医学界新聞

 

 〔連載〕ChatBooth

 母との別れ

 馬庭恭子


(前回,8月27日付2450号よりつづく

 80歳の母が退院し,家に帰ってきた。退院以降,定期診察もしてくれて,必要時には往診も快く引き受けてくれる医師と,24時間連絡体制をとっている訪問看護婦さんとヘルパーさんという心強い味方があって,兄夫婦と一緒に母の介護を始めた。
 私も抗がん治療を終えて退院したばかりなので,「無理は禁物」とのことで,職場には介護休業届を出した。そして,母の介護を週3日担当することになった。兄夫婦も,少しずつ介護に慣れてきた。しかし,夜間1人暮しだった母の家に,3人が交代で泊まり込みをしながらという生活で,しかも仕事をするということは,身体的にも負担が大きかったと思う。それでもがんばれたのは,親であったからだ。
 私も深夜3時,朝方5時になると,おむつを換えに起きていたが,眠い目をこすりながらで,「あー,ゆっくり寝たいな」と思ったこともあった。実際,ハッと気がつくともう夜が白々と明けて,「しまった!」と跳び起きる。母のおむつにはたんまりと尿がしみこみ,ずっしりと重みが増している。
 「ごめん,ごめん」と,大慌てできれいにしようとすると,「いいんよ。眠いよね」と優しい。
 ある日,医師が診察しながら,「家に帰って何が一番いいですか?」と問う。すると母は,
 「そうですね。慣れない感じで息子がしてくれる朝げの準備の音がねぇ。その音を聞いている時が至福の時ですね」と答えた。確かに,在宅では家族の声や生活の音がいつもしていて,心が落ち着くことは,今までたくさんの訪問看護をしてきた私にも納得がいく。またそれを聞いて,「家に帰ってきてよかった」と安堵もした。
 母は,呼吸をするのが辛いながらも,酸素療法をし,きちんと食事を摂れていた。プリンをゆっくり口に入れていると,
 「おいしいものを食べながら,親子水入らずでおしゃべりできるのは楽しいね」と言う。
 父が亡くなって7年。いくら,私たちが市内に住んでいるとはいうものの,その後の1人暮らしは1日が長く感じられただろう。そんな中で洋裁をしたり,絵を描いたり,本を読んだりと,それなりの生活を楽しんではいたのだが,寂しかったのだろうと,胸がきゅんとなった。
 それから3か月。私たちの介護を受けながら,母は旅立った。箪笥の中には,母の字で「旅立ち一式」と書かれた着物入れがあり,そこには,祖父母が母のお嫁入りの時にしつらえた紋付の着物と,自分で縫った白装束があった。
 また,「お願いごと」が便箋に箇条書きで書いてあり,
 「霊柩車はピカピカなのはいやなので,黒塗りの車にして」
 「香典,お供えはお断りするように」
 「親戚など入れて,弁当は30個あれば十分。1個3,000円くらいのものを注文すること。注文先は,仕出し屋の千鳥へ」……など,ことこまかにしたためてある。
 「ふーん。弁当の値段までねぇ」と,その用意周到さに驚いてしまったが,母らしい80年の人生の幕閉じだった。
 振り返れば,心残りはたくさんある。想い出もたくさんある。しかし,このかけがいのない日々を過ごしたことはすべて,みんなの心に刻まれている。