いまアジアでは-看護職がみたアジア
近藤麻理(兵庫県立看護大・国際地域看護)E-mail:mari-k@dg7.so-net.ne.jp
■「支援」という名の文化的押し売り
メシのためなら

その中で,一度もかかわることがなかったのが,「ボランティア活動」と呼ばれるものでした。鈍感なことに,つい最近まで,これほど多くの国際機関や国際NGOがタイで活動していることすら知らなかったのです。ウラを返しますと,タイ,特にバンコクに暮らしていると外国からのボランティア(有給)が必要であるという,発想すら持ち難いということを示しているのですが……。
インドシナ半島の自然に恵まれ,餓えを知らない地域ゆえに,急激で深刻な変化は考えにくく,あえて外国人の指導者がいなくても,タイの現地NGOへの支援や資金援助が適切であれば,彼ら自身の手だけで十分に運営が可能だと考えていました。もちろん,国内の政治情勢が落ち着いていれば,という大前提はありますが。
人里離れた,山奥の村へ
そんな折りに,「北部タイにある,文化人類学者しか入ったことのない小さな集落を訪問するから一緒に行きませんか」とのお誘いを,タイで長くボランティア活動をしている日本人の方から受けました。私の役割は,通訳兼カメラマンと言ったところで「OK」の返事。山奥深く,そして人里離れた場所へなど入り込んだことのない私は,好奇心いっぱいでした。しかし,少数民族が暮らすその谷間に辿り着くためには,想像を超える時間と体力が必要でした。私たちを乗せたトラックは,雨期の時には川となってしまう凸凹道を走ります。普段は道もないところではあるのですが,雨期の川は,乾期には深い溝ができた土埃を巻き上げる道となり,車体は左右に容赦なく40度近くも傾きます。荷台から振り落とされないようにと,ぎゅっと車の一部を握りしめた両腕や指は,2度と開けないのではないかと思うほど,ガチガチに固まってしまいます。それでも,こんな辺鄙な場所と思われるところにも,地区のヘルスセンター担当者は乾期の数か月の間に1度は巡回を行なっているのです。
谷間に開けた黄金色に輝く田んぼが見えてくると,どす黒い巨大な水牛たちと出会います。そして民家に近づくと,ころころ走る小型の黒い豚が出迎えてくれます。彼らは人間の排泄物をきれいに片づけてくれます。木立の向こうでは,小川で洗濯する女性や水浴びをする人たちが振り向きます。家は,竹や木で編んだ高床式で,女性たちは黒い衣装に色とりどりの刺繍の入った民族衣装を着て集まってきました。
日本からの贈り物
ここでは民族独自の言語があるため,タイ語は子どもたち以外にまったく通じません。僻地教育とでも言うのでしょうか,北部タイから派遣されたタイ人の教師が1人滞在しており,小さな小屋で小学校教育を行なっています。小屋の前には立派な看板も立っていますし,埃まみれの制服も着ています。ここの子どもたちへ,日本から2名の代表が制服や文具を現地で直接贈呈するために,はるばるこの地へやって来たのでした。子どもたちが行儀よく並んで贈り物を受け取っているところをしっかり写真に収めながら,「なかなかよい絵だなあ」と,われながら悦に入ったりもしていました。現地で贈呈している証拠を,きちんと残すことは非常に重要な作業です。これを怠ると,品物が現金化されてしまい,誰か1人だけの懐に入ったりすることがあるからです。
やがてすべての行事が終了し,笑顔と歓声に見送られて,次の集落へと向かいます。その,移動するトラックの荷台で交わされた日本人女性2人の会話が,いつまでも忘れられません。
A「今回は,シャンプーも寄付したのね」
B「ええ,リクエストがあったからよ」
A「上流の川が石鹸で汚れると,中流,下流に暮らす人が困ると思わない」
B「下流のバンコクなんて,まちがいなく工場の排水とかでもっと汚れているわよ」
A「彼らの生活の中に,環境を破壊するとわかっていてシャンプーなんて持ち込んで本当にいいのかしら……」
B「私たちだけが,環境を破壊して今の発展を享受して,彼らは放っておくと言うこと?」
この後,激しい風だけが私たちの顔を打っていきました。重い沈黙と,答えの見つからない迷路に入り込んだような気持ちを抱えて,次の場所でもみんなは笑顔で贈呈を行ないます。その横で,私はと言えば,証拠写真をやはりせっせと撮り続けていたのです。
(この項つづく)