医学界新聞

 

【座談会】

医療人教育のための望ましい教育評価

山内豊明氏 
(大分県立看護科学大助教授)
植村研一氏 
(愛知医大看護学部教授)
手島 恵氏
(東札幌病院副看護部長)
マーシャ・ペトリーニ氏
(山口県立大看護学部教授)


■教育と臨床の場で今起きていること

今,日本では

―― 日本の医療の質は欧米の水準に達していないと言われます。国民の医療に対する不満もそこに起因しているのかもしれません。今日は,その原因の1つとして考えられます教育の問題を,特に看護教育に関連しまして,どのように展開していけばよいのか,また教育評価をどう行なうのかなどについてお話しいただければと思います。
 山内先生は,看護大学で学生の指導にあたっておられますが,看護における教育の問題についてどうお考えでしょうか。
山内 私は,看護教育をアメリカで受けました。日本では,臨床の現場と教育が乖離しているとよく言われますが,それは,教育は臨床が何を求めているのかが,臨床側は教育側がどういう人を育てようとしているかが,お互いに見えていないためではないかと思います。そこのところをお互いが歩み寄るような姿勢を持ち,距離を縮める努力が必要だと思っています。
 アメリカの看護教員は,常に臨床に出ていますので,臨床場面を毎日のこととして知っているという大きな違いがあります。
―― ペトリーニ先生は,アメリカで長く看護教育に携わられ,中国をはじめアジア各国で看護教育の立ち上げに関与してきたとうかがっています。その後来日され,山口県立大学看護学部で学生の教育指導にあたられていますが,そのような経験から,日本では何が問題だとお考えでしょうか。
ペトリーニ 私の看護経験は30年あまりになりますが,日本に来てとても驚きました。実は,日本は非常に進んだ国だと思っていたのですが,アジア諸国よりも看護の教育システムが遅れているのですね。そのことに愕然としました。
 中国は,1980年代終盤から教育システムを変更し,現在ではアメリカとよく似た状況にあります。ナースプラクティショナーも存在し,ヘルスケアシステムを動かしています。しかし,日本はまだそのレベルにもなく,それにも増してショックだったのは,理論と臨床を近づけるカリキュラムの変更を提案しても,それは難しすぎるとみなされたことでした。
―― 手島先生は日本での教員経験があり,その後アメリカで大学院教育を受け,現在は副看護部長として臨床現場におられますが,どう感じておられますか。
手島 教育の場で学んだ知識と,臨床で求められる判断が統合されていない状態で仕事を始めるということがあります。ある新人の看護婦が血圧を測ったところ,最高血圧が70であったにもかかわらず,それに何の疑問も持たず,夕方の引き継ぎ時に初めて報告するというような,ヒヤッとする話をいろいろなところで耳にします。
 私は1998年に日本に帰ってきて現在の病院で仕事を始めましたが,その時に,日本の患者さんが変わってきていると感じました。さらにこの2年でもどんどん変わってきて,患者さんはインフォームドコンセントを当たり前のこととして受け入れ,サービスとしての医療を求めるようになりました。私たちは,それにどう対応していくかが問われているのだと思います。
 先だって新採用者の面接試験を行ないましたが,面接に来た人たちが皆「患者さま」と言いますし,マナーもとてもよい。しかし今,臨床にいるすべての人たちが医療サービスとして,また患者を顧客として意識しているかと言うと,疑問が残ります。

医学教育と看護教育の違い

―― 植村先生は,医学教育の実践・改革に深く携わってこられました。先生のご意見をお聞かせください。
植村 医学が看護と大きく違うのは,医学部の臨床の教授たちは病院の科長を兼任していることです。大学病院の医師は医学部の教員ですが,看護学校や看護大学の先生は病院のスタッフではないですね。
 今から20年以上前の話ですが,コロンビア大学のドナ・バーチェンという看護学部長が日本で講演されました。その時に彼女は,「医師は実際の現場の看護婦には必要のない,非常に深い知識を教えすぎてしまう」という理由から,看護の教授陣に医師を加えなかったと話されました。また,大学の教員と大学病院の婦長とを半年おきに交替させていると言うのですね。半年間教員を務めた人が,次の半年は病院の婦長になる。僕はこの話を聞いて,すばらしいことだと思いました。
 では,医学部はどうしてきたのかと言うと,1967-68年に国内の学園紛争が起こり,それを契機に医学の封建的な体制が崩壊して,「日本医学教育学会」ができました。僕は,この学会ができたことが医学教育改革の大きなファクターになったと思っています。例えばベッドサイドのクリニカル・トレーニングの導入や,統合カリキュラムの導入など,いろいろと文部省(現文部科学省)にアドバイスをしてきましたし,同時に厚生省(現厚生労働省)にも働きかけて医師国家試験(以下,医師国試)の改善に努力してきました。医師国試では,重箱の隅を突くような丸暗記型のレベルの低い問題を徹底的に排除して,臨床的な問題解決能力や応用力を持ち込むように圧力をかけて,その結果,現在は丸暗記型の問題というのは全体の12%にまで削減してきました。そこで,暗記だけでは医師国試には通らないという土壌を作ったわけです。
 それと同時に,ガイドラインを決めました。医学部の卒業生レベルでは,そんなに詳しい専門的なところまで覚えることは不可能ですから,将来何科の医師になろうが,医師として絶対に知っていなくてはいけないという共通した問題と,各専門領域で研修ができる程度の,初歩的な能力をみるためのガイドラインを示しました。
 カリキュラムに関しては,学会と厚生省,文部省が協力して,年に1回のティーチング・トレーニングのワークショップを実施するようにしました。これは研修病院から20名,医学部から20名,計40名の人が,年に1回1週間にわたる泊まり込みでカリキュラムデザインの仕方,教え方のポイント,評価の仕方のワークショップをするものです。これが,医学部の教育を大きく変えてきたのではないかと思っています。
 最近医学教育では,オスキー(OSCE;Objective Structured Clinical Examination)が話題になっています。これはカナダの医師国試に4年前から導入されていますが,ペーパーテストに受かった後に実施し,落ちたら医師免許は取れないというものです。アメリカは,2002年から医学部卒業生に対して施行。日本の厚生省も,4年後には国家試験にオスキーを入れるかもしれないとほのめかしています。

■日本の看護教育が変わるために

アメリカにおける教育の成熟度

―― 看護にも「日本看護学教育学会」があります。また,厚生省でも看護婦養成所の教員になるための,1年間の教員養成講習会を実施しています。でも,ギャップの解消には結びつきません。ペトリーニ先生はそのあたりをどうお考えでしょう。
ペトリーニ 看護の教育が画一的で,学生は実地に出た際に使えないということが問題です。何もできない予備軍を育成しているのです。患者のケアをしたことがなくて卒業していく人を雇わなければならない,臨床の方々も患者さんも気の毒だと思います。アメリカでは,患者の権利が強く,患者の安全が絶対です。弁護士はいつも手ぐすねを引いて待っています。しかし,アメリカ社会では,看護学生が患者に対して医療行為を行なうことのコンセンサスが得られています。これは,「学生が看護婦になるためには,実際の患者に接した医療行為のトレーニングが必要」との理由があるからです。したがって,CNS(クリニカルナーススペシャリスト)レベルの指導者が臨床にはいますし,学生も患者側から訴えられた時の保険に加入をしています。
 昨年,私は日本の学生のグループをアメリカに連れて行き,3つの違う大学のプログラムを訪れましたが,学生はとても驚いていました。アメリカの学生は,臨地実習に行くために200問以上の試験を受けます。その1つひとつに合格しなければ,次のコースに進めないからです。
手島 私は,ミネソタ大学で学部生を対象としたフィジカル・エグザミネーション(身体診査)のクラスに入っていましたが,学生の真剣さが日本とは違います。3人がチームを組んで,患者役,スタッフ役,評価者役をするのですが,私が日本で教えていた時には想像がつかないくらいに学生は真剣です。彼女らは,入学の動機づけもはっきりしていますし,学生としてのレディネス(準備)が成熟しています。それに,多くの学生が他の学位を持っていたり,博士号を取得しているという,そのあたりの構造も少し違うのですが,このような学生に接する教員も非常に真剣です。
山内 私も,いわゆる社会人入学で入りました。同級生が大学院を出ていたりして,少なくとも学ぶことの真剣さは感じましたし,教える側の接し方も違いましたね。
 日本では,高校を出たばかりの18歳の学生が主として入学してくるわけですが,主体的に何かを学ぶという姿勢が欠けているように思います。学び方を学ぶことが,教育における1つの目的でもあるわけですが,そういう意味では教える側にも成熟さ,ということも求められていると思います。
植村 それは非常に大事なことです。アメリカでは大学を出てから医学部に入りますから,ある意味で社会人入学です。日本の医学部の学生は若いし,日本の高等学校はアメリカと違って一方的な詰め込み授業ですから能動的な学習はできないのではないかということが影響しているのですね。
ペトリーニ 私たち教育に携る者は,臨床の協力を得なければならないでしょう。臨床で責任ある立場にあり,臨床領域で実際に何が起こっているかを知っている人の意見が必要なのです。アメリカでは,教員が週に1日,臨床実践活動をしなければなりません。しかし,私が教員向けのプログラムをスタートさせた時には,管理者との大変な議論がありました。でも彼らは,私が「看護職は実践の専門家だ」と言った時に,その必要性を理解しました。教員にとっても臨床に出るということは,研究課題を見つけることにつながるのです。

4年制の大学から変わる必要が

―― 日本には2000年4月現在で86校の看護系大学があり,短大・専門学校は1000校を超えます。そこには,膨大な数の教員がいるわけですが,教育をどうするかという議論がされていないように思いますが。
植村 医学部が変わってきたように,看護学部も変わることが重要です。そのためには,最初はやはり86大学で,医学教育学会が実施しているような1週間程度の研修を行なうことです。1-2日のワークショップでは駄目です。そこで,徹底的に教育の方略を,カリキュラムデザインから評価まで勉強して,その人たちを全国に送り返すことから始めることが必要です。専門学校を変えるというのは難しいと思いますが,4年制看護大学を変えないといけない。
ペトリーニ 受動的な教育方法を能動的なものに変えようと提案する時に,同僚からよく言われるのは,「今まで誰もしたことがないことを,私たちが最初にやるわけにはいかない」ということです。ですから,もしも看護教育に関する国の機関があるのなら,そこが先導してして始めることだと思います。また,地方の規模で会合が持てるのなら,そこでワークショップを始めてしまうことだと思います。

■国家試験のあり方をめぐって

アメリカの看護試験

―― 医療の教育の到達目標は「国家試験合格」という考えが根強くあります。本末転倒のようですが,その看護婦国家試験(以下,看護国試)から教育を変えていくということも可能かもしれません。国家試験のあり方についてはいかがでしょう。
ペトリーニ 日本とアメリカの試験の方法は非常に異なっています。以前は各州ごとに実施されていましたが,現在はコンピュータを導入したNCLEXという団体によって試験が行なわれるようになりました。
 試験の開発には,問題作成委員が5日間,トレーニングを受けるとともに問題を作ります。1週間に40問を作成し,協議が持たれ,その他に臨床現場で働く看護のエキスパートたちによって,問題の妥当性についての討論がなされます。そして不適切な問題は排除されます。試験問題ができあがると,それぞれの問題についてプレテストが実施されます。このプレテストは,問題の中に採点の対象とならない問題を入れ,その正解率や識別係数から問題を洗練し,次回以降の試験問題に反映させるものとして行なわれます。解答肢については,正解以外の選択肢についても,明快でよい解答肢になっているかどうかが確認され,あまりやさしすぎたり,多くの正解者が出るようならその解答肢は排除されます。
 一方で,合格基準ははっきりしなければいけません。以前は80%でしたが,そこに達成しなければ,そこで「サヨナラ」です。
山内 私はこの試験を受けました。NCLEXは1つひとつの問題に難易度がついているんですね。1問できると次に難しい問題が出て,それを間違うとより簡単な問題に進むという具合に繰り返し行なうのですが,最少解答問題数は75問です。15問はトライアウト(プレテスト)ですから,実際には最もよくできた人は60問。合格基準に達しない人は最大で5時間,250問+トライアウトを含め265問解くことになります。とにかく5時間の枠の中で問題を解答していって,ある一定の合格基準に達したら,自動的にコンピュータが止まり,試験が終了するシステムです。これらの問題は,項目対応理論を用い,非常に論理的です。さらに問題がばらついていてもそれを補正するシステムがありますから,非常に合理的と言えますね。また,この試験は1年を通して実施されており,学生が「準備OK」と判断した時点で受けることも可能です。

日本の看護婦国家試験のあり方

―― 問題を調整する機能があるということですが,日本にはないシステムです。医師国試にはあるのでしょうか。
植村 入っていませんが,大学入試センター試験には心理測定士(サイコメトリシャン)という専門家が必ず入っていますね。
ペトリーニ サイコメトリシャンは問題の分析において非常に重要です。日米間で大きく異なるのは,試験の問題蓄積(プール)の有無ではないでしょうか。アメリカには約8000題がプールされています。それで私たちは,漏洩や出題者についての心配をしなくてすみます。NCLEXでは誰もが出題者になれ,漏らそうと思えばいくらでもできます。でも,誰も問題を手に入れようとしないでしょう。それは,プールされている8000題もの問題の中から,コンピュータが自動的に選択し,その問題も順番も人によってすべて異なるからです。したがって,手に入れたとしても基本的にほとんど価値がないからです。
植村 日本の医師国試も,看護国試も同じですが,試験委員に指名された人が問題を作らされている。これが最悪なんですね。1人の人間が何題も適切な問題を作ることは絶対にできません。ですから,アメリカのようにプールしていくという方向にならないといけないでしょう(医師国試には本年度からプール制が導入された)。そして,試験委員は何千と集まる問題の中から使えそうなものを選ぶわけです。何を選んだかが漏洩されなければよいわけで,これは非常に大事なことです。その結果として,レベルの高い問題,安定した問題が残るのではないでしょうか。
 ですから,日本の看護界がまずやるのは,同じ問題を何回も使えるように必ず試験問題を回収すること。そして,試験委員が問題を作るのではなく,全国の助教授以上の教員から問題を随時集めることです。
―― 試験委員だけで問題が作られているというところに大きな問題があるように思います。日本の看護国試の問題数は210問ですが,その中でどうプールしていくかという問題についてはいかがでしょう。
植村 まずやらなくてはいけないのは,医学部と同じように試験問題を回収することでしょう。そうしないとプールはできない。
 アメリカの医師国試の問題数は,だいたい700-800問です。ドイツでは900-1000問。それに対して,日本は320問です。しかもサンプリングが悪い。320問のうち,例えば耳鼻科の問題は2題です。2問で耳鼻科がわかったと言えるわけがない。私の理想は1000問ぐらいです。そうすると,各科から適切な問題が出せると思います。
 看護も,免許を取るためには最低限900問ぐらいにして,800問が本番で,100問は来年のための予備テストというようにプールしていくとよいでしょうね。いつでも受け入れ可能なアメリカのコンピュータシステムにいくまでには,まだ10-20年はかかるのではないでしょうか。そこで,まずは医学のようにブループリント(試験の設計図)を確実に作ることをお勧めします。それも,医学と同じようにブループリント作成委員会と試験改善委員会をまったく別に作る必要があります。ブループリントはブループリントとして専門的に立ちあげ,認知機能レベルであるタキソノミー(問題分類)については,技術論として別のグループで検討しないといけないでしょう。
ペトリーニ ブループリントでは,受験生にどのような知識や能力を問うのかを設計します。どの範囲の内容で,どのくらいのタキソノミー問題を出すのかなどです。例えば,アメリカでは3年ごとに看護婦の業務内容や業務量の調査を行ない,出題内容や出題割合を見直しています。看護を実践するための7つの基本概念などを基に見直しを進めているのです。

合格基準をどこに据えるのか

山内 看護国試の合否ラインですが,非常に高いレベルを認定する試験なら別ですけれど,この試験は車で言えばF1レーサーのドライバーになるのではなくて,普通免許証の取得にたとえられるのではないでしょうか。その人が患者さんにとってすばらしい,ものすごく高い技術を提供できる人でないとしても,「とんでもないことはしない人である」ことを保証するのが試験の目的であるとしたら,試験にはものすごく基本的な問題を出して,その代わりに禁忌問題も出して,これをクリアしないと点数を超えても合格させない,という方向性を持たせることも可能かと思いますが。
植村 今,先生は大事なことをおっしゃった。医師国試で私たちが厚生省に対して改善を求めたのは,医師になる時に絶対に知っておかなくてはいけないこと,つまり100%知っていてほしい必須知識と,眼科や耳鼻科等で,ともかく研修が始められるという一般のレベルとは違うということから,分けて考えるとしました。
 教育学者の間で国際的に言われている100%の解答を求める問題(マスタリーテスト)の合否判定基準は80点です。というのは,100%を求めても,人間は必ずミスをするという考えから,100点を課すことなく8割となったのです。ただし,医師と飛行機のパイロットは,「人命を扱うのに80点では甘い」という批判もあり,将来これは90点になる可能性もあります。
 しかし,今のところ,日本の医師国試の必須問題の合否判定は80点で,国際的な教育評価理論に基づいています。その他の一般問題や臨床実地問題の合格判定には,相対基準法を導入し,合格率の乱高下をなくしています。

■今後の方向性

アメリカに学ぶべきところ

―― 日本の看護婦養成所3年課程の場合ですが,1年生で解剖生理を習い,2年生で講義を全部済ませ,3年生になって実習に出る。それも11月ぐらいに終わり,12月から翌年の1-2月のカリキュラムは白紙とし,看護国試のための受験勉強に向けているようです。
手島 実は,そのあたりに関連すると思いますが,新採用者も,臨床の現状と自分の知識や技術のレベルとにギャップがあるとわかっているようです。そこで,就職したい施設は,継続教育が充実している,あるいはプリセプターシップが充実しているところが基準となります。看護国試を終わったレベルでは,患者さんへの安全を守るには自信がないということの表われとも考えられます。
―― アメリカではコンピュータによる試験が毎日受けられますので,自分が「用意ができた」と思った時に受験が可能です。しかし,日本では1年のうち1日だけが試験日で,風邪をひいて熱を出そうが,その日だけです。そういった試験のシステムを変えること,例えば試験回数を増やすことなどは可能でしょうか。
山内 1つは,社会の雇用体制もあると思います。「私はもうちょっと納得するまで勉強して受けるから」と5月に試験を受けて,6月から勤められるかというと,日本はそういうシステムにはなっていないですよね。アメリカの場合は,毎日のように人が変わりますので,継続教育部という部門が病院の中にもあり,活動しています。日本ももう少し流動的になってくれば別でしょうが,受け皿がなく出る側だけがことを進めても無理なのではないかと思います。
 教育側の良心として,もう1年勉強したほうがこの学生はよくなると思うことがありますが,時間をかけたという面を社会が評価するかとなると,世間では留年したとしか見ません。やはり雇用というか,社会のほうに柔軟性がないと,教育側はそこまでは踏み切れないところがあります。
手島 新卒の人たちは,卒後教育の充実を採用側に求めます。リスクを負って,新卒の人を時間とコストをかけて育てるゆとりが,今の臨床現場にあるのかという疑問を持っています。日本の伝統的な文化にかかわることかもしれませんが,皆が同じでないと不安,ということで全員が4年で卒業とか,大学院も皆が2年間で修了していきます。アメリカの大学院ですと,学生の自律性に任されますので,9か月で出る人もいれば,2年以上いる人もいます。
 私は昨年の8月に,ケニアでのJICAプロジェクトでナイロビに行きました。そこですごく驚いたのは,ケニアは発展途上国と言われていますけれども,5年ごとに看護の免許更新が行なわれていることでした。アメリカも2年ごとに行なっています。なぜそれがよいのかと言いますと,今,臨床の状況は日々変化しています。例えば感染症対策や,インフォームドコンセントとか,社会の中で必要とされていることを,私たちが本当に継続教育として身につけているか問われています。
 国際看護婦倫理規定の中に,「看護婦は専門職なのだから,自主的に,自律し,継続して学習しなければいけない」という項目があります。最も高いレベルのケアを提供しなくてはいけない,ということが書かれているわけです。それを,これまで日本では,個人の意識に任されていたわけですけれども,新卒の人だけが最新の知識や技術を持っているというのではなくて,医療従事者すべてが身につけていることが重要なのだと思います。
 私がアメリカでとても驚いたのは,名だたる看護理論家と言われる教授でも,1年に1回は血圧測定技術の実習を受けていたことです。免許更新には,技術教育を1つ受けなければいけないという規則があるからです。それから,ある年のミネソタ州では院内感染の講義を受けなければいけませんでした。本当に,今の臨床の状況に合ったタイムリーな知識と技術を身につけていることが免許更新の要件になるわけです。

実技試験はどうすればよいか

植村 先ほど,医師国試でオスキーなどの実技試験のことに触れましたが,看護国試でも実技試験は今後重視すべき問題だと思います。これに関しましては,国家レベルでは難しいので,学校に任せるのも1つの方法です。そうすると文部省が「そういうことまできちんとやってください」という指導をしなければいけません。それでアメリカでは,各医学部がオスキーを実践するのを容認したわけですね。ただ,日本ではそれが今のところ保証されていません。私たちがしているのは,オスキーをまず普及させることで,それがうまくいっていれば,改めてテストをする必要はなくなります。
山内 数とか知識とサイコモーター(精神運動)の組み合わせで考えると,例えば,自動車学校に行って教習を受けますと,その教習所の基準で指導員からハンコをもらう。そうすることで,運転免許を取る時に知識のテストはされますが,実技は保証されているわけです。
 全国で医師国試で8000人,看護国試で4-5万人の受験生が毎年テストを受けることを考えると,認定した施設を信用するしか方法がないのではないでしょうか。サイコモーターに関しては高い基準をしっかり設け,それを見る人をきちんと教育して,その人のハンコを信じることでしょう。
手島 技術のレベル,サイコモーターのところが臨床では最も問われますよね。
植村 イギリスでは現実に患者と契約をして,お金を払って大学に連れて行くんだそうです。例えばオックスフォード大学の教授が,ロンドン大学のレベルをチェックする。つまり外部評価です。やはり介入して目を光らせておくことが必要です。
―― 教育における質のコントロールもしないといけないという話になりました。
山内 日本の場合,看護婦養成所は厚生労働省の下に置かれます。大学という組織は文部省が担当し,そこで育てている免許職種としての監督は厚生省です。そのあたりのお互いの遠慮が,影響しているようにも思います。
植村 イギリスでも同じように,文部省と厚生省の言うことが違って医学部が非常に困ったという問題があったそうです。そこで,イギリスが取った方針はGMC(General Medical Council)という組織を立てて,ここが教育のコントロールから医師免許まですべてを行なうことにしたのです。そして,政府に対して「お金だけ出して口を出さないでほしい」と言ったわけです。
 それから1991年に医師法が改正になって,医師免許を2段階にしたんですね。仮免許と本免許です。仮免許の人は単独の開業はできないという法律を作って,研修を3年以上した上で,今度はハイレベルの開業試験に臨ませることにしました。誰が考えても合理的なものを作ったわけです。それがなぜできたのかというと,GMCという独立した組織が,政府に口を出させずに金だけはもらうことにしたからです。
手島 本当の意味で,国民のために医療サービスの質を保証するということを真剣に考える時代だと思いますね。
ペトリーニ 最後にもう1つつけ加えさせてください。アメリカでも教育をモニターし,結果をテストするということに行政が関心を持っています。アメリカのほとんどすべての州には,教育と健康とを合わせた倫理を担う部署があります。多くの州では看護の免許は安全局の下に発行され,安全局の使命は,教育でも,臨床でも,奉仕でもありません。市民の安全を守ることこそが第1の使命なのです。
―― 免許が何のためにあるかを考えた場合,アメリカなどでは明確にされていますね。日本では,「一度とってしまえば,一生モノ」という要素があるように思います。今日はどうも,ありがとうございました。

 本座談会は,さる1月14日に収録したものです(省庁名は旧称で統一)。なお,本内容に関連する書籍『医療人教育のための望ましい教育評価(仮)』(植村研一編)が,医学書院より2001年末に発行の予定です。
「週刊医学界新聞」編集室