医学界新聞

 

連載 第5回

医療におけるIT革命-Computerized Medicineの到来

(5)人体の弾性をはかるSensible Human Project

高橋 隆(京都大学附属病院教授・医療情報部)

2448号よりつづく

 1986年,米国国立医学図書館によるVisible Human Projectは,男女2体の全身の巨視的な人体輪切り断面の写真,およびCT画像やMR画像データ(Visible Human Data:VHD)を世界に供給し,医療用ヴァーチャル・リアリティ(VR)のための3次元画像技法の開発や手術シミュレーション用人体立体モデルの開発に大いに貢献した。しかし提供されたデータは人体臓器の位置データのみであり,手術シミュレーションやロボット外科に必要な,術者への触覚フィードバック用生体弾性データは含まれていない。すなわち,現在医療用VRにおいて最も不足している情報の1つは,生体組織からの硬さや弾力などの触感と接触に基づく臓器の変形である。
 そこで筆者らは,人体の弾性率データをVHDのような形で提供できるSensible Human Data(SHD)構築のための「Sensible Human Project(SHP)」を計画した。

SHPとは何か

 SHPは1998年4月より科学技術庁科学振興調整費による「省際ネットワークを利用した医療研究支援アプリケーションの調査研究」として,2000年3月まで実施された。以下の3グループから構成される。
Aグループ:MR Elastography(MRE)による生体弾性データの計測と解析およびその計測データの検証
Bグループ:データベース(DB)化による解剖モデルの作成とデータの認識およびその公開方法の研究
Cグループ:生体弾性データSHDの医療VRへの応用展開の研究
 Aグループでは,本研究の基礎となるMRE法による組織弾性データを得るために,MRI装置内での人体加振システムと生体組織のMRE画像計測の撮影法を開発。また,MRE画像の局所波長を計測,弾性率を計算した。
 一方,in vitroで生体組織の弾性測定を行なう標準物質に,Poly Vinil Alcohol(PVA)ゲルを選び,これを用いて従来の機械的測定による弾性計測値とMRE法計測値とを比較,両者の一致を確認した。
 Bグループでは,解剖学的な概念ごとにオブジェクト表現できる手法として,生体構造物の3次元表現のために,画像データとともに位置や撮影倍率などの情報をDB化し,効率的な作業用アプリケーションを開発した。
 またCT画像,MR画像から尤度比判定に基づく肝臓の領域抽出・認識する方法を開発した。
 DB作成用ツールとしては,解剖学的構造物とその弾性や機能を一体として汎用的なリレーショナルDBに格納する新たなアーキテクチャーを提案し,フレームワーク技術により実現した。
 データ公開についてはインターネット利用を想定,セキュリティシステムを構築した。次いでIPv6によるシステムを構築,そのセキュリティ機能の有用性を検証した。
 Cグループでは,3軸のパラレルリンク機構による3軸の力覚フィードバックを実現,軽量化と低フリクションの国内初のハプティックデバイスを開発した。
 また,VRモデルとしてCT画像やMR画像を想定した仮想臓器を作成し,臓器ごとのデータ量や弾性係数についてモデル化した。これにより医療VRモデルの特徴は形態表現の詳細性,血管・神経・骨と腫瘍とのセグメンテーション,腫瘍や血管の触感の表現にリアルタイム性が重要であることを検証した。
 触感装置との対話では,システムの反力応答の遅延を計算機処理時間,ネットワーク伝送遅延およびシステム割り込み等の不規則遅延に分離,その許容遅延時間を心理実験,それぞれ4.2ms,29.1ms,45-60msの値を得た。この結果,将来の遠隔手術時,遠隔患者に触れる手術器具からの触感の術者へのフィードバック許容時間に関する指針を得た。

SHPの波及効果・発展性

 MRE法の開発はリアルな医療VRモデルのための弾性データ取得にあった。しかしながら得られる触感データは,本来触診という臨床医療の原点に関係するものであり,触診という経験を要し,また他人(経験の浅い医師や医学生)への伝授が困難な感覚を,視覚データに置き換えたり,あるいはハプティックデバイスを通じて触覚の共有を可能とすることにつながる。したがって臨床診断あるいは医学教育等への応用展開が期待できる。

SHDの医療応用

 触覚情報を計算機的に表現可能になると,今まで形状表現のみであった医用システムや医用アプリケーションの範囲が大きく広がる。
 その代表的な例として,乳癌検診の自己検診学習用のアプリケーションがある。自己検診の方法はパンフレットやインターネットのホームページで提供されているが,実施に際しては参照用の腫瘤の硬さの提供が望ましい。乳癌やリンパ節の部位と硬さをSHDから再構成し,インターネット上で利用できる検診用アプリケーションの提供により実現可能となろう。
 また,臨床診断法として今までの視診,触診,聴診等だけでなく,体表から通常では不可触で開腹・開胸時に触診するような癌浸潤部位や肝硬変,脳軟化巣,動脈硬化等も触診可能となる。手術時の縫合部分や摘出部分の術前診断を行なう上で有用性が高い。特にVirtual Endoscopy時にポリープや潰瘍,癌の浸潤部位,血管内視鏡の場合の狭窄や動脈硬化病変を触診し,映像所見と融合させることは,新しい診断方法となる可能性が高い。
 SHDを用いた手術訓練システムが開発されることで,基本手技の習得支援が標準プログラム化され,患者側のリスクを減少させることが期待される。また,医師の技能適性検査としての有用性も高い。
 手術治療後の評価についても,血管吻合部や腸管の吻合部の状態診断や,移植臓器の状態,放射線治療や薬物療法時の効果の判定への利用なども考え得る。

Sensible HumanからDigital Humanへ

 医療用VRモデルをさらにリアリティを増すためには,より多くの生体表現データの付与が必要となる。各voxelに物性,生理,生化学などすべての生体情報を付与し,それらのDB化,いわば人体のGIS(Geographical Information System)の作成が必要となる。このDigital Humanによるシミュレーションにより,大いなる医学への貢献が期待できる。これはいわば「Digital Human Project」とも呼ばれるべきもので,米国では2000年に,類似の「Virtual Human Project」が立ち上がっている。これと手を携えてでも,早くプロジェクトを推進すべきと考える。

図 2層PVAゲルのMRE
濃度差のあるPVAゲル(10%と7.5%)を(a)のように配置し,250Hzの振動を与えた時のT2イメージ(b)とMRE(c)および弾性率分布図(d)。(c)においてPVA含有率の高い(触感的には堅い)ほうが振動波長が長く,弾性率が低いことを示す