医学界新聞

 

〔投稿〕日米保健医療シンポジウム開催

「医学教育」をめぐり日米の違いを考える

永井恒志(金沢医科大学・5年)


 さる5月19-21日の3日間にわたり,本年で9回目となる日米保健医療シンポジウムが開催された。私はそのうちの学生セッションで主に広報を担当した。学生セッションは昨年に続き,2度目の企画であるが,今回は昨年と異なり,全国規模での学生参加となった。
 本年の学生セッションのテーマは「医学教育」である。米国からはハーバード大学医学部の学生と教員が来日し,日米双方の医学教育事情を比較しながら討論を重ね,主に日本における具体的問題点について意見を交換した。
 本シンポジウムを経て私が個人的に考えたことを綴ってみたので,ここにご報告したい。ただし,これはまったくの私見であることも予めお断りしておきたい。


 

 

互いの常識・非常識

 今回,私が最も気になったことは,日米間で質問とそれに対する回答で,論点の食い違いが非常に多くみられたことだ。その理由として同時通訳を介しての意見交換であったことがあげられるが,私にはそれだけが原因ではないように感じられた。
 ハーバード大学のある外科学教授は次のように意見された。
 「学生を評価するのと同じように,教育者としての私が被教育者である学生に評価されるのは,実に自然なことだ」
 彼は平然とこう述べたが,大教授がごく当たり前のようにそう話す姿そのものがすでに,日本の医学生である私には実に不自然に映った。そこで私はこう質問した。
 「日本で,少なくとも私の知る環境で先生が仰しゃるようなことを言えば,下手をすればオペ中に刺されかねません。こういった状況に関して先生はどのように感じられますか?」
 大先生のご返答は次のようだった。彼は得意気にこう言った。
 「教育者として高い評価を受けることは大変な名誉である。そしてその功績は外科医としての仕事にも影響する」
 微妙に論点がずれているが,私はその時「なるほど」と1つの考えが浮かんだ。日米双方でお互いにお互いの常識を持っているので,そもそも各々が問題点として捉えていることがかなり異なっている。逆に言えば「そんなことはあり得ない」と想像だにしていないことが,相手国の中では常識であったりするのだ。その差が質問と回答との論点のずれとして如実に表れているのではないだろうか。シンポジウムでは,残念ながらその常識の違いまで細かく分析している時間的余裕はない。
 本当は,この点を明らかにする作業こそ,日米両国における問題点の本質に迫る最も有効な手段であると思うのだが,簡単な作業ではないように思う。

見せつけられた「器」の違い

 常識の違いは医学生の雰囲気そのものにも表れていた。ハーバード大学の医学生たちは,第1やたらに落ち着き払っている。実際年齢も上であるが,日本の医学生と並んでいると大人と子どものように見える。医学生たちのback groundも多彩で,イスラエルで医学を学んだことのある青年もいれば,空軍出身の男もいる。また子持ちで以前教師をしていたパパもいる。
 ハーバード大学の医学生の圧倒的な経験の豊富さは,日を見るより明らかである。何事についても彼らのほうが「器」が大きいような気がした。あらゆる面で,あまりにも常識が異なっているので,論点が食い違っても徐々にそれが当然のように思えてきた。私はこの「論点ずれまくり」の大討論会の中,この人間的「器」の差はどこからくるのだろうかと1人思索の旅に出てしまった。その考察は次のようなものである。
 病に苦しむ生身の人間を相手とする臨床家には,人間としてのある程度の成熟が必要である。しかし,この成熟とはすなわち内的成長であるので,この達成のためには多くの経験と年齢を重ねることが必要となる。医学の知識自体は内的成長とは一切関係なく存在するので,臨床家になるためには,人間的成熟のための時間と医学知識を習得するための双方の時間が必要である。したがって,米国における一般大学4年間+医学部4年間というシステムは理にかなっていると言える。

内面的な成長という困難な課題

 一方,日本では高校を18歳で卒業してからすぐに大学医学部に入学し,6年後には1人の医師として,社会人として,患者を診なければならない。しかも,ほとんどの患者は,その医師よりも人生経験が遥かに豊かであり,人間としての内的成長も進んでいる。さらに次々と現れる患者は,皆それぞれ別個の人間であるから,医師が相手をしなければならない世界は果てしなく広い。
 人間として遥かに深みのある患者を相手に,人生経験の乏しい新米医師が患者―医師間に「対等な」信頼関係を結ばなければならない。またその上に,医師として人生の大先輩である患者のメンタル・ケアにまで気を配らねばならない。まともに考えればこれは大変なことである。大学医学部6年間で,人間としての内的成長と医学知識の獲得の両方を,同時に要求されているわけだ。しかも運の悪いことに,この6年間は人生の内でも最も多感な時期に当たる。その時期に緻密に練りあげられた大学の医学教育カリキュラムによってギチギチに縛りあげられ,その上で課外活動として内的成長を達成しなければならないのだからたまらない。
 結局,日本の社会は,普通の人間には達成がきわめて困難な課題を医学生に要求していることになる。日米における医師になるまでにかかる時間の差はストレートでたった2年間である。しかし,まったく医学と関係のないところで4年間の経験を積んだ後に医学に打ち込む4年間を送るのと,高校を卒業したばかりの未成年者が最初から医学修得用のカリキュラムに縛られながら6年間を過ごすのでは,単純計算にすれば差はたった2年間であるが,内的成長という面で見れば大変大きな差であろうと思われる。

問題はシステムそのものにある

 「米国は多民族国家であるから」,という「国民性起源論」のような言い回しをよく耳にする。しかし,これは「だから米国人は優れている」ということを意味するわけではない。私は個人的にはどこの国においても18歳は18歳だろうと思っているし,人間としての資質の差は個人の問題であって,国民や民族という十把一からげな枠組みで捉えるのは不適切であると思っている。
 仮に米国人が日本の教育カリキュラムの下で医学を学べば,やはり日本の現状と同じような問題が生じてくるであろう。同じ医学生としての「器」の差は,決して本来備わっている人間としての質の差によるものではない。したがって問題は社会的システムそのものにあるとしか考えられない。
 あまりの「器」の差に不安になって出発した旅だったが,ここまで考えが至って急に気が楽になった。自分の能力不足でないことが判明したからだ。
 当初期待していたような展開とはやや異なる内容となったものの,私は米国の医学部というまったく異質な文化と,じかに医学教育について対話を持てた経験そのものを,大変貴重な財産だと思っている。これからもますますこうした交流が増えることを望んでいるし,積極的にそういった交流に参加していきたいと思う。