医学界新聞

 

 〔連載〕ChatBooth

 「ドジ」の話

 加納佳代子



 私は,自分でもあきれるほどのドジである。
 その日の前夜は,フェニーチェ歌劇団のオペラを聴きに行ったので,帰宅は午前様だった。朝起きてテレビをつけると6時32分。あわてていつもの朝の行動を開始した。パソコン起動に始まり,洗濯,コーヒー,トイレ,シャワー,朝食,化粧,新聞,持ち物そろえ,家族を起こす……この一連の動きは,いつもは5時すぎから7時15分まで,出勤の途中に捨てるごみを持って,玄関を出るまで続く。テレビを横目で見つつ,「今,何分」かを確認し,それぞれの時間配分を延ばしたり縮めたりしている。
 その日も,少々急いだもののいつものように出勤。1駅歩いて,いつものホームから走りこんで電車に乗る。うまく座れていつもの駅で降りた。ところが,いつもいるはずの病院バスが停まっていない。おまけになんとなくいつもの駅前と雰囲気が違う。バスを待つ病院の職員も1人もいない……。
 ここで時計を見ると7時2分。
 「エッ,まさか!」
 通行人に時間を尋ねてみても,「7時2分」……そう,私は朝起きた時から,5時32分を6時32分だと思い込み,何度か時間を確認していたにもかかわらず,何分かだけを見て,いつもの行動を少しあわてて,いつもの通りにしていたのだった。確かに私は近眼で,思い込みの激しい人間であり,梅雨明けの朝の日差しは強かった。しかし,われながらこんなにドジだとは思わなかった。しかたなく駅からタクシーに乗り,病院に向かう道々考えた。疲れた頭を乗せた身体は,いつもの行動を,こんなにも惰性でやってしまうものなのだ。頭を働かせずに勝手に身体が反応し動いている。これがヒューマンエラーというものだ。こうやって事故は起こるべくして起こるのだ,と。
 この論理を人に話すと,「そんなドジはあなただけよ」というのが大半の見解ではあった。しかし,「なんかちょっと変だ」と思いつつも,いつもの行動をとってしまった結果,信じられないような出来事が起こるということは,彼らの誰もが経験していたことでもあった。
 身体にしっかりと刻まれた動きは,痴呆になっても発揮される。
 便をこねていた人は,お団子屋さんだった。粘土をさしあげたら,一生懸命お団子を作り続けた。デイルームにあるテーブルの脚のパイプを,ねじってはずしてしまう人は水道屋さんだった。今,言ったことも,今,やったこともすぐにその場で忘れ,ちぐはぐな行動をとる人を,もう店を閉じてしまった自宅の床屋につれていってあげた時のこと。彼は,ひょいとタバコを口にくわえたのだが,その姿は床屋のおやじの絵になっていた。歌や踊りもみんなで一緒,なんてことには見向きもしない人が,割烹着を着せてあげたらがぜん働き者になって,いそいそと他の人のお世話をした。左胸をいつもこすっている人は,背広のポケットにメガネを入れていたのでそれを探しているだけだった……。
 つまりは,ドジな私と変わらない。