医学界新聞

 

連載 MGHのクリニカル・クラークシップ

第17回

[患者列伝その2]歩行失調の老婦人

田中まゆみ(イエール大学ブリッジポート病院・内科小児科レジデント)


2434号よりつづく

 S夫人は,息苦しさと悪心を訴えてER(救急外来)を受診,心電図検査で頻脈を伴う心房細動が発見され,入院となった70歳代の老婦人であった。
 「受診時,血圧は安定しており,発症時期不明のため,電気ショックは行なわず,抗不整脈薬を開始。頻脈は消失するも心房細動は消失せず,入院となりました。既往歴・薬剤・アレルギー歴・家族歴に特記すべきことなし。社会歴は,1人暮しだが近所に娘さんが住んでいて,ときどき様子を見に来るそうです」
 「喫煙歴なし,アルコールは晩酌程度。麻薬歴なし。体重変化なし。食欲・睡眠良好。便通やや下痢ぎみ。血便・タール便はなし。夜間の呼吸困難や下肢の浮腫に気づいたことなし。歩行時の呼吸困難もなし。ただ,娘さんは近所の人から,『最近S夫人の歩き方が不安定でおかしい』と注意されたことがあるそうです。動悸・発汗・暑がりなど甲状腺疾患を疑わせる症状はなし。ただ,手の震えあり。そう,下痢も甲状腺亢進症の症状かもしれないですね」
 「身体所見では,バイタルサイン安定。心音不整,手の震顫のほかは特に異常所見なし。甲状腺腫,筋力低下・左右差もなく,歩行正常。検査所見では,胸部X線写真では軽度の心肥大以外異常なし,心電図上,虚血性変化は認められず,心臓酵素3回とも陰性で心筋梗塞は除外され,甲状腺機能も正常。軽度の貧血あり,MCV(平均赤血球容積)104。白血球・血小板数正常。今朝のPTTは55秒。電解質,腎機能は正常。治療方針ですが,今朝からワーファリン(抗血栓剤)5mg開始,循環器科コンサルテーションと心エコーは申し込み済みです」 と,当直研修医が,質問に応じながらてきぱきと報告した。
 続けてチームリーダーが質問した。
 「心房細動の患者に歩行異常があったら,何を疑う?」ニヤっと笑っている。
 これはトリックだな,と警戒しながらも,「脳卒中?」と医学生の1人が答える。「その可能性は高いね。心房細動は血栓を起こしやすくするからね」「ですが……」と,もう1人の医学生が横から異議を唱える。「筋力低下や左右差はないし,歩行も今は正常なんでしょう?」チームリーダーは,大きくうなづきながら,「そう,この患者さんの場合は脳卒中での歩行異常とは違うようだね」とあっさり同意し,「他には?」と見回した。何だろう?わからない。当直研修医が,たまらずヒントを出した。「貧血については,どう思う?」
 ……あ,そうか。
 大球性貧血。心肥大。手の震え。下痢ぎみの便通。S夫人は,立派なアルコール中毒患者だったのである。昼間から酔っぱらって,よたよた歩いているところを近所の人に見られたのであった。
 娘さんに詳しく聞いてみると,「この頃晩酌の度が過ぎているようだとは気になっていた」と目を赤くしながら認めた。心房細動は飲酒によって引き起こされた可能性が高い,と説明されて,「私が言ってもだめなんです。どうか,母を助けてください」と,実はかなり長期間悩んでいたらしい,アル中患者の家族特有の反応が返ってきた。S夫人に同じ説明をすると,「私はそんなにお酒なんか飲んでおりません」と,キッと口を結んで否定した。もちろん,CAGE()も陰性。
 さっそく,アル中患者専用病棟にコンサルテーション依頼が出され,カウンセラーがやってきて,しばらく話したあと,去っていった。彼女の残したカルテには,こう記載されていた。
 「飲酒癖を否定。カウンセリングの必要性自体を否定。本人未自覚によりカウンセリング不可能。本人が希望してから依頼してください」
 プロのカウンセリング技術に期待していた研修医たちは,すげない返答にがっかりした。確かに,自覚症状もなくやめたいとも思っていない患者に効く,そんな魔法のような技術があれば,世の中からとうに薬物依存患者はいなくなっているだろう。でも,何となくわりきれなかった。医師のくせに,非現実的な治療効果を期待してしまった,と気づくまでには,しばらく時間がかかった。
 彼女が自分のアル中を認めないなら,医療者としては手の下しようがない。彼女の体,彼女の人生である。好きな酒に浸って,ある日不整脈で静かに死んでいくのも1つの選択であろう……。もっとも,死に至るまでに何回ぐらい救急の世話になるのかは「神のみぞ知る」であるけれども。その時当直にあたった研修医が,無力感にさいなまれながら黙々と処置するだけの話である。
 数日後,S夫人は退院した。抗不整脈剤とワーファリンとビタミン剤を処方され,娘さんに付き添われて。


:CAGEとは,アルコール中毒をスクリーニングする4つの質問。
 C:Cut down;酒を減らさなくては,と思っていますか?
 A:Annoyed;飲み過ぎだ,と言う周囲の批判をわずらわしく感じますか?
 G:Guilt;酒を飲むことに罪悪感を感じますか?
 E:Eye-opener;朝,一杯やらないと調子が出ませんか?