医学界新聞

 

連載(23)  中南米の国から……(1)

いまアジアでは-看護職がみたアジア

近藤麻理(兵庫県立看護大・国際地域看護)

E-mail:mari-k@dg7.so-net.ne.jp    


2463号よりつづく

【第23回】カトリックの国の悲劇

ハリケーン・ミッチーの惨害

 1998年10月,中米を「ハリケーン・ミッチー」が襲いました。それから2年半が経過した2001年3月に,ホンデュラス共和国を訪問しましたが,その時に,その被害の大きさを知ることができました。大規模な土砂崩れや河川の氾濫の跡が,痛々しく町のあちこちに残っていたのです。しかし,NGOの「医療復興プロジェクト調査」派遣前の私は,飛行機のチケットを見るまでホンデュラスの首都がテグシガルパだということも知らず,「中米はとても遠いところ」だと思っていました。
 ホンデュラスは,その面積(日本の約3分の1)の70%が山岳地域であるため,飛行機は空港が近づくと,まるで山の中腹に滑り込んで行くように感じられるのです。なんと,隣の人たちは胸の前で十字を切っているではありませんか。
 「あああ……ぶつかる」と思ったその時,「ガタン」とタイヤが滑走路に着地。乗客からは,拍手と歓声があがりました。そこは,ヒマラヤの麓に広がるネパール空港よりも迫力のあるところでした。
 ハリケーン・ミッチーの被害以降,首都テグシガルパの近郊地域には家を失った人たちが集団で移住し,貧困層を多く抱える居住区が急激に広がっていきました。もともと都市部が抱えていたHIV/AIDS感染者と,青少年グループによるさまざまな犯罪が増加するという傾向は,この「ミッチー」騒動により一層深刻な問題となったのです。それなのに,カトリック教徒が9割を占めるこの国では,積極的なHIV/AIDS感染への予防策は打ち出されていません。

「マラ」と呼ばれるギャング・グループ

 市内の中心部から車で30分ほど郊外に向かうと,ビラヌエバ地域に到着します。そこにあるヘルスセンターを訪問しました(写真1)。この小さな公的ヘルスセンターは,1997年に開設されましたが,専従職員は,医師5名,歯科医師2名,看護婦2名,准看護婦9名,ソーシャルワーカー1名というメンバーで構成されています。
 ここのセンター長であるエルビア医師から話を聞くことができました。彼女は設立当初から所長を務めていますが,若く情熱あふれる女性でした。彼女によると,1万5000人以上をカバーするこのヘルスセンターには,毎日150名近い患者が訪れます。しかし,病気の患者だけではなく,「ケンカや拳銃によるケガと死亡のケースも多いのが特徴」だと言います。
 この地域には,水道が普及していないスラム地区を抱えているため,コレラの発生が他の地域に比べ,異常に多いことも特徴にあげられます。しかし,それ以上に深刻なのは,「マラ」と呼ばれるギャング・グループ(9-20歳くらいまでの少年たちで構成されている)の存在でした。ここには大きな2つのグループがあり,ケンカや拳銃の発砲,麻薬売買,レイプなどを引き起こし,社会問題となっているのです。
 HIV/AIDS感染経路ですが,麻薬は注射針を使用しない場合が多いことから,レイプと買売春によるものが主でした。しかも,レイプによる12-13歳の若年層の妊娠が増加し,その女子生徒たちのほとんどは妊娠後,学校をドロップアウトしているのです。警察も,「マラ」への対策部を設置して取り組んでいるものの,「状況は変わっていない」とのことでした。

地域に必要な人材とは

 話を聞きながら,私は本当に気が重くなりました。この地域の健康問題に取り組むことは,すなわち「少年犯罪」という大きな問題を抱えることになるのです。
 医療スタッフの1人は,巡回診療をしている時に,「マラ」とたびたび出くわします。ただ,その中の数人はケガなどの治療でヘルスセンターに来たことがあり,彼らが,たまたまそのスタッフの顔を見知っていたため,その地を無事に通り過ぎることができた,と言うのです。このような巡回診療を行なっている医療スタッフを支えているのは,地域住民の中から積極的に活動に参加しているボランティアの人々の姿でした(写真2)。
 このヘルスセンターでボランティアを続けている50代の女性は,「マラの子どもたちとは,根気強くつきあうこと。顔見知りになると,会えばちゃんと話しかけてくるようになる。そこから,ようやく次が始まるのよ」と,何年もかけて彼らとじっくり関わり続けることの必要性を説きます。また,別の女性は,教育問題について,「学校を途中で辞めない環境を作ることも必要で,学校と地域の協力がとても大切だと思う」と話してくれました。
 「マラ」が,地域にどのような影響を及ぼしているのかは,地域の人々がよくわかっています。しかし,その解決案を効果的に実践できる人材がいなければ,どんなにすばらしい計画が立てられても何も変化をもたらしません。これを頭に置いて,「プロジェクトは実践されることが理想なのだなあ」と自分自身を反省するのでした。