医学界新聞

 

新春随想
2001


ダイナソー

廣谷速人(島根医大名誉教授)


ナイスガイのダイナソー

 「ダイナソー」というディズニー映画が,昨年末に封切られ評判になっているそうだ。私の友人にも「ダイナソー」がいる。「Eric the Dinosaur」ことDr.Eric L. Radinである。アーモスト大学を経てハーバード大学に学び,レジデント・軍役時代からMIT(マサチューセッツ工科大学)で研究を続けてきた,整形外科バイオメカニクスのパイオニアにして大家である。
 アメリカ人の中でも背が高いほうで,足のサイズが30cmはゆうに超える大男だから,彼を「ダイナソー」と呼ぶ,わけではない。2,3年前に「先生の考え方や金銭感覚は,明治の化石だ」と人に言われているとEメールを送ったところ,「自分も今頃の人たちと意見が合わないダイナソーだ」と返事をくれたからである。
 彼と出会ったのは,1969(昭和44)年にハーバード大学へ留学した時である。私より5歳若く,当時助教授であった彼は,留学生たちのテューターでもあった。一昨年の秋に,ある学会の特別講演に招待されて来日したので,3日間,久しぶりに行動をともにした。
 学会の講演でも壇上を歩き回りながらジョークを飛ばし,自分のジョークに自分で笑ってしまうという,根っからの陽気さがある。誰に聞いても「nice guy」だという。しかし,昨今盛んに行なわれている椎弓切除術の95%は不要だ,と言い切る硬骨漢でもある。ずいぶん前に,アメリカの医学で一番問題なのは何かと尋ねたところ,「conflict of interest(製薬業界との利害関係)だ」と教えてくれたことがある。今,アメリカではこの話題がかしましい。
 Eric自身はユダヤ系であるが,奥さまがクリスチャンであったので,クリスマスには,娘さんたちのために居間にクリスマスツリーを飾り,われわれ留学生は毎年夕食に招かれた。
 私が帰国する時,日本人は魚が好きなのだろうと,わざわざシーフードの店で研究室の送別会を開いてくれた。当時のリサーチフェローとしては,破格なことだった。

ビジネスライクな生き方ではなく

 その後,彼はウエストバージニア大学の教授となり,1982(昭和57)年に,私は客員教授として招かれた。その時,13人乗りの軽飛行機が暴風をついてモーガンタウン空港へ着陸するのを,真夜中なのに,レインコート姿で独り待っていた。彼には,このような律儀な面がある。
 その折に,家内が奥さまから聞いたところでは,「彼がプラクティスをもっとやってくれれば家計は楽になるのだが,彼は研究が大好きなので,自分は我慢している」とのことであった。その時いただいた彼女の手作りのドライフラワーは,今でもわが家の洗面所を飾っている。
 10年後,ヘンリーフォードホスピタルに移り,初めの頃は附属研究所の所長としてその充実をはかり,その後総長となった。 その間に最愛の奥さまを卵巣癌で亡くされた。彼はデトロイトとボストンの間を毎週往復していたが,娘さんたちのために「母親役も果たさねばならないけれど,到底無理だ」と,弱音をいく度も書いてよこしたこともある。昨年退職し,今はボストン郊外に独り居を構え,旧友との会食やクルージングを楽しむかたわら,タフツ大学の客員教授として医療倫理学を講じているという。アメリカ人の中にも,ビジネスライクな人ばかりでなく,このように律儀で実直な人物もいるのだ。アトランタの古いレストランで南部料理をご馳走になった時に, 「ハヤァトゥの生き方をずっと手本にしてきた」としみじみ語ったこともあった。
 人づきあいの悪い「明治の化石」と現代の「ダイナソー」との30年以上も続くこの交流は,私の誇りである。21世紀を迎えて,このつきあいがこれからも長く続くことを心から願っている。


パソコンとエアロビクス

石川恭三(杏林大学教授・第2内科)


20年前の挨拶

 私は今年の3月末日をもって4半世紀にわたってお世話になった大学を定年退職する。
 この期を直前に控えた今,「とうとう来るべき時が来たか……」というセンチメンタルな気持ちと,「やっと終わるなあ……」と肩の荷を下ろしてほっとため息をつく気持ちとが,私の心の中で背中合わせに踞(うずくま)っているようである。
 教授就任の挨拶に故林田健男教授を訪ねた20年前のことがついこの間のことのように思い出される。
 「君は今,何歳ですか?」
 「45歳になります」
 「そうですか,そうすると定年まであと20年もあるんですね。何でも好きな仕事ができますよ。実にうらやましい」
 定年を間近に控えておられた林田教授が,「実にうらやましい」と私に言ったその心境は,今の私にはよく理解できる。
 あれから20年の歳月が過ぎてしまった。この間に林田教授にうらやましく思われるほどの仕事ができたとはとうてい思えないが,まあ,こんなところが自分の限界なのかもしれないなと,近頃では甘い自己採点をしている始末である。

フリーター的医者を志し

 定年後をどう生きていこうかと何年も前からいろいろと考えてきた。
 私は生来の怠け者であるのを,無理に無理を重ねてずっと勤勉を続けてきたので,相当の疲労が溜まっている。だから,これからは居心地のいい怠け者の生活に戻ることを第一の目標に定めている。
 そうは言っても,まるっきり医者の生活を捨ててしまうのもいささか淋しいし,また,これまでのささやかな臨床経験を世のため人のために役立てたいという気持ちもあるので,週休5日制ぐらいのフリーター的医者をしばらくは続けたいとは思っている。
 では,残った5日間は何をするつもりかといえば,心おきなく晴遊雨読の怠け者の生活を愉しみたいと思っている。
 それでは,何をして遊ぶのかと直截に聞かれると,ゴルフもテニスもやらない,碁・将棋・麻雀もやらない,楽器はいじったこともないし,絵などは描いたこともない,といったまったくの無趣味の私はその返答に窮してしまう。
 遊びとまではいかないが,それほど退屈もしないで時間を費やすことができるものと言えば,近くのスポーツクラブで恥じらいもなく若い女の人たちにまじってエアロビクスに興じることと,パソコンに向かって駄文を書くことぐらいであろうか。
 これまでに駄文を綴って,『医者の目に涙』(主婦と生活社,集英社文庫),『カルテの裏側に』(主婦と生活社,集英社文庫),『心に残る患者の話』(主婦と生活社,集英社文庫),『医者の目に涙ふたたび』(集英社),『生へのアンコール』(岩波書店),『医者の目でみた老いを生きるということ』(海竜社)などのエッセイもどきの本にした。また,昨年は『白い虚像』(三笠書房)という初めての小説を出版することができた。
 エアロビクスにしろ,書き物にしろ,羞恥心をかなぐり捨てることで,何とかこれまで継続してこられた。ここにきて日増しに加速している体力・知力の衰えに少しでもブレーキをかけるために,これから先もパソコンとエアロビクスの力を最大限に利用しなくてはならないと思っている。


笑いの癒し人

伊藤実喜(フィリピン・ディ・オカンポ医科大学客員教授,伊藤医院長)


 大学病院での研修医時代,教授回診大行列に患者は緊張し,笑顔すらない病棟。新米医師の私には,なぜ大学病院で笑いを提供しないのか,なぜ笑いの治療室や笑いの舞台などがないのか,と不思議に思えた。この経験から,マジックをちょっとだけ,患者さんに提供しようと考えた。
 たまたま手品の道具を手にしたことがきっかけで,大学院で医学博士号を得るための研究と,マジックの知識と技術を得る生活がはじまりました。4年目に「老化とカルシウムに関する研究」で医学博士を習得し,10年目の1993年,カナダ・バンクーバーで行なわれた,第60回PCMA(Pacific Coast Association of Magicians)世界奇術大会に,日本アマチュア代表として初出場し,初優勝しました。その時から,「Dr.マジック」を活用することとなったのです。

笑いは治療

 マジックを活用して患者さんとふれあう医療活動の中で重要な要素に気がつきました。それは,マジック療法で発生する“笑いの効用”です。笑いを治療に取り入れた実在の医師の映画「パッチ・アダムス」(主演=ロビン・ウィリアムス,1998)にも共感し,もっと積極的に笑いの勉強を行なうことにしました。
 「笑う門には福来たる」ということわざがあるように,笑いや笑顔は,平和・幸福をもたらし,健康体にし,脳循環を高め,老化を遅らせ,免疫力を高め,NK細胞が活性化しがんの予防になることがわかったのです。笑いは治療なのです。
 笑いは「吐く」という生理運動から発達したものと考えられ,身体に入った毒(ストレス)を吐き出すことだと言います。また,笑いは社会の毒(争い,犯罪,いじめ,差別など)をも吐き出して浄化する力を有し,平和な社会を築いていくのです。
 しかし,現代社会はどうでしょうか。戦争,ストレス社会,学校・家庭崩壊,少年犯罪,介護虐待,考えられない医療事故……。まさに笑いが欠如した,世紀末の閉塞感を感じざるを得ません。

Dr.マジック国内外で活躍

 このままでよいのか? 何かよい方法はないのか? 1人悩んでいた時,「日本笑い学会」の存在を知りました。全国約1000名の会員で構成され,笑いを総合多角的・医学的・文化的に研究実践する学会です。そして,1999年8月に全国で10番目の支部「博多笑い塾」(会員130名)が発足し,私がその“代笑”を務めています。
 笑い塾では,「笑いと健康」をテーマに月1回の例会で,笑いのワンポイント医学講座,マジック講座,一発笑い芸,大道芸,落語,川柳,博多仁和加,腹話術,バナナのたたき売り,笑いの体験談など,多くの笑い芸を講習し,研究実践し,医療・ホスピス・福祉施設や刑務所への慰問活動,海外医療ボランティア活動にも貢献してきました。さらに,医療施設や行政からの委託で,笑いの出前講座や笑いのチャリティショーの開催も行なうことになりました。
 さらに3年前から,フィリピン・レイテ島で,医療と文化交流活動(NGO)を行なってきました。これは,太平洋戦争の激戦地レイテ島での慰霊活動から発展したもので,1999年2月,レイテ島に医療活動や経済援助を行なうレイテ生活研修センターが完成。また,マニラ市のディ・オカンポ医大の客員教授(国際医療学)に任命され,フィリピンと日本の橋渡しの役目を担うこととなり,笑いと医療の癒し人(治療人)の国際活動に,笑い塾とマジックが大いに役立っております。
 笑いで奉仕したり,ボランティア活動を行なうことで,相手が喜び笑うことにより,さらに自分自身もハッピーになることを,「笑いのミラー(鏡)法則」と言います。今後は「笑いと健康」をテーマに,より充実した活動を行なうため,NPO法人(本年4月認可予定)を取得し,「笑いで治療」を目標に,笑いの癒し人(笑招人)を育成し,多くの病んでおられる方々や,がん小児病棟,大学病院等の医療施設に積極的に出かけていくつもりです。笑いの治療人としての医療活動と医療スタッフの意識改革を含めた世直し活動が,21世紀の課題なのです。
 今後の活動予定として,本年2月にフィリピンで医療活動とチャリティマジックショーのNGO活動,7月14-15日の両日には福岡市で笑い学会総会,さらに2003年に福岡市で開催される日本医学会総会では,「笑いの医療改革」なる仕掛けを準備中です。ご賛同,ご協力いただける方を募集中ですので,よろしくお願いいたします。


医療の標準化の難しさ

泉 孝英(京都・中央診療所)


 少し前まで,喘息は大変厄介な病気であった。発作が起これば,患者は職場,学校を休み,嵐が過ぎ去るのを待つ姿勢で,発作の鎮まるのを待たねばならなかった。安定期(非発作時)において,発作防止に有効な手段はなく,発作防止は神頼みの域を脱するものではなかった。
 しかし,1990年前後から,喘息治療に革命的進歩が起こってきた。喘息の病態は,気道の慢性炎症と引き続く気道の攣縮であることが明らかになり,安定期に吸入ステロイド薬(抗炎症薬)を連用することにより発作を防止・抑制できること,発作時にはβ2刺激薬(気管支拡張薬)の吸入がきわめて有効であることが確認された。この「吸入ステロイド薬+β2刺激薬」療法により,喘息患者は,発作をきたすことは少なくなり,きたしても軽症で,休業・休学することなく,日常生活を送れることが保証されるようになった。発作による入院はまれになり,喘息死は激減したはずである。

町の診療所で気づいたこと

 一昨年の春,停年退官後,町の診療所で働きはじめた。そして,気のついたこと,落胆したことは,この「吸入ステロイド薬+β2刺激薬」という喘息の標準化療法が思ったほど普及していないことであった。町の診療所に来る喘息患者は,大学病院のような重症例ではない。ほとんどが軽症持続型である。医師に紹介されて,私のところに来たわけではないが,一応の喘息治療を受けている。前医による治療内容を尋ねると,「吸入ステロイド薬+β2刺激薬」の標準療法を受けていた患者はいなかった。大抵の患者は,経口の抗喘息薬を投与されている。中には,吸入ステロイド薬の投与は受けていたが,β2刺激薬は処方されていないという患者もあった。喘息管理に関して,「吸入ステロイド薬+β2刺激薬」の標準方式が確立して10年以上が経過している。私自身,医師会の講演会なりを通じて,この標準方式の普及に努めてきた。私にしてみれば,喘息の標準医療は,一応は普及したと思い込んでいた。見当ちがいであることが,町医者暮らしをしてみてわかったわけである。

なぜ標準化医療が普及しないか

 なぜ,喘息の標準化医療,ガイドライン医療が普及していないのかとの疑問について考えてみたい。情報化時代である。情報が伝わらないわけではない。伝わり方と内容に問題がある。医師会なりでは,頻繁に研修のための学術講習会が開催されている。しかし,医師会の講演会は,製薬会社の後援で行なわれている。新薬のPRに流れる傾向がある。抗喘息薬についても,吸入ステロイド薬についての講演会は頻繁に行なわれているが,β2刺激薬についての講演会はまずまれである。結果として,「吸入ステロイド薬」の知識は普及しても,「吸入ステロイド薬+β2刺激薬」の知識は普及しないことになっているようである。学術講演会のあり方が問題である。製薬会社の後援なく,医師会が独自に経費を負担して行なうか,医療の標準化・ガイドライン化の必要性を認めるならば,健康保険の支払い側の負担で医師に研修の場を提供すべきであろう。昨今,結核問題がやかましく言われていても,抗結核薬には新薬もなく,販売金額も僅少である以上,結核症についての研修の機会はきわめて少ないことも,関連した事象として指摘しておきたいことである。
 新春随想ともなれば,21世紀の夜明けの年であるだけに,夢と希望に溢れる先端医療の話に触れるべきであろうが,医療費問題はいよいよ深刻な国家経済的課題となってきている現状を考え,この際,直視すべき問題を取り上げさせていただいた。「適切な医療の普及と妥当な医療費」を目標とする医療の標準化・ガイドライン化は,21世紀において避けて通れることではない。