医学界新聞

 

「オスラー・ライブラリー」開設


 日野原重明氏(日本オスラー協会会長)は,『医の道を求めて-ウィリアム・オスラー博士の生涯に学ぶ』(医学書院刊)の中で,オスラーならびに「オスラー協会」について次のように記している。
 「この書は,臨床医・医学研究者・教師として,またヒューマニストとして,医学生や患者を心から愛して70年の生涯を終えたカナダ生まれの医人ウィリアム・オスラー卿の伝記である。(略)
 私はアメリカ合衆国との講和条約が結ばれた1951年秋に,アメリカ合衆国に初めて船で渡り,ジョージア州アトランタのエモリー大学に1年間留学した。その後,今日までアメリカ合衆国,カナダ,英国を何回も訪れ,オスラー研究者の集まりであるアメリカ・オスラー協会や英国のロンドン・オスラー・クラブの同志と触れることができた。そのたびに,オスラーの遺した偉業のすばらしさとオスラーの精神の人から人への伝承の事実をこの身にひしひしと感じ取ってきた。私は日本オスラー協会を1983年に設立し,以来毎年総会をもち,その会には英米からオスラー研究者を招聘している」
 第19回日本オスラー協会総会では,講演「オスラー博士と日野原先生と私」,ビデオ「Willieの夢」,「阿部正和先生からのメッセージ」,「弘前大学医学部図書館のオスラー展」に続き,本年7月デューク大学出版部から刊行された英文のオスラーの講演集注解書『OSLER's “A Way of Life" and Other Addresses, with Commentary & Annotations』を紹介。終了後に聖路加国際病院設立100年記念事業の一環である「オスラー・ライブラリー」開設の先行披露が行なわれた。


「オスラー博士と日野原先生と私」

 日野原氏の「開会の挨拶」に続いて,吉田修氏(京大名誉教授・奈良県立医科大学学長)は,「オスラー博士と日野原先生と私」と題する講演で,オスラー博士のサインをめぐる次のような貴重なエピソードを紹介した。

「オスラー博士のサイン」と唯一の日本人の弟子

 吉田氏によれば,ウィリアム・オスラーは日本を1度も訪れたことはないが,ただ1人だけ,「佐伯理一郎」という日本人の弟子がいた。佐伯氏は1862年に熊本に生まれ,熊本医学校を卒業後,海軍軍医となり,25歳の時に,わが国最初の海軍省留学生として,アメリカおよびヨーロッパに留学した。佐伯氏がフィラデルフィアに滞在し,ペンシルベニア大学で臨床医学を修めたのは,1887年1月から4月までで,この間にオスラー博士の教えを受けたのである。そして,その後ヨーロッパに渡り,ミュンヘン大学などで産婦人科学を研修して帰国した佐伯氏は,幾多の経緯を経て京都に移り,以後産婦人科医として活躍し,1953年92歳でその生涯を閉じた。
 その史実を知った吉田氏は,ある時,「京都産院」を継承している令孫の佐伯義一氏を訪れ,理一郎氏のペンシルベニア大学の卒業証書を見せて貰い,オスラー博士のサインを確認する機会を得た。ところが,オスラー博士のサインはどう見ても「William Osler」ではなく,「Guliemus Osler M. D. Med. Clin. Prof.」となっている。
 釈然としなかった吉田氏は,さっそく日野原氏に電話をかけて,このことを質問すると,「調べてみます」と約束された。しばらくすると,日野原氏からアメリカ・オスラー協会からの手紙のコピーが送られ,そこには,「GuliemusはWilliamのラテン語であって,間違いなくオスラー博士のサインである」と記されていたのである。
 吉田氏は,あらためて会場の日野原氏に 往時の謝辞を述べるともに,「オスラー博士と日野原先生と私」というユニークな表題の由来を解題して講演を締めくくった。
 続いて「阿部正和氏(慈恵医大名誉教授)からのメッセージ」(代読=櫻井健司氏)では,オスラー博士(1849-1919)と同時期に活躍した慈恵医大の創設者高木兼寛氏(1849-1920)が後世に遺した,洋の東西を問わぬ偉業が称えられた。


『OSLER's “A Way of Life” and Other Addresses,
with Commentary and Annotations』

 「オスラーの思想やオスラーによる医術(アート)と科学(サイエンス)は,直接オスラーの弟子として長生きした少数の人々,さらに多数の英米の孫弟子によって後世に伝えられてきたが,私は日本における若い世代の医療専門職に携わる人々にも,文章となって遺されたオスラーの言葉と精神とが強い感化を及ぼすことを切望する」という日野原氏の言葉どおり,今回の英文による注解書の底本となった『平静の心-オスラー博士講演集』(医学書院刊)は,「日本オスラー協会」が発会した1983年に刊行されて以来,現在も医師のみならず,医学生,看護職など医療従事者の間で幅広く読み継がれている。

30年におよぶ畢生の著作

 日野原氏は同書で,仁木久恵氏(前聖路加看護大教授)を共訳者として迎えた経緯を次のように述べている。
 「オスラーの文章には難解な部分があり,さらにギリシャ,ローマの古典,旧約および新約聖書からの引用,中世から近世にわたる欧米の文学や哲学,トマス・ブラウン,テニスン,シェイクスピアの作品などが講演の至る所に引用されており,その出典の意義を理解することなしには,オスラーの言わんとする所を正しく把握することが困難であると知ったので,シェイクスピアを研究しておられ,英米文学に詳しい仁木久恵教授を共訳者としてお願いした」
 そして,「翻訳する作業を10年前から始めた」と記している。つまり溯れば,『平静の心』の発刊直後から始めた今回の英文の注解書は,さらに20年弱,延べ30年の歳月を要したことになる。
 今回の総会では,この実り多い労苦を共にした仁木氏を壇上に招き上げ,発刊を喜ぶともに感謝と慰労の言葉を贈った。

今日に生きるオスラー博士

 日野原氏は,1993年に発刊した前掲『医の道を求めて』の「生涯の終焉」の章を,今日の「オスラー・ライブラリー」開設を示唆するように次の言葉で結んでいる。
 「今日,英国には1929年創立のロンドン・オスラー・クラブがある。またカナダとアメリカ合衆国には,1970年創立のアメリカ・オスラー協会がある。日本にも1983年に発足した日本オスラー協会がある。いずれもオスラーを愛し,慕い,尊敬する同好の士による会である。
 そして,オスラーの蔵書の大部分が残されているモントリオールのマギル大学図書館のオスラー記念図書室には,世界中から彼を慕う人々が今日なお数多く訪れている。彼は医業を真に愛した。彼は,彼のように生涯をかけて学び続ける世界の医学徒とともに,また病者の心とともに,今日もなお生きているといえよう」

 

●『OSLER's “A Way of Life” and Other Addresses, with Commentary and Annotations』(カッコ内の訳は『平静の心』より)
《Chronology of Sir William Osler's Life》
(1)A Way of Life(生き方)
(2)Aequanimitas(平静の心)
(3)Sir Thomas Browne(トマス・ブラウン卿)
(4)The Old Humanities and the New Sciences(古き人文学と新しい科学)
(5)Doctor and Nurse(医師と看護婦)
(6)Teacher and Student(教師と学生)
(7)Physic and Physicians as Depicted in Plato(プラトンが描いた医術と医師)
(8)The Leaven of Science(科学のパン種)
(9)Teaching and Thinking(教えることと考えること)
(10)Nurse and Patient(看護婦と患者)
(11)After Twenty-Five Years(25年後に)
(12)Book and Men(本と人)
(13)Chauvinism in Medicine
(14)The Master-Word in Medicine(医学の座右銘)
(15)The Hospital as a College(病院は大学である)
(16)The Fixed Period(定年の時期)
(17)The Student Life(学究生活)
(18)Unity, Peace, and Concord(結束,平和,ならびに協調)
(19)L'envoi(結びの言葉)
(20)Man's Redemption
《Bed-Side Library for Medical Students》