医学界新聞

 

兵庫県立看護大学第8回国際セミナー
「看護における東洋的『知』」に参加して

金城祥教(静岡県立大学教授・精神看護学)


 兵庫県立看護大学第8回国際セミナー「看護における東洋的『知』」が,さる9月22-23日の両日,兵庫県明石市の同大学講堂で開催された。
 同国際セミナーでは,講演1「21世紀での東洋医学-臨床的有用性と経済性」(北里大名誉教授・日本東洋医学会長 石橋晃氏),同2「看護実践の新しいパラダイムを求めて-儒教と解釈学的ナラティブとの統合」(韓国・ソウル女子看護大教授 雀男熙氏)の他,「実践報告と実演-東洋医学の実際」(座長=兵庫県立看護大講師 勝原裕美子氏,演者=中国・福建中医学院附属人民医院看護部長 陳錦秀氏,高知医大助教授 千浦淑子氏,兵庫県立東洋医学研究所副所長 長瀬千秋氏),およびパネルディスカッション「代替相補医療とエビデンス」(座長=兵庫県立看護大助教授 川口孝泰氏,演者=陳錦秀氏,千浦淑子氏,長瀬千秋氏)が企画された。
 本紙では,本国際セミナーに参加をした金城祥教氏(静岡県立大教授)から,海外からの講師である雀氏および陳氏の講演を中心に報告をいただいた。(本紙編集室)


東洋の「知」を探るプログラム

 さる9月22-23日の両日に開催された,兵庫県立看護大学が主催する第8回国際セミナー「看護における東洋的『知』」に参加する機会を得た。
 開催にあたり,同大学の南裕子学長から,「わが国の看護実践において,日本の文化に根ざした理論開発が求められている」という趣旨の挨拶があり,引き続き企画者である石井誠士氏(同大・哲学科)から「東洋の知を人類の1つの知として見つめて討論しましょう」との説明があった。本国際セミナーでは,2日間にわたり講演とパネルディスカッション,そしてツボや鍼灸などのデモンストレーションなど多彩なプログラムが企画された。

東洋医学の実際

 初日には,石橋晃氏による,わが国における東洋医学の臨床的有用性と経済性についての講演が行なわれた。続いて企画された,「東洋医学の実際」と題した実践報告と実演のセッションでは,中国の陳錦秀氏が,「中国の東洋医学院における看護の実際」を講演。氏は,中国の看護は中医(東洋医学)の中に看護の理論を構築し,実践していることを報告した。
 また,2日目には,韓国の雀男熙氏が「看護実践の新しいパラダイムを求めて-儒教と解釈学的ナラティブとの統合」と題して講演した。ただ,氏は前半の儒教などの基本的な理念説明に時間を割いたために,表題の全体像を語るまでの時間が足りなくなり,後半部分を十分に聴くことができなかったのが残念であった。

東洋医学と看護の接点

 今回の国際セミナーは,看護理論に関心を持つ私にとって,大変興味深いものがあった。陳氏,雀氏の講演内容は十分な理解にまでは至らなかったが,特に私が興味を引かれたのは次のようなことであった。
 1つには,中医を基本にした看護診断において,人間の健康を全体的に診ていく方法はフィジカルアセスメントよりもホリスティックであるように思えた。わが国の看護基礎教育では,フィジカルアセスメントは教えていても精神情緒状態のアセスメントを教えることはまれである。そのことからわかるように,心身一元論に基づく看護診断のほうが,人間をより全体的に学べることが示唆された。
 一方,雀氏の話からは,韓国における文化に根ざした看護理論の実践と開発が示され,その内容には目を見張るものがあった。また韓国での看護教育にも関心させられた。
 例えば,看護学生は教室で「健康に関する知識」を学ぶと,家に帰り家族に対してすぐにそれを応用するとのこと。「わかるとは行動に移すことである」という儒教の教えは,知識を単に所用していることも「理解のうち」に含めている日本の教育者には衝撃であったに違いない。「知」と「生」が,時として乖離しがちなわが国の看護教育(教育全般に言えることなのだが)の中に身を置いている私にとっては衝撃的な指摘であった。
 日本文化の中で育った私の身体は,細胞の1つひとつにその文化の経絡を張り巡らしている。無意識に動くその行動は,日本という文化に根ざしたものであるにもかかわらず,行動(看護実践)を説明する時には,西洋の知(アメリカの看護理論)を使ってしか表現(説明)できないもどかしさをずっと感じていた。
 陳氏と雀氏の話に懐かしさを感じたのは,両氏の話に私の細胞が「シンクロナイズ」(石川光男『生命思考』TBSブリタニカ,1986年)したからであろうか。日本人の健康を生きる知恵の源流を訪ねることができたような,そんな懐かしさが感じられた今回のセミナーであった。中国にしろ韓国にしろ,日本と同様にアメリカから看護を学びながらも,自らの持つ文化に根ざした看護理論を着実に構築していることには驚きであった。日本のモノマネ文化を産み出す能力の卓越さには敬服しているものの,その独創性のなさには日本の知識人の貧困さを感じる。

東洋の知は看護に役立つのか

 今回の国際セミナーは,例年よりも参加者が少ないとのことであった。日本の看護者が,東洋の知よりも西洋(特にアメリカの看護)から多くの情報を得てきた歴史的な経緯(日本人の癖)の一端なのだろうと,私にとってその事実はそう驚くことでもなかった。しかしその一方で,若い看護者や看護学生(大学院生)の参加が目立ったようにも思えた。
 東洋の知を生きているこの身体,反応する身体,その身体の動きをなぜか頭脳は西洋の知でしか理解(説明)しようとしない。その結果,多くの看護者はその言語的表現においてもどかしさをいつも経験してきたのではなかろうか。日本のベテラン看護婦の身体に蓄積されていた看護技術の1つが,アメリカにおいて「セラピューティックタッチ」として理論化されて再輸入されてきた時に感じられたことではあるが,東洋の文化を生きているこの身体の動きを分節化する「ことば」を見出す能力が看護の大学人にはなかったのであろう。
 この例からもわかるように,今,私たちには「健康を生きる身体」「看護を生きる身体」から知を紡ぎ出すことが求められている。そして言葉にならない「知」を暗黙知として片づけてしまいがちであるが,しかしながら東洋の知の中に,私たち看護者が自らの実践を表現できる豊かな「ことば=知」が埋もれているような気がしてならなかった。
 身体のパフォーマンスに関心を持つ若い世代の間で,「心と身体の統合理論」がこの21世紀の時代には育つような気もした。今回のセミナーに参加して大いなる可能性への「芽生え」とそのチャレンジを感じることができた。