医学界新聞

 

連載 MGHのクリニカル・クラークシップ

第19回

[患者列伝その4]長距離バスの乗客

田中まゆみ(イエール大学ブリッジポート病院・内科小児科レジデント)


2441号よりつづく


MGH図書館内の一角に設けられたMedia Center
クラークシップを開始する医学生や新任の研修医はここでコンピュータによる患者データへのアクセス方法を習得し,修了するとログイン暗号がもらえる。
 「オハイオを過ぎた頃から胸痛がだんだんひどくなってきて……」,「どんな痛みでしたか?」,「かなてこで締めつけられるような,胸の上に象が乗っているような……」
 2月だというのに汗まみれになるほどの悪心,嘔吐,肩から腕への放散痛,と,彼が時おり顔をゆがめながら話す現病歴は,典型的な虚血性心疾患のそれであった。中西部の大都市から,長距離バスに乗ってボストンにいる姉に会いに来る道中に,突然の胸痛発作に見舞われたという,40代の気の弱そうな男性であった。
 「どうして途中で降りなかったんですか?」,「そんなに重症だとは思わなかったんです。でも,ボストンに近づくにつれて痛みはひどくなって,着くやいなやたまらずER(救急外来)に駆け込んだわけです。心電図は正常だけど,念のために一晩観察入院が必要だって言われたんですが,血液検査の結果はまだ出ないんですか?」

教科書通りの入院患者

 「当直の晩に,こんな教科書みたいな症例に当たるなんて,ラッキー」と,私は思った。きっとトロポニンやCKMB()は上昇しており,心電図変化も出てくるだろう。いや,心電図は正常でも,ストレスエコーは実施しなくては……。何しろ,これだけ症状が揃っている上,煙草のみで高コレステロール血症もあり,父親は40代で心臓発作で死亡,ときているのだ。
 翌朝のチーム回診の時に,「病歴が上出来の入院患者はいないか?」とチームリーダーに尋ねられて,「いますとも」と,意気揚揚と報告したのは言うまでもない。
 「ほんとに教科書どおりだなあ,心電図や酵素は?」,「それが,正常なんです」と,私は少ししょげた声になったが(患者のためにはよいことなのだが),自分を励ますように,「でも,ハイリスクだし,安静時の胸痛で不安定狭心症の疑いがありますから,ストレステストを予定しています」と胸を張った。
 「ふん,ふん」とうなづきながら,彼は回診の合間にあちこち電話をかけたり忙しそうにしていたが,受話器から顔をあげながら,「この症例を教官回診でプレゼンテーションしてくれる?」と私に声をかけてくれた。「やった!」私は張り切って,何度も患者さんの病室に足を運んで,改めて詳しい症状の補足を求め,身体所見ももう一度念を入れて取り直し,留意すべき陰性所見を強調するように表現を書き直したり,検査値の暗記に余念がなかった。

「ちょっと典型的すぎて……」

 いよいよ症例提示。ドキドキしながらも,前の症例提示の時に「時間オーバー」と注意されたので,茶目っ気たっぷりにタイマーをデンと目の前に置いて皆を笑わせながら,何とか無事終えることができた。教官もにこにこしている。そこへやおらチームリーダーが切り出した。
 「確かに典型的な狭心痛に思えるけど,ちょっと典型的すぎて話が出来すぎに思えてね。ボストンにいるっていうお姉さんに電話してみたんだ」
 「そしたら,この患者は最近何度目かの事業に失敗したそうでね,自分を頼ってボストンに来るっていうから,来ても何にもしてやれない,と断ったばかりだ,と言うんだ。今夜泊まる場所もない,と泣きついたので,病院の救急に行けば一晩泊めてくれるよ,と皮肉のつもりで言った,まさか本当にそこまで文無しだったとは,と絶句していた。家族に心臓病の者なんかいないってさ。虚言癖があって借金だらけのいわば性格破綻者だから,関わりあいになりたくない,入院保証人に勝手に名前を記入されても困る,払う気はない,とガチャンと電話を切られてしまったよ。それから病室に行って,『お姉さんと話しました』って言ったら,見るからに狼狽していた……」
 一夜の暖かいベッドを求めての狂言だったとは……。私は,それでも半信半疑で,病室に検査結果を報告しに行った。
 「検査結果はすべて正常でしたが,お話から,不安定狭心症といって,心筋梗塞の一歩手前の状態である可能性があるので,24時間以上胸痛がおさまっている状態で念のためにストレステストをしたいと思います。そうすると,さらに冠動脈カテーテル検査が必要かどうか判断できますので……。トレッドミル,できそうですか?もちろん,胸痛が起こればその時点で中止しますし,万一の場合にはすぐカテーテルによる血管形成術,必要なら緊急のバイパス手術もできる万全のバックアップ体制で臨みます。ストレステストが陰性なら,退院です。ただし,もし24時間以内に安静時胸痛がぶり返せば,ストレステストは中止して冠動脈カテーテル検査を行ないます。そうならないことを願っていますが」
 彼は,ちょっと上目づかいに私のほうを見て,「ありがとう」とぽつんと言った。
 「何かご質問はありますか」,「いや,ありません」
 それから30分ほどして,チームリーダーが得意満面で飛んできた。
 「やった,あの患者,AMA(Against Medical Advise,自己退院)にサインして出てったぜ。何て言って白状させたの?」

「患者を信じたんだから悪くない」

 チームのみんなは,「こういう患者,冬場はしょっちゅう来るのよ。そのうち慣れれば嘘かどうか何となくピンとくるようになるから」と慰めてくれたが,家に帰ってからも,患者の嘘を見抜けず鵜呑みにした自分の間抜けさ加減にしばらく落ち込んでいた。
 救いは,話を聞いた家族が,笑うと思いきや意外にも「お母さんは患者を信じたんだから悪くない」と真剣に支持してくれたことだった。「そのチームリーダーが意地悪すぎる。ひどいよ」
 そうだろうか。彼が嘘を暴いて似非患者を追い出したおかげで,MGH(マサチューセッツ総合病院)は入院料金を踏み倒される被害が最小限に抑えられたことは確かである。

:トロポニン値,CKMB値,いずれも心筋損傷に特異的に上昇する心筋梗塞のマーカー