医学界新聞

 

看護随想-新たな世紀を向かえて

 21世紀の幕開けから,すでに1か月以上が過ぎた。この間にも,医療界の事件だけでなく,富士山噴火説,旅客機のニアミス,中米・インドでの地震等々,何かと世間を騒がせる事件が相次いでいる。
 慌ただしい中で迎えた21世紀ではあるが,本紙では,臨床現場および看護教育界で活躍されている50余名の方々に,「新たな世紀を迎えて」をテーマとして,21世紀の看護に何を期待したいか,何ができるのか,そして夢は……などについて自由に執筆いただいた。なお,掲載にあたっては50音順を基準とした。


看護の誇りと責務

石井トク(岩手県立大学教授・看護学部看護学科長)


 新世紀には,「チーム医療」を成熟させたいものである。ここでいう成熟とは,各種専門職が相互に業務の内容を熟知し,連携を密にしながら,患者に適切な医療および看護が提供できるように機能している,ということである。
 残念なことに,チーム医療の概念が広く浸透されつつも実態との乖離は著しいものがある。まさに「絵に書いた餅」である。そこで今世紀こそ先進国に恥じない医療体制にしたいものである。そのためにも,次の5項目について再度,問いかける必要がある。
 すなわち,(1)患者中心の看護になっているか,(2)看護職は患者の代弁者になっているか,(3)自らの看護行為に責任を持つことを自覚しているか,(4)医師との連携はどうか,(5)看護体制は患者の安全・安楽より病院経営が優先されていないか,である。
 特に,医療事故判例分析を通じて思うのだが,医療従事者に緊張感が感じられないことが多々ある。患者個々の生命,その患者の人生に思いを寄せ,自らが被害者になった場合,あるいは自らの家族を重ね,基本に返ることを忘れてはならない。ヒトゲノムの解析,遺伝子治療などの進展によって,「人の生殖」,「人の死」に未知なる倫理的課題を持つ生命革命の時代でもある。また,人間工学を応用した医療機器の開発,新薬等の開発は,より専門的知識と倫理性が看護職に要求されることになる。さらに,疾病の多様性に伴う治療方法によって,新たな看護ケアの方法論を提供する責務もある。したがって,臨床現場はますます不確実性,複雑化,多忙となる。しかし,看護職の責務と日常の多忙をすり替えてはならない。
 多忙は不安を生じ,多種多様な看護の本を批判することなく読みあさることになる。それにすべての時間をかけてはならない。目の前の患者にこそ,生きた学びがある。また,多忙と不安の増長には,度重なる勤務交替がある。医師などの他職種が確実にキャリアを積んでいるにもかかわらず,看護職だけがいつも新米で,チーム医療を機能させるネックになっている。患者の病態も理解できない状況下にあって,アセスメント能力は身につかない,異常に気がつかない,おかしいと思っても確認する自信がないということはしばしば聞かれる。医療過誤に際して,病院,医師の圧力から逃れることができない看護職の過失否認は,特に弁護士に,「看護婦は医師の手足に過ぎない」と言わせている。看護ケアの重要性については市民権を得ながら,また,担当看護職として患者の信頼を得ながらも,こと事故になると責任を回避する姿勢は避けたいものである。
 新世紀を迎えて看護職に必要なのは,社会的責務の自覚による「誇り」と「勇気」であろう。


私にとっての「Mission」

池亀俊美(聖路加国際病院)


 約8年間慣れ親しんだ循環器集中治療室(CCU)を離れ,昨(2000)年4月に一般病棟に異動した。新しいところで21世紀を迎えることも悪くないのではないか,何か新しいことができるのではないかという思いと,その一方での不安と戸惑いのある再出発であった。
 正直なところ,予想はしていたが甘かった,というのが異動後の第1印象である。価値観,信念の違い,変化を促す難しさを実感している。
 そのような中,時として「これでよいのか」と迷いが生じることがある。この迷いに答えを出してくれるのが患者様であり,そのご家族,そしてその方々にかかわる多くの同僚,医療スタッフである。自分が考えたこと,行なったことが,時にはその場でリアクションされる。これこそ,まさに臨床現場にいる者の強みだろう。
 気管切開をした高齢男性を入浴させた際に,手を合わせてお礼を言われた時,癌の告知を受け,その思いを語って下さった時,急変時,スタッフ一同が力を合わせスムーズに対応できた時,「ここにいてよかった。看護できたかな?嬉しい」と素直に思える。もちろん,喜びあふれることばかりではない。20世紀最後の年は,医療事故が相次いで報道された悲しい1年でもあった。
 それもまた,患者様,ご家族の反応であり,医療の担い手による行為の結果である。私たち医療者は,それに対し,目に見える形で答えを出していく責任がある。
 また臨床現場は,患者様,ご家族,医療者を問わず,そこに存在する人々で成り立つ。同僚スタッフや他の医療者から,常に自分が行なったことに対する生身の反応が返ってくる。だからこそ,病棟というところは成長する生きものなのである。私にとって,新世紀を迎えるというきっかけが,このように多くのことを気づかせてくれた。
 新世紀を迎えるにあたり,まだ自分に何ができるか模索中である。ただ1つ,私に言えることは,すべては「For the Patient」ということだ。かっこよく言うと,これは,私にとっての「Mission」とも言える。さもないと,すべてが自己満足でしか過ぎなくなる。臨床現場の喜びも半減されることだろう。


論から「学」へ

伊藤景一(東京女子医科大学助教授・看護学部)


 新世紀を迎えて,過去百年間に起きた大きな変化を返りみると,21世紀がどのような世界になるのか,私には予測もつかない。しかし少なくともその前半が看護の時代と位置づけられることは確かだろう。
 今後も続く高齢社会の進展や,それに伴う要援護(介護)者の増加は,これまでの病院を中心とした伝統的な施設内におけるケアに加えて,在宅の場におけるケア,在宅看護の需要をこれまで以上に高めることになる。大切なことは,年輪を重ねて他者の援助を必要とする時が来たとしても,最後までその人らしく人生を送ることができる社会にしていくことではないだろうか。新たな世紀の始まりにあたり,ここに筆者のささやかな願いを2つほど記させていただくことを許してほしい。
 近年,自由市場を背景とした社会資源の配分,個人の選択の自由と自助努力の強調を指向した,いわゆる新自由主義の潮流は,その姿・形を変えながらも,わが国の保健医療福祉を含めた社会保障政策に影響を与えてきた。一方,わが国においても,社会・経済は多くの分野で不平等化が静かに進行しつつあると指摘されている。さらに,所得や社会階層は有病率や死亡率に影響し,低所得者ほど要介護状態になりやすく,寿命も短いことが実証されてきている。
 20世紀最後の年に開始された公的介護保険のシステムでは,当にこの低所得の要介護者とその家族に在宅看護の活用を手控えさせる結果が生まれている。その主な理由は,経済的事由であろう。社会資源や社会保障財源には確かに限りがあり,保障を受けるための応能負担や健康を保持・増進させるために個人の自助努力が必要とされている時代にさしかかっているのを理解した上でなお,医療や看護は誰もが最後までその人らしく生き続けられるよう,その平等性と普遍性を失ってほしくないのである。
 もう1つの願いは,看護基礎教育の現行カリキュラムにおける在宅看護論の扱いである。今後の在宅看護の進捗を考慮する時,教育科目が「論」では弱い。どうしても「学」に昇格してほしい。それほど両者の開きは大きいのである。そのためには,在宅看護にかかわる理論を発展させ,証拠に基づいた在宅看護の効果を検証していく努力を,今までにも増して在宅看護にかかわる皆の力で推進していけたらと思っている。


これからの自分自身の課題

市江和子(日本赤十字愛知短期大学助教授)


 近年,看護の高等教育化が推進され,看護大学が増加してきた。わが国の現状では,教育機関が教育と研究を担っており,看護教員に求められるものは多い。教員には,資質と役割として,教育・実践・研究を通して看護学の構築に寄与することと指摘がされている。
 私自身は,看護短期大学に教員として在職し6年が経過した。短期大学においては,大学としての使命と看護専門職を3年間で育成するという厳しい制約がある。振り返ってみると,過ぎた年月は早いと思えるが,それではその中での自分はどうであったかと考えると,自戒することばかりである。短期大学における教育の限界を感じつつ,それ以上に,看護学を教授する教員としての実践能力や,教育の方法,研究能力など,自己の能力不足を感じてきた。
 これからの自己の課題は,教員としての力を高めるとともに,専門性を確立することだと思っている。「専門は何ですか」と問われた時,「これをテーマにして取り組んでいる」と自信を持って言えるようになりたい。自分の興味ある小児看護学の分野をどのように深め,そして,学生にそれをどう伝えていくのか。それが,今後の自分のなすべきことだと思っている。
 望んでいることは,学生が看護を好きになってくれること。そして,自分の専門分野ともかかわりのある子どもを好きになってくれることである。果たせない夢かもしれないが,すべての学習を修了したより多く(できたら全員)の学生が,「小児看護に進みたい」と言ってくれたら,大感激である。学生は「教師の姿をみて学ぶ」と言われている。教員に求められることは,モデルを示すことであろう。自分が子どもたちに接する姿や,さまざまな場面において,看護者として,女性として,人間としての自分が見られているのだと思う。そのためにも,教員としての努力と研鑚を忘れないようにしたい。これからも,多くの方々からのご指導をいただき,少しでも成長していると感じることができたら嬉しい。


明るく元気にさまざまな可能性に挑戦

泉キヨ子(金沢大学教授・医学部保健学科看護学専攻)


 21世紀を迎えて想うことは,「温故知新」である。昨年来,この言葉が自分の周りをウロウロしていた。元来,私は物事を決めるのにいつも時間がかかる。じっくり考えるわけでもなく,さりとてあきらめきれなくて,その事柄を自分の周りに漂わせて生活していることが多い。
 さて,新世紀は私にさまざまな挑戦を押しつけてきているように感じる。その1つに学会がある(「第27回日本看護研究学会」学術集会長を引き受けた)。かつては別の学会の事務局として運営に関わったことがあったが,今回は自分が会長ということで,金沢の地から新しい時代の看護に向かって,新たな想いや不安が駆けめぐっている。
 そんな時に1冊の本に出会った。人にはできることとできないことがあるが,自分で自分の枠を作って「できない」と思っていることが圧倒的に多い。今まで「できない」と思って「やらなかったこと」の中にどれだけ「できること」があったか,こういう視点から自分の生き方を見つめ直してみる必要がある,というのである。確かにこれまでの自分はこの言葉のように,自分の枠を作っていたと妙に納得してしまった。残された期間が短いためもあろうが,新世紀はこの枠を意識的に取り除く努力をしたいと考えている。
 19世紀にナイチンゲールは,「健康とはよい状態をさすだけでなく,持てる力を十分に活用できている状態」と唱え,これは新世紀にあっても,そのまま生きる考えである。20世紀は私に多くの人々とよい出会いの機会をもたらしてくれた。新世紀はこれらの人々の力を借りながら,持てる力を十分に活用できるよう,明るく元気にさまざまな可能性に挑戦していきたいと考えている。


地に足をつけ,看護の科学を追究!

江川隆子(大阪大学教授・医学部看護学科)


 「21世紀になって,看護はやっと地に足をつけ看護の科学を追究できる!」
 もうその時期にきていると私は,信じたい。その1つのきざしは,20世紀後半に確実に看護に浸透しはじめた看護診断概念です。また,そのための目標分類や介入分類の開発といった看護の共通用語の言語化です。これらは,未完成であるために,まだまだ研究の余地はあります。しかしながら,看護が科学であるためには,共通用語は不可欠なものです。
 したがって,看護診断,診断と看護実践の体系化について教育することは基礎教育の使命ではないでしょうか。成人期や老人期,小児期などに,あるいは特定の疾患や治療によって起こりやすい看護診断,医師あるいは栄養士,理学療法士と協働する協同問題,またそれらの看護診断に対する目標や介入,その成果の評価といった知識体系化についての知識や判断能力の教育は,基礎教育で行ないたいものです。さらに,そうした看護診断に対する看護援助技術の研究や開発が,看護が専門であるために必要であることを学生に教育したい。そして,こうした教育内容はすべての看護学校や大学で共通したものであると訴えたい。
 しかし,決して教科書を共通にするという意味ではありません。共通の教育は「共通用語」を介して可能になるはずです。ですから,決して自分の学校がユニークな看護を教えているでなく,教育方法がユニークであると看護教育者は自覚してほしいのです。
 「大阪が動く!」
 高度な専門看護婦になるためには,臨床者であれ,研究者であれ大学院以上の教育が必要です。このためには,高度な専門看護婦が臨床にいること,特にCNSの教育には教員自身も豊かな臨床経験と大学院以上の看護教育を受けているべきです。
 大阪大学医学部附属病院は,英断をもって,高度な専門看護婦であれば,採用年齢の壁をとりはらおうとしています。また,看護部と看護専攻は,患者のケアにおいて人,もの,理念の壁を溶かそうとしています。その動きは,看護の発信基地が東京ではなく,挑戦(常識を変えようとする)する大阪(関西)に移ろうとするきざしであると,私は信じています。


女性のエネルギーを発揮する時代に

柿川房子(三重大学教授・医学部看護学科)


 「21世紀は看護の時代」,日本では高齢社会である。社会システムとその運用に女性の感性の反映が期待されているように感じているが,まずはこの6点。
 (1)ピラミッド型の施設看護管理体制の廃止;役割と責任が明確にされる看護体制の構築が必要である。
 (2)計画・実践を評価・フィードバックすることで,社会における看護職の責任とその専門性を明示できること。人は,地域でセルフケアを基本に社会生活する存在である。「自立と個別性を重視する看護」と言いながら実は,われわれの世代は集団としてシステムの中に組み込むことで合理性を重視したケアをしてきた。特に臨床における実践活動の中で,提供できる専門的な看護,必要とされる看護を相互で理解しあわなければ,あいまいさの中での医療不信は改善の方向には向かないと考える。
 (3)患者・家族の自己決定(選択)能力を高めることで,適切なQOLが得られるように方向づける。医療の消費者として評価,フィードバックを明確にしていく。相互の不信感,一方的なパターナリズムを双方の責任として評価し,改善していくシステムと教育のあり方が必要になってくる。
 (4)情報の開示-医療に関する知識は,人類全体のものとして,必要な情報は医療者から一方通行で得られるのではなく,自身で必要な時に容易に得られる状態にしたい。情報社会に積極的に貢献できる看護職の育成が必要とされる。
 (5)看護の教育者・研究者は,現実社会の必要なケアにしなやかに適応できる創造的な能力育成を推進する。人が生きる意味,1人ひとりが健康で尊厳ある生活を大切にしていく成熟した社会を創っていきたい。看護専門職としての役割を明確にできること,そして責任を明らかにできることは,まさに20世紀末の約10年間に急速に大量生産した,学士の看護職がなすべきことである。
 (6)一般の人々とともにあるチームケアのあり方を希求する。日常の生活の範疇の業務は,医療との接点で看護職者が教育的にかかわることで,一般の青少年の体験学習,ボランティアの参加も含めて健康を害している人々をケアしていきたいものである。医療が日常から,ましてや一般の人との間に垣根をつくってしまっては,相互の信頼を築くことからは当然かけ離れてしまうことになる。
 女性のエネルギーを発揮してこれまでとちょっと違った新しい世紀の初夢を実現したいものである。


夢は宇宙へ

金井Pak雅子(東京女子医科大学教授・看護学部)


 21世紀は人類にとってどのような時代になるのか,想像するだけでもワクワクしてくる。人々は,科学技術の発達にさらに貢献することは確実である。それにより,生活はより便利になり,また多くの疾病の早期発見や治癒が可能になる。
 特に宇宙開発分野では,国際宇宙ステーションで人々が生活することは確実。また,IT革命により情報ネットワークが拡充し必要な情報が,文字・画像・音声を問わず地球のみならず宇宙においてもすぐ手に入るようになるであろう。人類はこのような発展によりさまざまな恩恵を受けるが,その一方で「選択」を迫られることと「ゆとり」のなさを実感する。科学の進歩は止まることを知らず,医学としては価値のある分野も,医療としては人間がその選択の判断を越える範疇にまで足を踏み入れている。さらに,情報の速効性により,人々の期待に応えることがエスカレートし,手紙を待つ情緒はどこへやら,今ですらメールには即応しなければ,という感覚に迫られる。
 このような変化が,看護にどのような影響を及ぼすのかを想像した。看護提供の場が宇宙へと拡大していくと同時に,看護提供システムがITを活用することにより,人々の健康生活をサポートするヘルスケアシステムへと変化を遂げるであろう。看護教育に携わる者としては,変化に対応し,またその変化を創造的に作り出していくような人材育成が望まれることになる。
 このように考えていくと,看護教員のブレインの抜本的改革が必要となる。さまざまな可能性を秘めた頭の柔軟な学生たちをいかに創造的に,かつ自己の可能性を限りなく追求していく教育を提供していくかが問われてくる。
 20世紀後半に人生の前半を過ごし,新世紀を迎えた今,この課題を自己の職業に対するテーマとして追究していきたい。また,自分自身のもう1つのテーマは,新しい看護学の領域として「看護経済学」の概念構築を確立することである。
 教え子が宇宙ステーションでさまざまな国のヘルスケア職種とともに活躍する姿や,多くの方々と学問としての看護経済学を追究していく状況を想像すると,胸がときめいてくる。


高齢者ケアの充実を!

河合千恵子(久留米大学教授・医学部看護学科)


 いよいよ新世紀の幕が開きました。21世紀について,人々は科学技術の時代,再生医療の時代などさまざまな観点から展望しています。看護が時代の流れ・変革の影響を受ける一方,看護職者もその変革に対して,先見性を持って対応していくことが望まれます。そこで,看護界の100年を展望することは不可能ですが,現在抱えている課題をもとに10年,20年先の期待について語ることはできます。それは,「看護教育と実践との関連を密接に進めていく」ということです。
 本邦では,2000年4月に看護大学86校,その内修士課程36校,博士課程11校を数えるに至りました。このことは看護の役割の拡大と,学問としての看護学の独立を図ることを意味しています。昨今は,看護基礎教育はその内容も充実し,研究も進み,理論化されてきました。しかし,その成果が看護実践にどれだけ反映されているか,疑問に感じています。教育の評価は10年,20年の歳月を要します。看護大学の数が急激に増えたのは1990年代ですから,その評価はこれからということになります。
 教育と実践との関連の中で,特に強調したいのは高齢者に対するケアです。1999年の総人口の老年人口構成割合は16.7%,将来推計人口は2010年には22.0%と,高齢化はますます進みます。いかに寿命が延びたとはいえ,生命は有限であり,身体機能をはじめ心理・社会的機能も衰えて死を迎えるのが自然です。その過程で,健康問題が生じて入院を余儀なくされる場合もありますが,多くの人々はできるだけ住み慣れた場所で生活したいと望んでいます。
 そこで,臨床と地域での研究が進み,現実に即した高齢者に対するケアが行なわれ,支障を抱えながらもQOLを優先し,その人らしく生活が送れるようにと願うものであります。これらは当たり前のことですが,その当たり前のことを実現させるためには,看護実践の場,教育の場にいる看護職者がその目的を共有して,協働してくくことが最も大切です。


「退院調整専門看護婦」を支えてくれた人たちに

倉田和枝(済生会山口総合病院/退院調整専門看護婦・保健指導室婦長)


 済生会山口総合病院では,1994年9月より,「退院調整専門看護婦」を独立したセクションとして配置。患者の入院早期から退院へと視点を向けた援助・調整を,医療関係者をはじめ,患者・家族参加のもとで実施している。また,円滑な退院・介護保険の活用を図りながら,良質な在宅医療の提供をめざし活動している。
 この新たな試みである「退院調整専門看護婦」(当院独自の名称であり,誕生当初は「退院促進専門看護婦」と名づけてはとの話もあったが,地域性も考慮し,現在の名称になった)が,当院に定着しながら活動を続けている背景を振り返ってみると,
 (1)病院長をはじめとする病院経営陣が,時代および地域のニーズに敏感であり,それに応えようとする姿勢を持ち,新たなサービスやシステムの転換を提案しても,柔軟に受け入れてくれる姿勢があったこと。
 (2)済生会病院は,「医療・保健・福祉の統合化を積極的に推進し,他の医療施設や保健福祉施設と連携して地域住民のニーズに応える」ことを理念に掲げている。そのために,病院が単独で機能するのではなく,地域ぐるみで医療・保健・福祉を一体化していく考え方があったこと。
 (3)「今の時代が求めているのは何か」を的確にキャッチし,看護部独自の工夫をこらし,活用していく力が看護部にあったこと,などが考えられる。
 その根底として,当病院長の方針である,「『和』をもっての精神」が病院職員に根づいていたことを忘れてはならない。21世紀も,職員一丸となって,「和」の精神を忘れず,「地域住民に信頼され,選ばれる病院」をめざすことが最重要課題と言えよう。病院職員1人ひとりが,「輝く人材」なのである。
 個人的には,退院調整業務を始めて7年が経過しようとしているが,この間涙を流すことも,喜ぶこともあった。が,院長をはじめさまざまな方々から協力をいただき,少しずつこの業務が病院内・外に浸透し,「当院内にあるのが当たり前」と,活用されていることを一番うれしく感じる。ますます厳しさを増す医療環境の中,効率を追求するだけでなく,患者のニーズに応え,適切な医療・看護サービスの提供に努力し,歩み続ける病院でありたいと思う。


シモーヌ・ヴェイユの省察を読んで

田中幸子(北里大学・看護学部)


 夜,疲れて帰宅した私は,積み上げられた新聞の山に足を滑らせ危うく転倒するところだった。自身の生活環境さえ整えられていない現状をぼんやりと見回しながら労働とは何か,考えた。新世紀を迎えるこの機会に,シモーヌ・ヴェイユの「労働と人生についての省察」(勁草書房,1969年)から,1930年代に彼女が労働と人生をどのように捉えていたのか,現代の生活者と共有できるものがあるのか考えてみたい。
 フランス人ヴェイユはブルジョワ階層出身で哲学教授資格者でもありながら,労働と労働者の関係を内部から探究する目的のために自ら女工として生活する道を選択した。劣悪な環境のもと,安い賃金で,しかも完全歩合制で必死に金属部品を生産する描写は実に厳しく生々しい。彼女は機械と向き合って作業する労働者を「他人の意志に委ねられた一個の物体」と形容し,作業が終了すると「身体から活力が抜け,頭から思想が抜け,胸は嫌悪と声にならない怒りに占領され……そのすべてが無気力と隷属の感情に包まれる」労働者の姿を表現している。体が弱く,不器用な彼女が事前通告なしに解雇される一方で,その工場では毎日新規の労働者が雇い入れられた。生きることがこれほど厳しかった時代を経て,現代の労働法制が先達によって整備されてきたことを考えると,偶然にもいい時代に生まれたことを感謝したい気持ちになった。それと同時に権利や望ましい環境というものが,天から降ってわいてくるものではないことを痛感した。
 現代の看護の状況では看護職者の需給バランスがほぼ一致しつつあり,今後看護職者が余ってくる状況が懸念されている。これは看護職者の労働条件がよくなることを意味するものではない。むしろ景気・社会変動を背景に看護労働は一層厳しくなるかもしれない。現状のように,主に常勤職員だけで病棟勤務を構成しようとすれば将来的には少ない職場に多数の看護職者が殺到する現象が起こり得る。
 こうなると,看護職者は,権利やよりよい環境よりも雇用の継続を重視するようになるだろう。その点でヴェイユの経験は示唆的である。しかし,安全でより質の高い看護を提供するには,看護職者自身が健康で,自分の生活を大事にしながら主体的に仕事が続けられることが重要である。今後の看護にとって望ましい労働政策のあり方を考えていきたい。


21世紀の夢

筒井真優美(日本赤十字看護大学教授)


 毎年12月から翌年1月にかけては,卒業論文,修士論文,博士論文の指導が追い込みの時期になる。この時期になると,机の上には書類が山積みになり,電話も多くなるために,必然的に論文を自宅に持ち帰って読むことになる。
 このような生活が何年も続いているが,実は今ではこれが楽しみともなっている。大切に抱えて持ち帰った論文を読み始めてびっくりしたり,なるほどと感心した時の喜びは大きい。もちろん,ワクワクしていたのに,がっくりすることもたまにはあるのだが(学生には内緒です),特に伸び悩んでいた学生が花開いていく時の喜びは教師冥利に尽きる。
 これまでに,博士論文2,修士論文16,卒業論文50くらいにかかわらせてもらったが,今まで気づかなかった子どもの反応の意味や子ども・家族・看護者の思いなどを,学生の書いた論文を通して,私も学ばせてもらっている。この学生たちが学部卒業・博士(修士)課程修了後,それぞれの場で自分らしく輝いているのを知る時,心は和む。小児看護学の専門看護師を志している人など,継続して卒業生・修了生と接触する機会も多いので,このかかわりを大切にし,多くの人に子どもと家族の看護の大切さを伝えていきたい。
 臨床家たちとは月に1回,症例検討会を開催している。当初の目的は「新卒者の支援」であったが,現在はベテランの臨床家も参加してくださるようになった。そのためもあってか,参加者との議論を通して臨床の実態を分析し,看護の向かうべき方向を検討することが多くなっている。この検討会に参加する方の90%は臨床家なので,今後は希望者とともに長期的な研究をしたいと考えている。検討会では,小児看護に興味のある方はどなたでも歓迎しているので,ぜひ参加してくださればと思う。
 個人的には,子どもと家族の健康について研究を続け,その大切さを看護以外の人々に伝えていくことが必要であると感じている。IT(情報技術)化の中で,育児雑誌やマスコミをいかに活用するかが課題となるだろう。
 最後に,ほとんど練習する暇のないゴルフだが,努力もしないで上達することを望んでいる。ゴルフは,私の大好きな茶道に通じるものがあり「無」になれる。白い球だけを見つめ,集中しないと球は真っすぐ飛ばない。知らない人と一緒にラウンドすることにより,看護以外の世界を学ぶこともできる「一期一会」である。


社会に機能する21世紀の大学・大学院をめざして

水流聡子(広島大学助教授・医学部保健学科)


 20世紀末に日本では看護系大学および大学院が次々と新設され,看護にとって大学・大学院という高等教育・研究の世界が身近なものとなった。けれどもその学術世界の中で,看護学がどの程度の市民権を得るかは21世紀の課題として残され,現在そしてこれからの「看護のふるまい」にかかっている。
 大学や大学院は,「知」を生産する場であることに価値が存在する。学生たちは,人的・物的・情報資源が存在する環境に身を置くことによって,「知」を吸収・活用生産することを学ぶ。必要な資源は環境の中にあり,どの資源をどう活用するかという意思決定の責任は,学生自身にある。入学金や授業料は,当該大学および大学院が所有する資源を活用する権利を取得するための保証金であると考えることもできる。
 「知」を創造する空間での,教官-教官間,教官-学生間,学生-学生間,大学-社会間の人と情報の交流は,互いに刺激を与え,「知」の創造をより活性化させる。加えて,実践科学領域である看護学の場合には,臨床現場とのダイナミックな「知」の生産にトライできる醍醐味を味わうことができる。新たな「知」の創造を,看護の研究者と臨床家が協同でダイナミックに展開していく過程は,非常に刺激的である。そこでは臨床家が持ち得ない「知」の生産技術を持つ研究者でなければ,協同作業をする意味がなくなる。つまり,研究者としての真価が問われる作業とも言える。
 看護系の大学・大学院が,ヒューマンヘルスサービスの展開に貢献する知の創造空間として市民権を得て,日常空間では決して描けない夢を描けるダイナミックな空間となれることを21世紀の課題としてとらえたい。それを実現できた時に,初めて看護から発信した情報が有用なものとして,社会に認知されるのではないだろうか。
 大学院の社会人入学制度は,実践と研究のダイナミックな交流をめざす看護にとって,有意義なものと考えられる。人生の一時期,そのような「知」の創造と共有が保証される空間に身を置くことで,豊かな社会・人生を作り出していく栄養分を吸収することができるのではないだろうか。看護の「知」の生産を飛躍的に促進させる可能性を持つ看護系大学・大学院となっていく21世紀でありたいと思う。


文化や生活習慣の違う人々と看護

野地有子(札幌医科大学教授・保健医療学部看護学科)


 「看護婦とは私たち国民にとって最も誇るべき人々です」 これは,1991年にアメリカ・シアトルに留学した折の,お向かいに住むハンスおじさんの言葉です。この言葉を聞いて以来,北米と日本の看護や社会,文化,人々のくらしを比較する機会が多くなり,今思うことは,日本の看護や医療制度の優れた点をいかに残して,日本の看護のリエンジニアリングを進めていくかということです。
 最近のアメリカの看護大学は,留学生や移民の学生が多くなり,クラス運営が大変になっています。アジア系の学生はもっと自分の意見を述べるように,一方,白人やラテン系の学生は自分の考えを反芻するように指導し,何とかクラスの統合を図っています。日本の大学では,授業中に自分の意見を述べる学生はまだ少ないように思います。正解を求めるのではなく,発想のプロセスを共有する意見交換を積極的にするよう,学生だけでなく教員の態度や環境づくりにも工夫が必要ではないでしょうか。
 1999年に,サンディエゴ大学で行なわれたノーバック先生(前UCSF看護学部長)の国際看護に関する講演で,「日本人留学生は,セルフケアの『セルフ』に家族も含めて考えている」と,ご自身の指導学生の例をあげてそのユニークさが述べられていました。サンディエゴ郡では長期療養ケアサービスの統合プロジェクトが展開されていますが,家族を視野に入れた日本の介護保険制度にも注目が集まっています。
 アメリカでは「違うこと」を大切にし,「違い」から学び,「違いを生み出すこと」が目標とされますので,日本の看護に対して感心はとても高くなってきています。東洋の着想を粘土細工に,西洋の着想を紙切細工にたとえた今北純一は,このまったく異なる2つのアプローチは相互補完的な発想法として一対をなすと述べています。
 違い以上に共通点を発見することも意外に多くあります。アメリカの保健婦と一緒に仕事をしていると,クライエントの視点で1つひとつ問題を拾いあげながら辛抱強く「小さなことの積み重ね」を継続していく姿に,保健婦活動の歴史をまとめた「ふみしめて50年」にみられる日本の保健婦活動が重なります。
 21世紀にも,これまで以上に身近な仲間とそして国や文化や生活習慣の違う人々と看護について語り合っていきたいと思います。


大隈重信と看護婦

芳賀佐和子(東京慈恵会医科大学教授・医学部看護学科基礎看護学)


 ある時,下の写真を見た私は,写っている人や看護婦の名,ここからのメッセージは何かということに思いをめぐらせました。そして,外務大臣であった大隈重信候が1889年に爆弾テロで右足を負傷した折に,慈恵医院看護婦教育所から4人が派出され看護にあたっているところを撮ったものであることがわかりました。前列中央が52歳の大隈候です。
 その後1988年,「大隈候の右足 保存されていた」という新聞記事から,切断された足は日本赤十字社に保管されていたことがわかりました。次に,1997年に「早稲田困った いったいどこにおく」という記事が出ましたが,1999年4月の新聞には「脚帰る」という見出しで大隈候の右足は110年たって故郷佐賀へ安置された,とありました。
 この時は,ほっとした想いがしました。また『早稲田学報』に「わせだ懐かしフォト」として同じ写真が載っていました。記事はもちろん「脚帰る」が中心です。そして私の目をひいたのは「珍しいのは大隈に髭のあることだ」という一文です。
 私は,今まで何回も写真の大隈候を見てきましたが,大隈候の人柄や,看護婦が最前列に座っている構図についてのみ思いをめぐらし,髭のことなど一度も気づきませんでした。
 当時,大隈家に派出された看護婦たちは,「病者ノ意ヲ迎ヘテ声ナキニ聞キ形無キニ見」看護を続けたと夫人の手紙にあります。
 正規の教育を受けた看護婦たちが世に出て110年余りが経ちました。今,看護教育はさらなるケアの向上をめざして,その歩みを進めていると言えましょう。私は人々の健康に資する看護の仕事に限りない魅力を感じています。


「女性の健康」の確立を

山本あい子(兵庫県立看護大学教授・母性看護学)


 何か新しいことが始まる時は,怖さと同時に,どこかワクワクした興味津々と言った気持ちになります。新しい世紀の始まりに立ち会えたのも何かの縁,今年は何事に対してもおもしろいと思える状態でいたいと思っています。
 私の専門領域は,母性看護学です。この分野は,周産期にある女性とその子ども,さらにその家族を含めて,これらの人々の生活と健康・発達課題を考えてきました。しかし,1975年に第1回国連世界女性会議がメキシコで開催され,女性が置かれている状態を向上させようという動きが生じました。国連は,解決が必要な女性の問題として12領域を設定しましたが,そのうちの1つが「女性と健康」の領域です。
 女性の健康を向上させようという世界的な流れの中で,「母性看護学」を「女性の健康」の1つに含める傾向が見られています。また対象とする人々も周産期に限らず,思春期や更年期などの移行期と呼ばれる時期の女性たちを含めています。さらに「女性の健康」と言う時には,慢性疾患や性感染症を持った女性,周産期の女性,移民などの特定状況下に置かれた女性等々,さまざまな状況下と健康状態の女性たちを対象としています。この多様性をどのようにまとめて,1つの学問領域としたらいいのでしょうか?男女平等でありながら,なぜ「女性の健康」だけを言うのかとの指摘も出始めていますが,もうしばらくは女性の健康の独自性を考えていくことが必要でしょう。
 このような中で,今年の私の課題は,日本における「母性看護学」や「女性の健康」の確立をめざして,その土台作りに励むことです。
 国境や組織,あるいは価値観や考え方などの枠組みがなくなりつつある今,世界を視野に入れつつ,個人や学会,職能団体との国内外のネットワークの構築を通して,5年後につなげたいと思っています。「君,それは大変おもしろい。ぜひやってみたまえ」とお互いを高め合える1対1の関係性を大切にしながら,学びつつ他者とつながっていきたいと考えています。


臨床看護の知を生かす

花田妙子(熊本大学助教授・教育学部看護教員養成課程)


 21世紀の医療は,より患者主体となり病状・治療・看護などの情報開示のもとにQOLが重視され,サービスの質が問われるようになるだろう。また医療ミスを防ぎ,患者が安心して療養できるよう確実な専門技術の提供と,誠意あるかかわりは看護の基本としてますます要求される。
 これまでは,ベテランナースが長年の看護実践の積み重ねの中から,患者1人ひとりにすばらしい看護を実施しながらも,その援助の巧みさは言語化されることが少なく,共有されないという問題があった。そこで,私は昨年の夏より,患者の望む臨床看護の提供をめざして,少しでも苦痛を和らげ安楽で安心して療養できるために,具体的な看護技術とその効果について言語化を試みている。ここに出される看護現象は,患者のありのままの言動から,患者の反応や気持ちを捉え,かつフィジカルアセスメントなどによる病状把握と合わせて,ケアが効果的と判断できること,その上でなぜその援助内容や方法に決めたかなどを明確に示されていることが必要である。
 つまり,データなどが正確に集められ,臨床意思決定における思考プロセスが系統立っていること,ケアの内容と方法が回復を促進したり,患者の自己実現をサポートする方向にどのように行なわれるとよいかなどが,具体的にわかり看護行動がとれるようになっていなければならない。この臨床看護の知恵の言語化は,熟練したケアの技能を共有でき,看護を実施する時,困った場合に,役立つ看護の工夫が生かされていくことをねらいとしている。
 そこで心疾患,消化器疾患,呼吸器疾患の患者によくみられる問題状況における看護技術の内容や方法を,ベテランの臨床家たちと実践につながる知恵の抽出について話し合いを繰り返している。その中では植え込み型除細動器作動に対する不安を持つ患者,肝硬変による腹水貯留をきたす患者,高齢で在宅酸素療法をする患者の看護など,多くの問題状況への対処とさまざまな工夫が提示されている。それらをまとめ,看護する熱き心にふさわしいように,今夏の書籍化をめざしている。看護職が患者の看護で困った時に,学びやすく親しみがあり,実践に役立つ知識が盛り込まれているということで,タイトルも『困ったときの心疾患患者の看護』『困ったときの消化器疾患患者の看護』というものである。
 個々の患者に適切に援助を提供することは,瞬時に異なる看護現象に工夫をできるという能力が要求され,知識の充実と看護学の理論と実践行動が結びついて習得された看護技術の豊富さから確実になるものと思われる。したがって,この臨床看護の知を,基礎教育で行なう問題解決能力の育成などにも活用し,21世紀の看護を創造していく看護婦・士および看護教員となる学生たちに受け渡せる今年は楽しみである。


真の看護の時代に仕立てあげる時

前原澄子(三重県立看護大学長)


 「21世紀は看護の時代」というふれこみを聞いて浮かれていたら,とうとうその21世紀がやって来た。もう,浮かれてはいられない。真剣に考え実行し,今世紀を真の看護の時代に仕立てあげなければならない時が来た。それが21世紀を生きる看護職の責任であろう。
 どうして看護の時代なのか,看護の時代にしなければならないのか,答は簡単である。人々がそれを求めているからである。
 これまでも,人々は看護に大きな期待を寄せてきたが,果たして看護はそれに応えてきたであろうか。当たり前のことができなかった,当たり前と思ってしていたことが間違っていたことがないだろうか。
 以前にも増して,10倍も20倍も看護に寄せる期待が大きくなるであろう今世紀における看護職の働きは,今後の看護のあり方を決めるものになるだろう。
 本年8月29-31日までの期間,「日本看護科学学会第4回国際看護学術集会」が三重県・津市で開催される。その会長を私が引き受けることとなった。集会のメインテーマを,「人によりそう看護」とした。これには,人々の要請に応える看護を追究したいという,あまりにも当たり前でありながら,これまで十分になし得なかった反省が含まれる思いがこもっている。キーワードは「よりそう」であるが,この戦略は,社会の状況に敏感になることであると思う。社会の状況は,人々の生活・考え方・健康等に影響を与え,人々によりそわねばならない看護実践方法・教育・行政・研究に強く影響するものである。
 総婦長時代に,3食を病院からの給食で生活していた看護婦に,「大根1本の値段を知らないでよい看護ができるか」,と憎まれ口をきいたつけが今回ってきて,四苦八苦している。まさに,「IT革命に乗り遅れて看護ができるか」の時代になっている。
 医療の現場にMEが出始めた頃,分娩監視装置や新生児監視モニターテレビを導入して,猛烈な反対にあった経験がある。もう今世紀はそのようなことはないであろう。
 しかし,新しい時代をしっかりみつめ,人々によりそう看護の実践,その実践を担うものの教育・実践の基盤となる研究,実践を支える行政のあり方を,それぞれの立場から考えていきたい。


看護をダイナミックな専門職に変える時代

マーシャ・ペトリーニ(山口県立大学教授・看護学部)


 Japanese Nursing is in a dynamic transition preparing to confront the challenges of the 21st century with a growing number of nurses being educated in baccalaureate and higher degree programs who will be prepared to transform nursing into a dynamic profession with a variety of specializations.
 Japanese health care system is rapidly changing to meet the evolving demographics and health care needs of the population. Technological innovations introduce new approaches to diagnosis and treatment requiring nurses to be creative and adaptive to new methods and approaches to care. Economics is a controlling factor in decision making in health care and will be studied by all nurses.
 The greater involvement of the patients and families in the management and decision making related to treatments of chronic illness will alter practice and reduce health care costs.
 The information technology era requires nurses to be aware of new research related to health, disease, diagnosis, treatment and prevention since citizens increasingly are using the internet resources to learn about their health conditions and about the types of treatment and the outcomes. In a survey done recently in the US, 82%of the people are using the internet to obtain information about health issues. Japan is predicted to be the largest user of the internet by the year 2001.
 Research such as the genome project will have major impact on health care and on health care professionals because of the information that will be available about not only diagnosis but also potential for successful treatment of certain diseases. Nursing education will revise curriculums to add the breadth and depth required by the nurses upon graduation to be able to dynamically change the health care arena. Integration of theory and practice will be necessary so that graduates will be able to proficiently apply their knowledge in practice. The national licensing examination for nursing will be testing for synthesis and analysis requiring all subject areas studied to be applied in the response. Continuing education will become part of the professional's responsibility to maintain high standards of practice for the health of the citizens. Licensing will no longer be lifetime without evidence of ongoing learning.
 The 21st century will provide more rapid changes than have been experienced in the 20th century. The challenges will be great, but with the evolution currently going on in nursing they will be met and the country will be proud of their nurses. The past negative images will be replaced with a positive and respectful image of the dedicated professional nurse. The complexity of nursing as a dynamic and challenging profession will attract many curious individuals of all ages to meet the diverse needs of Japanese nursing in the 21st century.

 日本の看護は,今21世紀の課題に直面すべく劇的な移行期にある。21世紀は,学士号やより高い学位の教育を受け,看護をダイナミックな専門職に変えることのできるナースが増えていく時代であり,その専門性が多様になってきている。
 日本の保健医療は変わりいく人口統計と人々の医療に対するニーズを満たすために,急速に変化を遂げている。保健医療システムの焦点は高齢化を指標に置かざるを得なくなった。技術革新によって診断や治療の新しいアプローチがもたらされ,ナースは新たなケアの方法やアプローチを創造し,適応することが求められる。経済は保健医療の意思決定を左右する要因であり,どのナースも経済について学ぶことになるだろう。また,慢性疾患の治療に関しては,これまで以上に患者や家族に意思決定や自己管理を強いるようになり,結果的には医療費を削減しようとしていく。その中にあって,看護ケアの効果性が示されるようになってくるであろう。
 情報技術の進化は,ますます多くの人々をインターネットに誘い,自分の健康状態について,また治療の種類と結果についても容易に知るようになるだろう。そのためナースは,健康,疾病,診断,治療や予防に関する新しい研究に目を向けるよう求められる。アメリカで最近行なわれた研究では,健康問題についての情報を得るために,82%の人がインターネットを使っていると報告された。日本でも,2001年にはインターネット利用者は最大数になると予測されている。
 ゲノムプロジェクトなどの研究は,診断に有効なだけでなく,ある疾患に対する効果的な治療となる可能性もあり,その情報は医療や医療専門職者に大きな影響を与えるだろう。保健医療の領域を劇的に変えるナースを必要とする時代であり,そのためには看護の知識を広げ,深めるために看護教育のカリキュラムの改善も必要となる。理論と実践の統合は不可欠であり,卒業生は理論の上に構築された実践の知識を臨床現場で上手に適用できるようになるであろう。
 看護職の国家試験は,上記の求めに応じるために改善されるが,学んだあらゆる分野の統合と分析の能力を試すものとなるだろう。継続教育も大幅に取り入れられるだろう。人々の健康に対する実践を高い基準のままに維持するために,継続教育は専門職にとって責任の一部となる。国家資格としての免許のあり方も問われよう。看護は,継続的に学んでいかなければならないものであり,資格はもはや一生通用するものではなくなる。
 21世紀は,20世紀に経験してきた以上に激しい変化を経験するようになる。課題は大きいが,看護の最近の動向からは,そのような課題は達成され,国家は自国のナースに自信を抱くようになることが期待される。これまでのナースに対する否定的なイメージは,熱心な専門ナースに対する肯定的なイメージと尊敬の念に変わるだろう。ダイナミックでやりがいのある専門職として看護の複雑さは,あらゆる年齢層の好奇心旺盛な人々を魅了するようになるだろう。それは,21世紀における日本の看護のさまざまなニーズを満たすことにつながると期待したい。