県(21.5人),福岡県(20.7人),高知県(20.4人),岡山県(20.2人)となっています。逆に小さい県は埼玉県(4.6人),和歌山県(4.8人),千葉県(5.3人)の順です。作業療法士養成校は,専門学校・短期大学・大学合わせて122校・129コース(夜間部を含む)で,うち大学は20校です。働いている領域は,病院・診療所に約7割,老人保健施設に約1割,障害福祉関連施設・行政機関などに約1割,作業療法士養成校に約1割の作業療法士がいます(2001年9月資料)。

ニーズに応える作業療法士になるために

 さて,新しい世紀に向けて作業療法士にはどのような動きが期待されているのかを考えると,いくつかの課題をあげることができます。まず,作業療法士は高齢社会に必要な人材として,1990年の「ゴールドプラン」に絡んだ各種サービスの展開への需要,加えて介護保険サービス,ゴールドプラン21,ノーマライゼーションプランにからんで,障害児・者や高齢者の地域在宅支援サービスの展開への需要に対して供給が求められました。ですから,これらのニーズには着実に応えなければなりません。したがって,作業療法士配置の割合を,現状からより老人保健施設,障害福祉関連施設,行政機関へ移行させる必要があります。
 また障害福祉関連領域のより多くの配置については,高齢者サービス領域にはもちろんですが,精神障害領域においてもより質の高いサービスを提供し得る職種として今まで以上に貢献しなければならないと考えます。
 しかしながら,これらの領域で役立つ専門職として活用されるためには,作業療法士はこれらの領域に必要とされる適切な知識・技術を有していなければなりません。これまでの作業療法士養成課程では,基礎医学・臨床医学系科目の占める割合が大きく,まず疾患・障害特性を捉える教育傾向が見られました。疾患・障害のみではなく,障害を持つ個人の,その人らしい生活を支援する知識・技術も教育課程にしっかり位置づけなければ,この領域で貢献できる人材として十分とは言えません。

年頭の「願い」

 新しい年の始まりのこの時期に願うことは,まず国や国民のニーズに応えられるよう,各領域に作業療法士を適正に配置すること。そして医療,保健福祉,教育,職業などのそれぞれの領域で働く作業療法士が,そこで必要とされる知識・技術を適切に,高い質を有して提供できるようになること。さらに,これらの有能な作業療法士たちが日本全国に満ちあふれ,願わくばアジアの国々にもこれらの作業療法士が満ちあふれることを期待しています。