医学界新聞

 

《特別編集》

書評特集

シリーズ ケアをひらく

村上陽一郎氏
(国際基督教大学教授/科学史・科学哲学)
香山リカ氏
(神戸芸術工科大学助教授/精神科医)
川島みどり氏
(健和会臨床看護学研究所長/看護婦)
川名典子氏
(聖路加国際病院/リエゾン精神看護婦)
三好春樹氏
(生活とリハビリ研究所長/理学療法士)
小林光恵氏
(作家/看護婦)
樋口康子氏
(日本赤十字看護大学長/基礎看護学)
飯島恵道氏
(東昌寺副住職/看護婦)
黒岩卓夫氏
(南魚沼郡医師会長・在宅ケアを支える
診療所全国ネットワーク代表/医師)
國本啓子氏
(看護学校1年)


ケア学 越境するケアへ

広井良典(千葉大学法経学部助教授)

●A5 頁272 定価(本体 2,300 円+税)

  


モダンを超える医療の姿とは

《評 者》村上陽一郎(国際基督教大学教授/科学史・科学哲学)

 「ケア学」の提唱ということになっているが,現代医療の得失を意識し理解するための貴重な書物が出た,という読後感である。かつてのように,医師が「病気を治してやる」という姿勢で患者に臨み,患者も「病気を治して戴く」という意識で医師の前に座る,というような状況が医療のすべてではなくなっているのが現在の医療である。本書は,その事情を多角的に丁寧に解説してくれるからだ。

「エコロジカル・モデル」に見る現代医療

 医療の中に科学が浸透し,1つの病気には1つの病因が特定でき,病気の治療はその原因を取り除くという「因果的」治療を使えばよい。これが,19世紀以降の「近代」医療の本質だった。本書では「バイオ・メディカル・モデル」という言葉で描写される。
 筆者も言うように,このモデルは感染症には見事な成功を収めた。しかし,社会の高齢化による疾病構造の変化に伴って,このモデルだけでは医療は成り立たなくなってきている。著者は新しく求められるものを「エコロジカル・モデル」と呼ぶ。その意味では,現代医療は時代の最先端にある。
 しかし,と著者は言う。むしろ医療はようやく「モダン」に辿り着いたところもある。例えば,アメリカから輸入されたEBM(Evidence-Based Medicine)という概念が今日本の医療界を席巻しつつある。EBMというのは,しかじかの症状には対してはしかじかの範囲の治療法が合理的である,ということを疫学的な証拠に基づいて定めることを言う。
 そうではなかったのか,という疑問が浮かぶかもしれない。しかし,日本では,地域によって,また医療機関によって,あるいは医師によって,治療法にかなりのばらつきがあることは統計でも明らかになっている。したがってEBMには,治療法の「標準化」という意味がある。
 この背後には,アメリカにおける医療訴訟の激化への対応(EBMで定められた治療法を採っている限り,訴訟に際しては有利になる),保険治療費の高騰の防止など,副次的な要因も多々あるが,一面から見れば,医療の「規格化」であり,「品質管理」 にも重なる。つまり,それは大量製造,大量消費型の「モダン」の要素がようやく医療の世界にも入り込んできた,と理解することができる。
 同時にまた医療はこうした「モダン」の要素からかけ離れた個別性,一回性,多様性を宿命とする。その意味で著者は,現代医療こそ,モダンとポスト・モダンとが複雑に入り混じった現場である,と捉える。
 そうした中で,筆者は,医療が1対1という医師・患者関係を超えたところで成立すべきであるという考え方を提案する。それがエコロジカル・モデルの中心でもある。

患者と,それを取り囲む「環境」との相互の共存

 もちろん,すでに現代医療はティーム医療であるという発想はあちこちで語られる。患者に接する医療関係者の職種は増えるばかりで,彼らの「分業」と「協力」が医療を支える,ということは常識になりつつある。
 著者の提案はそのことももちろん前提にした上で,しかしもう少し哲学的,人間論的な領域に踏み込んだ立論において,患者と,それを取り囲む「環境」との相互の共存こそ,これからの医療のモデルだと主張する。そしてそれが結局は「ケア」の本質でもあることになる。
 著者は厚生省にも経歴を持つ学究だけに,本書では医療経済を含む社会制度の側面にも,しっかりした目配りが効いており,包括的な医療書である。
(「毎日新聞書評欄」(10月15日付)より)


柔軟な発想に感動,読後の感想を語り合いたい

《評 者》川島みどり(健和会臨床看護学研究所長/看護婦)

 乗り物の中でしか読書時間のない私をとりこにした本書は,個人のライフサイクルを座標軸とする社会保障を基盤にして,ケアという切り口で,思想,老い,死,医学・医療そして制度について,広範囲にしかも丁寧に述べている。著者によれば,「ケア」というテーマ自体の持つ必然的な広がりゆえというが,それにしても時宜を得た問題提起が随所にあって,読み始めたら終わりまで読まずにいられない。

医療モデルから生活モデルへの転換を強調

 先著『ケアを問いなおす』(ちくま新書)の,「高齢社会は障害が普遍化する社会である」との言に,看護婦として具体的な実践課題を突きつけられた思いがしたが,本書はさらにこれを深め,医療モデルから生活モデルへの転換の視点がより強調されている。人間全体を見ると自負していたはずの看護が,高度医療の進む環境のもとで,いつしか病気の看護の達人となっていて,障害の看護は全くの盲点であったことに気づかされた。
 このことは,「看護は病気を」「介護は障害を」という介護保険下での機械的な棲み分けに反論できないまま,うやむやの分業と協業がスタートしてしまったことにも通じるような気がしている。受け手の立場から考えれば,看護と介護の専門性の区別などどうでもよいし,縄張りを争うつもりもないが,当の専門職者らが明解にこれを説明し得ないため,便宜的に両者を「ケア」という用語でくくって用いられている面もないわけではない。

人間的な深い意味を持つケアを語る

 本来ケア自体は,特別な人の行なうことではなく,誰もが日常的に自分自身や自分以外の人々に行なっている行為である。だが,これを職業として行なう職種は,今のところ看護職と介護職である。そこで,ケアを必要とする人へのケアの質の保証が求められるのだが,質まで目が届かない実状がある。これは,介護保険という事実の先行により,速成養成をせざるを得ない介護職のヒューマンパワー事情と,長年医療モデルのもとで仕事を続けてきた看護職の,生活モデル下での方法論を持ち合わせないことが影響している。
 本書で論じられるケアは,より人間的な深い意味を持つものであるが,職業としてのそれに限って見ても,著者の言うケアという行為の論理に添った実践への期待に応えるには,クリアしなければならない問題が山積していることは確かであろう。

看護の方向に曙光を当てる

 本書の原型となった論文は,著者の人生の中での大きな節目の時期に書かれたと言うが,とりわけ「死生観とターミナルケア」は,著者の死生観の深化の実証ともいえ,読み応えがあった。「死後」と「生前」の世界の同質性から,死とは生まれた場所への回帰であるとの哲学は,直接的な時間観にとらわれつつ,限りある生を実感している私自身にとっても,かなり現実味を帯びた人生の終末準備への示唆となった。自然の中に生まれ自然の中に帰っていく「からだ」としての人間,人間特有のコミュニティの通路を通って「帰っていく場所」に行くのが「死」であると理解した。
 「サイエンスとしての医療とケアとしての医療」の章では,現時点で共通の理解がされているとは言えない。だが,緊急に論議しなければならない問題が多く述べられている。中でも,「標準化とEBM」については技術論的に討論する余地があると思えた。
 本書を通読して,著者のグローバルな視点からの,実に柔軟な発想にまたしても感動し,知的な思考の底に流れる人間としての深層の時間に触れてみたい思いに駆られた。読後の印象を語り合うことが,混沌として見えにくいこれからの看護の方向に曙光を当てると思われる。ぜひ一読を勧めたい。


「科(ごとの)学」を越えて“老い”と“介護”を探る

《評 者》三好春樹(生活とリハビリ研究所長/理学療法士)

「老人問題」にではなく,「老い」や「介護」そのものの意味を探る

 私は学者に対して予断と偏見を持っている。難しい話や外国での見聞を語るだけで,介護現場で役に立ったためしがないからである。それに威圧的な人が多い。
 学会などで,現場からの素朴な疑問や質問に対して「『月刊○○』の○月号に書いた私の論文を君は読んでないのか!」などと言う学者がよくいる。“そんなもの誰も読んじゃいないよ。そんな暇が現場にあるもんか”と誰もが思っているが,もちろん口には出さない。
 いくら学者とはいえ,老いを研究対象とするなら,老化過程が,論理やコトバ,自己といった世界から抜け出していくものであることに気づくはずである。論理やデータが及ばぬ世界が粛然としてそこにあるとき,自然に身につく自己限定性,つまり謙虚さのようなものがないことこそ,私の彼らに対する最大の不満なのである。
 でも無理もない。多くの学者は,「老人問題」には興味はあっても,「老い」や「介護」に興味は絶対なさそうなのだ。それはあたかも意味のないことのように扱われ,制度を整えて,マンパワーを充足すれば解決するかのように思われている。
 しかし,その「老い」や「介護」そのものの意味を探ろうとする学者も現れてきた。前著『ケアを問いなおす』(ちくま新書)と,本書の著者である広井良典氏である。

権力を無化していく力を持つ

 「三好さんの本が紹介されてますよ」と知人に言われて手にした前著もそうだったが,本書でますます著者は“老い”と“ケア”の深みにはまってしまっているように思える。学者らしくもなく,というのはもちろん誉めコトバである。
 身体機能にかかわるPTである私が,『関係障害論』(雲母書房)なんてものを書かざるを得なくなったように,医療政策を専攻する広井氏が,宗教や時間論へと踏み込んでいく。私たちが「自己決定の原理」なんていう近代的主体を前提としたやり方に対して「共同決定の原理」なんてコトバを作り出してきたように,氏もまた,1対1モデルのカウンセリングの原理に疑問を感じ,1対1の背後に存在する「コミュニティ」と「深層の時間」を提起する。
 「福祉社会」なるものが理想の社会などではなくて,ミシェル・フーコーのいう「牧人権力」が支配する権力の最後の形態ではないか,というのは,福祉現場の息苦しさの中にいる私の実感である。
 科学の強調による専門家支配や倫理主義がその息苦しさを増大させている中で,「越境するケア」というサブタイトルにもあるように「科(ごとの)学」を越えて展開された本書は,権力を無化していく力を持っていると確信する。
 もちろん学者たちの自己中心性をも。


看護関係者にとって必読の書

《評 者》樋口康子(日本赤十字看護大学長/基礎看護学)

 本書の第一印象は,「広がり」と「深さ」という2つの言葉で表現されよう。

ケア学の「広がり」

 「ケア学」を構築しようとする著者は,本書において「ケア学」がカバーする学問領域とケアする射程距離を明らかにしようとする。ケアの「広がり」は,A5判で270頁を超える本書のボリュームそのものであり,次のような本書の章立てにも表われている。
 I:ケア学の必要性。II:サイエンスとしての医療とケアとしての医療(医療モデルの意義と限界)。III:老人・子供・ケア(生活モデルの新たな展開)。IV:超高齢化時代の死生観とターミナルケア(スピリチュアリティの次元)。V:ケアにおける医療と福祉。VI:ケアと経済社会。
 このような「ケア学」が持つ「広がり」は,ケアする意味や「深さ」から必然的に起こってくる,というのが著者の主張である。

ケア学の「深さ」

 ケアという仕事は,バラバラになった個人を再び結び付けるものである。経済の進展や社会的構造・家族機能の変化にともなって「個人」が単位となったことと並行して,家族内部で行なわれていた「ケア」が外部化され,「職業としてのケア」が成立せざるを得なくなった。「ただ聴いてもらえる」だけで癒されるのは,「自分という存在が相手に受容された」というポジティブな感覚をもたらすからである。「ケアの意味」は,「外部化」してしまった個人としての人間を,もう一度「内部化」「一体化」するところにある。
 外部化していく「個」としての人間をもう一度共同体への内部化に向かわせる,その反転の間際にあるのが「ケア」という営みであると本書は言う。それゆえ,「ケア」は自己の壁を破って外部の世界へと反転させる内発的なエネルギーとなる。つまり,「ケア学」は,境界を突破してゆく「越境的な性格」を持つのである。

本書と看護

 著者は難しい内容をわかりやすい語り口で書いているので,大部の本書を一気に読み終えた。読みながら,本書の内容である「ケア」の本質そのものを「もっと知りたい」という知的エネルギーがわき上がってくるのを感じた。
 確かに,著者は「ケア」について全体的な見取り図を提示した。たぶん著者の今後の課題は,総論的な本書を各論へと発展させていくことにあろう。看護学を本拠とする私個人としては,著者が提示した見取り図の各論を実際に描いていくのは,「看護の実践が展開されている医療の現場からである」という自覚がさらに強化された。
 ケア学の「広がり」と「深さ」を現実のものにするために,「看護が果たすべき役割」について考えさせられた次第である。
 その意味で,本書は看護関係者にとって必読の書となるであろう。


暗い森から脱出するために

《評 者》黒岩卓夫(南魚沼郡医師会長・在宅ケアを支える診療所全国ネットワーク代表/医師)

創造や文化の背景に「遊び(遊)」を置く

 本書の中で,人間の三世代モデルを提起しつつ,老人と子どもを同時に登場させるところがたいへん面白かったし,納得するものであった。
 ちょうど私も,老人ケアの日々の中で「早く死んでほしい」ではなく,「なるべく生きてほしい」という気持ちでケアができるとすれば,老人の存在する“意味”や“価値”をどう捉えたらよいか悩んでいるところでもあった。このへんのところを,思想的にも科学的にもしっかり押さえておかないと先が見えてこないと思う。
 著者は,《「生産」や「性(生殖)」から解放された,一見(生物学的にみると)“余分”とも見える時期が「大人」の時期をはさんでその前後に広がっていること,つまり長い「老人」と「子ども」の時期を持つことが,人間の創造や文化の源泉と考えられるのではないだろうか》と述べている。
 そして,その創造や文化の背景に「遊び(遊)」を置いている。まさにその通りだと思う。
 私が今おつきあいをしている80歳前後の老人たちは,“遊”を理解しない。働くことしか知らないのだ。とすれば働かなければ自分の価値はないということになるのである。

複数世代が交流する「コミュニティ/環境に開かれたケア」

 自分の生きている価値を認められない巨大な老人群をイメージできるとすれば,それは深くて暗い森でしかない。私はその森の中に自分がさまよっていると思うことがある。ケアする人される人の無限の連鎖がその森の奥へ引き込まれていく。
 ではどうしたらよいのか。
 著者は,まず高齢者同士の相互作用に着目することにより,受動性から主体性へと,暗い森から脱する方向を示している(生活モデルの第2段階)。それに続く第3段階で,複数世代を含む交流を提案する。それが先に触れた,老人と子どもが登場する「コミュニティ/環境に開かれたケア」なのである。

「大和方式」にもつながる

 わが国の伝統とも言える「タテワリ体質」の打破をケアの中に持ち込もうとしている著者の姿勢は,ケアの本質をついているものと思う。「ケアは越境する」と表現されているが,私の経験からも大きくうなずけるところである。
 私は今から30年前にこの雪国・越後にやってきて,地域医療なるものに取り組み,そこでぶつかったのは,一時代前の文字どおりの「タテワリ行政」であった。つまり医療・保健・福祉は別々の屋根の下にすみ,「隣は何をする人ぞ」だった。人間(患者)は1つの生き物にすぎないのに,なぜ別々の家を訪れなければ1つの答えがでないのか。私たちはケアの現場(その頃はケアという言葉はほとんど使われていない)から,タテワリをぶちこわすことが大きなテーマとなり,それが後に地域ケアの「大和方式」と呼ばれることになった。
 広井氏の著書の評に名をかりて自分のことばかり書いて申しわけないが,それは,こうした歩みが著者の試みとどこかつながっているとの思いからである。


気持ちのいい看護

宮子あずさ(東京厚生年金病院)

●A5 頁220 定価(本体 2,100 円+税)

  


「王様は裸」と,自身をも語ってしまう勇気

《評 者》香山リカ(神戸芸術工科大学助教授/精神科医)

率直な疑問を持って医療現場を見ると……

 癒しや福祉の〈ブーム〉にも関係してのことか,それとも高齢化社会を反映してか,最近,医療や看護についての一般向け出版物が世に氾濫している。その中には医療にかかわる側が書いたものもあれば,医療を受ける側が書いたものも。しかし,それらに目を通しながら私自身は常にこう感じてきた。「確かにあんたの言うことは正しい……でも,何か違うんじゃないか?」
 そしてこのたび,本書を読んで自分の違和感の根っこがどこにあるのかがようやくわかった。これまでの本や発言には,その裏に強烈な「自己正当化の願望」があったのだ。
 現役看護主任として活躍中の著者は,自分の領域で目撃するさまざまな人たちの言動に率直な疑問を持つ。例えば,自説の正しさを証明することにばかり熱中して現実離れしたケア論を語る学者,自己の価値に悩むあまり看護研究発表会で他人を責める看護婦,自らを特権的だと考える医師,そしてケアを受ける患者にさえ,「なぜ彼らは,他人である看護婦に対して,ああも不作法になれるんでしょう」と疑問を投げかける。「王様は裸だ!」と叫ぶあのおとぎ話の子どもを連想する読者もいるだろう。
 著者から見れば,医療現場は美しい感動ドラマの世界どころか,それぞれは理想や熱意を持った人たちなのに,気づいてみたらお互い奇態な振る舞いをしながら足を引っ張り合っているという世にもフシギな妖怪世界なのかもしれない。そうやって読者はまず,「看護婦の仕事や医療現場って,これまでイメージしていたものと違うぞ」ということに気づかされていくのである。

自分自身の分析を通して,他人の問題に光を当てる

 しかし,この本が本当にすごいのは,その著者の純粋にしておそらくは真っ当な批判の眼は,他者にだけ向けられているのではない,というところである。著者は何度となく,自分は自己評価の低い人間であり,コンプレックスのかたまりであると語る。多くの人は,看護主任の激務をこなしながら文筆家としても活躍する著者に憧れのまなざしでこう言うであろう。
 「普通はひとつの仕事でもたいへんなのに,宮子さんはスーパーウーマンですね」
 ところが,著者の言葉を借りれば事実はその逆,「書かない人間だったら,とうにつぶれていた」ということ。自分は書くという作業によって,看護の仕事では失われがちな自己尊重の意識の低下をかろうじて食い止めている,と分析しているのだ。
 このようにして,著者は自分自身の抱える葛藤や劣等感なども小気味いいほどさらけ出し,その分析を通して先ほどあげたような他の人たちの問題にも光を当てようとしていく。そのため手厳しい批判にも嫌味が感じられず,「ケアする人間は,ケアされたい」などの本質的な発言にもぐっと説得力が加わる。
 自己の正当化に走ることなく,時にはユーモアも交えながら“あたりまえの人間”である医療者や患者を,そして自分自身を語った著者の勇気に拍手を送りたい。


看護が陥った呪縛から解放される「気持ちよさ」

《評 者》川名典子(聖路加国際病院/リエゾン精神看護婦)

「看護」の言語化に挑戦

 宮子あずさ氏は今までご自身の看護婦としての経験を自分の言葉で表現してこられた。氏と患者さんとのやりとりを通じて描かれる病床風景は,入院生活あるいは看護婦生活の経験がない人々にとっては多少暴露的な要素がないわけではなかったが,時には患者のふん尿まみれになりながら,また患者の悪態に傷つきながらも業務につく著者の姿に自分自身を重ねた看護婦は多かったのではないかと思う。そんな風景かから見えてくる,自分も患者も含めた人へのいとおしさの中に,言葉にならない「看護」の何かを語っていた。
 本書は,そんな氏があえて看護を言語化しようと挑戦した,“ですます調”で書かれた看護論であるという。表題は『気持ちのいい看護』であるが,気持ちのいい患者の話がほとんど出てこないところがまずおもしろい。看護論といっても,氏のことであるから「あるべき」論も理論も当然出てこない。理論とのつきあい方,本書では「ケアの語りにくさ」について,あえて言語化することからはじめている。
 「理想」―「追いつかない自分」=「自責感」というシンプルな定式で看護婦が看護を語れない事情を分析し,また本来個別的個性的な人間を相手にする「文系」の看護が,医学に目がくらんで医師と同じ「理系」の土俵に乗ろうとしてしまうことからくる科学コンプレックスなど,看護が陥っている落とし穴を丹念に述べている。科学との距離については,佐々木力氏が『科学論入門』で言及している内容に近いが,それを看護婦の目線で率直に述べているところに感動を覚える。
 臨床看護に従事する読者は,きっと著者の知的な作業を追いながら,呪縛から1つひとつ解放されていく体験をするのではないだろうか。

ベナーが語る世界に限りなく近く

 看護での対患者関係では「患者の話を聞くこと」が基本と言いながら,著者は同時に「話を聞くことがいかにつらいか」とも告白している。職業として人の話を聞くことは実際にたいへんな技術を要することで,そのたいへんさは本書に紹介されている事例を読めばすぐわかるし,事例を読まなくても臨床家であればすぐに納得するであろう。さらに精神看護の専門家から見れば自明のことである。看護を語る難しさの1つは,人を理解すること,共感することの難しさとも関係があろう。
 著者はその解決方法を,体当たりの経験の中から自分流のやり方で見い出していくプロセスを,自身の体験を通して語っている。著者が対応に窮したと思われる患者の理解の方法についてはちょっと討論したくなってしまうのであるが,一人前からベテラン,そしてエキスパートへと変化する著者自身の姿は,著者自身が親近感をもっとも覚えるというパトリシア・ベナーによって語られた世界に限りなく近く,大変印象深いものである。

興味深い文化論にもなっている

 本書を貫いているのはフェミニズムである。著者自身が「私はばりばりのフェミニスト」とまえがきで白状しているのだから当然だろうが,フェミニズムの視点は介護の担い手をめぐる性差別などの社会的政治的問題の指摘にとどまらない。人や社会の多様性を受け入れ,存在することを受け入れる,それは正義や論理性を重視する従来の価値観とはまったく異なったフェミニズムの思想を抜きには看護は語れない。このあたりはもっと過激に言語化してほしいと勝手な期待を思わずふくらませてしまう。
 終章では,「患者がナースコールではなく,携帯電話をにぎりしめるようになるのだろうか」,など,興味深い文化論になっている。
 全編を通じて,小見出しのテーマごとに著者が論をめぐらせる構成で読みやすい。著者に同意したり,いやちょっと,と反論を考えたりしながら読み進んでいくと楽しい。


強い意志と覚悟のもとに語られた「本音中の本音」

《評 者》小林光恵(作家/看護婦)

 書店の看護書コーナーにときどき足を運ぶ。ナースにまつわる話を書いている者としては,看護界全体の様子を少しは感触として知っておきたい,という欲が顔を出すのだ。しかし,そこへ向かいながら私はいつもどぎまぎしはじめる。看護にまつわる情報量の多さに圧倒され,しまいには動悸を覚えるのをわかっているからだ。定番本に加えて,新しい看護論,それからいろいろ……ずらっと並んでいる。看護書コーナーはあくまでもメディアであり,イコール看護界ではないとわかってはいるのだが,それでも私は「あれも読んでない,これも知らない」とあせり,山のように本や雑誌を抱えこむうち,冷静ではなくなり,結局は買わずに置いてきてしまう。そして,いらない心配までする。現職のナースたちは,このコーナーにきて,どんな思いをめぐらすのだろう。もしかしてどっと疲れる人もいらっしゃるのではなかろうか,と。

一言一言に胸を打たれた

 白状してしまう。私は本書を泣きながら読んだ。悲しいからでも,くやしく思ったからでも,たまたま泣きたいタイミングにあったからでもない。宮子さんの一言一言が,びんびん響いてきて,胸を打たれたのである。彼女は,自分の心を繰り返し点検し,投げ出さずに考え続け,語りにくいこと,言いにくいこともはしょらずに,しかも,あらゆる立場を慎重に配慮し,「本音中の本音」を語っていた。
 本音を語るのは難しい。本音を語ることとは,思ったことを素直に表現することのようであるが実は違う。自分の考えや気持ちを客観的に吟味し,それを確かに語るための表現を考え,意志と覚悟を固めた後に語られるのが本当の本音。だから本音を語るには相当なエネルギーが必要なのだ。宮子さんはそれを知っている。それをやっている。

読後の興奮状態の中で一文抜粋を紹介する

 ここで,私の胸にびんびん響いたくだりを一部紹介したい。文章は流れの中で意味を持つので,一文抜粋は乱暴ではあるが,読後の興奮状態でのこと,とご容赦願いたい。

――看護の語りにくさのなかにこそ,看護の本質があるのではないでしょうか。(「ケアの語りにくさを語る意味」より)
――世の中には,「当事者にならないとわからないこと」と「当事者になったらわからなくなってしまうこと」があるんだと思います。(「ケアの語りにくさを語る意味」より)
――「もうだめだよ。もう明日までもたねえよ。おさらばだ」と力なく言っている患者さんが,来週の食事のメニューが食堂に貼られていないと激怒する。そんな姿に感動できるようになってこそ,看護婦として人を見る深さが醸し出されてくるのではないでしょうか。(「ケアするものの発達過程」より)
――病気と見るその見方を単なる「画一化」にしてしまうか,「普遍化」にまでもっていけるかが,その看護婦の力量とも言えるそうです。そして,患者さん個人の個別性と,病気からくる普遍性の間を行きつ戻りつすることが「患者さんを見る」ということなのではないでしょうか。(「『世の中』の中のケア」より)
――正解はひとつではありません。それぞれの人が一生懸命その人のために気持ちをつくすこと。それが人を力づけるのだということが,よくわかりました。(「ちょっと長いあとがき」より)

 現職のナースのみなさんには,私より何倍も本書の宮子さんの言葉がびんびん響いてくることだろう。看護界も21世紀を迎えようとしているいま,宮子さんの本格的看護論集が出たことにとても大きな意味があると思う。
 書店の看護書コーナーに行っても私は,もういたずらにどぎまぎせず,落ち着いて各書を手に取ることができるような気がする。


黒衣を着てもなお,ケアを続けていく元気をいただいた

《評 者》飯島恵道(東昌寺副住職/看護婦)

 実は書評のお話をいただくまで,私は宮子さんの本を手に取ることができなかったんです。「元気すぎて私には刺激が強すぎる」というのが正直な気持ち。でもなんだかこの本は「うんうん」とうなずきながら読むことができました。宮子さんの中に変化が起きたのか,私の中に変化が起きたのかはわかりません。心に響いたことばをポストイットに書いてペタペタ貼りつけたらものすごい量になってしまい,母に「そりゃなんだい,いったい??」とびっくりされてしまいました。

自責の念の呪縛から逃れられない私

 1年前まで看護婦をしていました。私が実践していた看護は果たして「気持ちのいい看護」であっただろうか? それを調べるためには「ケアの受け手である患者の満足度を見ればよい」というのが一般的な考え方でしょう。しかし著者は「患者の気持ちよさは,看護婦の気持ちよさ」という思い込みに対して疑問を投げかけ,看護婦をとりまく状況の複雑さをみたら,そんな単純な図式では説明しきれるものではないし,直球勝負で切り抜けられるものではないのだ,と言います。
 看護婦をとりまく状況もそうですが,患者をとりまく状況も科学では説明しきれないものを多分に含んでいます。そのせいか,医療現場で働く私の口から出る言葉の語尾はいつも「…………。」って感じでした。たしか看護記録にも「…………。」という形の記載をしてしまい,チェックが入ったこともあったなあ…………。
 「文章を書くのは得意」としていた私ではありましたが,現場で起こる事象のすべてを言語化することなど到底できません。言語化できた部分のことについては,私なりにすっきりと解決したように思えたのですが,言葉にできずモゴモゴしていた部分を自分の中に抱えたまま,あるいは現場にそのままそっと置き去りにする形で,私は病院を辞したのです。「お持ち帰り」の言葉たちと,私はこの先いっしょに生き続けなければならないのだろうか。ちょっと気が重い。
 私はテキパキと,スッキリスカーっと看護を語る人に憧れていました。いや,そういう姿こそが「看護婦のあるべき姿」だと思っていた。なので,経験を積んでもまったくそのようになれない自分がとても嫌でした。病院を辞してもなお「自責の念の呪縛」から逃れられずモゴモゴいってる私に,「そんなに自分を責めないで。自責もほどほどにしないと,白衣を着る元気さえなくなってしまうから」と著者は本の中から言葉をかけてくれたように思います。
 《「できないけど,わかる」,「わかるけど,できない」,そんな口ごもってしまう思いを大事にしたい。看護の語りにくさの中にこそ,看護の本質があるのではないでしょうか》と語る著者のことばの裏側に,「父親の死という悲しい出来事を通していっそう円熟味を増した心」を感じ,バリバリと清拭をこなす若手のナースを,一歩ひいたところから見守る先輩ナースの姿を見た思いがしました。

できることなら病院を辞める前に出逢いたかった

 今,私は尼僧1年生。5日に1度髪を剃るので,5日に一度はピカピカの1年生になれるのです。そんなことはどうでもいいけど,できることならば病院を辞める前にこの本と出逢いたかったなあ。
 しかし今は,著者の「円熟味を増した心の力」に押され,「黒衣を着る元気」を与えていただいたような気がしています。それは「黒衣を着てもなお,ケアを続けていく元気」。自分を責める前に,まずこの本を読んでほしい。看護婦を辞める前にぜひ読んでほしい1冊です。


「看護でなければできないこと」ではなく

《評 者》國本啓子(看護学校1年)

 私は今年の春4年制大学を卒業し,看護学校に入学した。いまは悲鳴をあげつつ毎日の学校生活を過ごしている現役の看護学生だ。1年生という未熟すぎる立場だが,この本を読んで感じたことを書いてみようと思う。

「看護婦がすることはみんな看護」という言葉に爽快感を覚える

 看護学校に入学する以前から,私は看護というのは曖昧で,その独自性を的確に表現するのはむずかしく,だからこそ力を発揮できる場面が多くあるのではないかと思っていた。だから,看護の専門性を無理に追求する必要もないし,明確化できないことをネガティブに捉える必要もないとも考えている。
 以前,看護学校の講義の中で,先生がある患者の事例をあげて,その場合の援助を看護婦と介護福祉士のどちらが行なうべきかを私たちに質問したことがあった。私はこの時,不安を感じた。それは,もし看護婦側は介護福祉士がやるべきだと言い,介護福祉士側は逆に看護婦がやるべきだと言ったら,いったいその患者はどうなるのだろうか,ということだ。
 もちろんこれは極端な例にすぎないが,「どちらがやるべきか」といった類の問いに正解を求めることには,常にこのような危険も含まれている。そこに目を向けることなく,看護の専門性を語るべきではないと思う。看護の専門性を明確化しようとするあまり,本来看護を必要としているのにその対象からはずれてしまう患者が出てくる可能性もあるということを,きちんと押さえておくべきではないだろうか。
 このことを思うと,「看護婦がすることはみんな看護」という宮子さんの言葉に,ある種の爽快感を覚える。今の私も,看護の専門性云々よりも,看護婦免許取得後どのような仕事をしていくのか,そのために何をしたらよいのかを考えることのほうが重要だと思っている。だからいま私が努力しているのは,医療の知識とケアの技術をもった専門職である看護婦としてできなければいけないことを身につけるためであって,「看護婦にしかできないこと」を身につけるためではないと自覚している。

同情と共感の違いにこだわりたくない

 1つのことを主張しすぎると,本当に大切なことが見えなくなってしまう危険性がある。専門性の議論以外に,同情と共感の違いについて考える時も,私にはその危険が感じられて仕方がない。
 これも学校での話になるが,ある講義で,共感的に話を聞く方法や,共感はよいが同情は好ましくない,ということについて教わった。もちろん共感的聞き方をテクニックとして持っておくことはよいと思う。ただ,そこに本物の感情が見えるのかというと,どうだろうか。なにより,「同情は人を見下す感情だ」という認識が存在するからこそ,同情によって無駄に傷つく人がいるのだと思う。同情されること自体が嫌な人と,同情されることで「自分がかわいそうな存在だと思われている」と感じることが嫌な人とがいるはずだ。
 宮子さんの「同情と共感は紙一重」という言葉の意味するところを,私はまだはっきりとは理解できない。だが,共感と同情の善し悪しにこだわることで,本当の感情が見えにくくなっている面がある,ということは言える。そしてこのことは,看護の場面においてあまり好ましくないことだと思う。

もう一度この本を開いてみよう

 以上のようなことをこの本を読んで考えたが,主観的で抽象的なことばかり書き連ねてきたような気がする。
 看護についてもっと具体的に考えられるようになった頃,もう一度この本を開いてみようと思う。