医学界新聞

 

日本災害看護学会「1・17メッセージ」
伝え残したい「阪神淡路大震災」の教訓


 日本災害看護学会は,阪神淡路大震災を1つの契機とし,災害看護の知識や実践の体系化を図り,災害看護学の発展を通して人々の生活と健康に寄与することを目的に1998年12月に発足しました。学会の社会活動として,災害看護への認識をいっそう高めていただくことを目的に,被災地から6年目の「1・17メッセージ」をお届けいたします。このメッセージは,阪神淡路大震災を体験した看護職が,現在を伝え,さらにその思いを語るものです。

(日本災害看護学会)

 「死者5500人以上(ママ)以上という未曾有の大災害となった阪神・淡路大震災では,空前の取材体制が組まれたものの,看護活動に関しての報道がまったくといってよいほど目に止まらなかった。しかし,被災地の看護職の方々に直接・間接に話をうかがうと,そこには記録に留めたい,いや残さなければならない事実が数限りなくあった。『看護婦ならば当たり前だ』『看護職として当然』と見られがちであり,また看護職自身にそのような認識があったように思う。ところが,この震災は今までの災害とはおもむきを異にしている。まず,看護職自身が被災し,そして職場も被災している。その上に通信手段の寸断,平時とは異なった傷病の発生(クラッシュ・シンドロームなど),患者の殺到など,災害時といえども尋常ならざる状況のもとでの医療・看護活動であった。このような中での看護職の活動は,その1つひとつが瞠目に値するものであったにもかかわらず,なぜ報道が少なかったのだろうか。私たちの取材の原点は,ここにあった」(『阪神・淡路震災下の看護婦たち』,医学書院,1995)
 これは,震災発生後40-50日に,医学書院が緊急取材班を組織し,限られた施設の限られた看護職ではあったが,現場の方々にインタビューを行ない,記録した『阪神・淡路震災下の看護婦たち』の冒頭の一節である。本書は,全国の看護職者に被災地での看護活動を知らしめることになり,読者からは「看護の原点に触れることができた」との声も聞こえてきた。
 約6400人もの死者を出した「阪神淡路大震災」発生から,すでに6年が経過した。崩壊した神戸市内は,現在その跡すらも残さないほどに復興した。しかしながら,被災者たちは未だに目には見えにくい後遺症に悩んでいる。その後にも,「阪神淡路大震災」に匹敵する災害が日本に限らず世界各地で発生。本年1月14日に中米で起きた大地震では,「死者1000人を超える模様」と報道された。多くの教訓を得ることになったこの震災下における看護は,今後も継続して伝えていくこと。そしてそれを日常の看護に活かすことが,21世紀を迎えた今,改めて語られるべきではないだろうか。なお本メッセージは,看護系出版各社の雑誌にも掲載されているために,重複する内容であることをお断りする。

(「週刊医学界新聞」編集室)


生活者を支えるための看護をめざして

黒田裕子(三重県立看護大学)

ボランティアの立場で地域に密着して

 あの日,あの時,あの瞬間からもう6年になろうとしている。振り返ってみれば,阪神淡路大震災は私にとっての最大の転機であった。病院から離れ,ボランティアという立場で地域に密着し,単なる患者ではなく「生活者」としての「患者」,「その人」を看ることができた。そのことで,私は多くの気づきを得,そして多角的な視点と広い視野で物事を見つめることができ,私の「人生観」「看護観」に深みを加えることができた。震災直後,悲惨な人たちの姿を見,追われるような気持ちでボランティアとして被災地に飛び込み,被災者を支えることに専心してきたのだが,実は多くの部分で,私は被災者に支えられ,また多くのものを与えていただいたのだと思う。
 現在,被災地は急激に復興が進み,町並みを見る限りでは震災は終わったかのように見える。仮設住宅も解体され,ほとんどの被災者は復興住宅へ移った。行き交う人々の表情も一見穏やかに見えるのだが,この6年近くの間に,3回から4回の引っ越しを余儀なくされ,被災者の多くは新たな人間関係の構築のために神経をすり減らしてきた。そして,最も苦労しているのが現在であると感じる。コンクリートの堅牢な壁がコミュニケーションを阻害し,むしろ孤独感を深めることになっている。まだまだ多くの支援が必要なのである。
 その一環として,民間レベルのグループホーム,デイサービスという新たな活動も開始している。

退院指導の重要性

 被災地での活動を通して,看護の再構築を強く思うことが多い。被災地では,仮設住宅・復興住宅を通して,日本の社会を一歩先取りした超高齢化社会となった。そこでの現状を見る限り,現在の看護のありようでは,これからの超高齢化社会にはとうてい対応できないと思うのである。専門職として会得してきたはずの知識・技術は,病院の中では活用されても,これから最も重要になってくる社会や地域の中ではまったく活かされていないと感じている。それが最も顕著に現れているのが,「退院指導」である。施設から在宅での療養生活に向けての退院指導が十分に行なわれていない原因は,その人の「生活」に対する視点の欠如が最も大きいからではないだろうか。在宅に向けて,その人の「生活」「暮らし」を基にしたアセスメントや,家族へのアセスメント,そしてその人を取り巻く地域に対するアセスメントを行ない,その結果に基づいた対策を立てなければ,退院指導のほとんどが無効となってしまう。
 現在,復興住宅に住み,周りの人との関係を築けず孤独の中にいる人,手に障害があり自分で調理できない状況にある人,お金がなくほとんどコンビニのおにぎりだけで過ごさざるを得ない人,そのようにさまざまな背景を抱えた人々に,一律に「もっと栄養のあるものを……」と指導したところで,どうして効果が期待できようか。とすれば,その人を支えるための資源が,どの程度あり,どうすれば活用できるのかといった知識が必要となろう。加えて地域や行政との連携,訪問看護ステーション,ボランティア団体,福祉施設といったさまざまな機関・団体との幅広い連携も必要となってくる。そして,「その人らしい生活」を送ってもらいたいと,強い願いを持って退院指導に当たるという,私たち医療者側の意識も必要である。

この経験からのシステム構築を

 先日,阪神淡路大震災に匹敵する揺れを観測した鳥取県西部地震が発生し,大きな被害を受けた。こうした災害を目の当たりにすると,私は強い焦りのようなものを感じる。
 阪神淡路大震災の私たちの経験を,どれだけ活かすことができるのか。私たちの経験を単に語り継ぐのではなく,次に起こった災害に確実に活かせるようなケアのシステムを早急に作らなければならないと強く思う。そしてそれが,21世紀の看護の土台になると確信している。


病院でケアにかかわっていた1人として

吉田智美(神戸大学医学部附属病院)

流れた月日に思うこと

 震災から6年がたった。この間,日本や世界の各地で大きな災害による被災者が出ている。災害の知らせを聞くたびに,自分が体験した災害での情景が思い浮かぶ。しかし,その都度,その場に飛んで行くわけにもいかないために,被災者への献金を納めることが,当時,自分がお世話になった方々への「お礼」になるとして自分で納得している。現在の心境は,と問われて思うことは,ひとえに月日が流れたということであろう。
 周辺地域は徐々に再開発が進み,初めてこの地を訪れる人々は「大震災があったとは思えない」と口々におっしゃる。傾いたビルは新しく建て替えられ,何事もなかったかのように立ち並ぶ。おかげさまで,私自身の毎日の生活には何ら支障はない。それは,なくしたものが少なかったこと,そして大変な災害を乗り切ったという,変な自信がついたせいなのかもしれない。

今なお残るダメージ

 震災後の職場では,震災による心身のダメージを受けた方々をお世話していたが,最近では震災による影響での疾患は,ほとんど表面には出てこなくなった。しかし,元気そうに見える人々の中にも,震災で受けた影響が今なお心のダメージとして残っている。おそらく,私自身が災害のニュースを聞くとその情景を思い出すように,程度の差はあるようだ。
 病院で働いているためかもしれないが,患者さんの中には,現在かかっている病気の生じる一因が震災だったと話をされる方々も依然としてある。震災に遭わなくても病気にはなっていたかもしれない,でも,震災での体験は心身ともに大変だった,ということである。先日も,外来通院中の患者さん方の会で,ストレスが話題になった。参加者の1人からは,「そのストレスは震災と関係しているのですか?」と質問が出た。医療者でない人々にとっても震災と発病の関連性は,かなり意識されているのだなと感じる場面だった。病気と共存していく人たちにとって,震災は終わらない。
 震災直後は,「以前の状態には決して戻れないが,戻れない中で適応する力,適応できなくても今はこれでよいと思える力。そこに至るには,やはり時間が必要である」と思って過ごしてきた。しかし一方で,時間をかけてもそこには至らないかもしれないことを,今なお体験している。きっと5年,10年といった単位で見続ける必要があるのだろう。健康問題を抱える人々の心は複雑である。そこに被災体験が加わると,さらに複雑多岐な状況が長期にわたって生じるという現実。私たち看護者がそれを細やかに捉え,さらにかかわり続ける必要性を,日々の職場の中で感じる。災害によって引き起こされる人々の反応は多様であり,かつ長期的であること,それを6年たった今も,体験し続けている。