医学界新聞

 

東大の医学教育改革における新たな試み

トーマスS.イヌイ氏 特別招聘教授として来日


 今年7-9月の3か月間,トーマス S.イヌイ氏(ハーバード医科大学総合診療部教授,写真右上)が,東大医学部特別招聘教授および文部省特別招聘教授として来日された。この滞在の主な目的は,東大の医学教育についてアドバイスを行ない,またこれを通して日本の医学教育への助言・提言を行なうことにある。
 氏は,東大の医学部教官たちと「東大Inuiプロジェクト」を発足させ,共同で医学教育法のデモンストレーションなど,多岐にわたる活動を行なった(表1)。また,この4月に設立された「東京大学医学教育国際協力研究センター」が実務的な役割を担い,イヌイ氏の活動をサポートした。
 おりしも現在,東大では,医学教育カリキュラム改革を進めており,また,Faculty Development(教官の質向上)にも力を注ぎ始めたところ。イヌイ氏の一連の活動は,そこに大きな弾みをつけ,さらに医学教育改革を推し進める大きな原動力となることが期待されている。
 本紙では,同センターの松村真司氏(医学教育国際協力研究部門)の協力のもと,イヌイ氏の活動の一部に参加する機会を得た。さらに,同センター長である加我君孝氏(耳鼻咽喉科学教授)に東大の医学教育改革について,また教官の立場としてイヌイ氏の一連の活動に参加された吉栖正雄氏(老年病学)に,お話をうかがった。


■「臨床入門」OSCEを中心に

 学部生,教官を対象に行なわれた「Introduction to Clinical Medicine」(「臨床入門」毎週水曜,計4回開催)では,現在,学生の臨床能力を評価でき,教育効果が高いと言われるOSCE(Objective Structured Clinical Examination)を概説。
 ハーバードでは計200時間を使っての「患者-医師関係」コースの総仕上げとして,OSCEが行なわれている。同大ではOSCEを16のステーションで行なうが(本紙2396号学生版「これがハーバードのOSCEだ」に詳しい),第1回目のレクチャーでは腹部の痛み(abdominal pain)のステーションを想定し,全体像を把握するためのデモンストレーションが行なわれた。
 症例は,「50歳の男性。職業は弁護士で,腹痛を訴えている」。ここでは,患者の過去の病歴から問診などを含めて,多岐にわたる情報を患者からいかに引き出すかが問われる。
 参加学生の中から医師役を1人選び,イヌイ氏が患者役という形で臨む。学生は8分間で医療面接と身体所見を取り,その後,患者の問題点や鑑別診断をめぐって4分間のプレゼンテーションを行なう。患者役であるイヌイ氏や評価者(ここでは参加者全員)から,学生の臨床技能についてレビューされる。
 教官の役割は,学生が行なった医療面接や身体所見の取り方などの臨床技能や鑑別診断が正しく行なわれたかを評価し,不足があれば,それらを学生に伝えることにある。OSCEで最も重要なのは,学生にフィードバックを行なうことなのである。
 「OSCEは単なる試験ではない。フィードバックと学生の動機づけが重要である」イヌイ氏は何度もその点を強調する。また「フィードバックとは批評ではない。フィードバックがなければ,OSCEはただのテストに過ぎない」と言い切る。OCSEとは,学生に身体所見と問診から浮かび上がる問題と,病態生理学とを頭の中で統合させ,その理解の上に質の高い臨床能力が身についたのかを見ることが目的なのでのある。

■実際にOSCEを体験

 2回目のレクチャーでは,イヌイ氏の指導のもとに東大の教官によって作成された症例とチェックリストに基づいて,OSCEを指導するためのセッションが行なわれた。このセッションでは,OSCEに必要な準備や,具体的な進め方などを体験する。
 用意された症例は「50歳男性。3日前より左下肢に疼痛を覚える。特に歩行時に痛むが,休むと軽快する。たばこは1日30本,ビール大瓶1本」。イヌイ氏はショートパンツを着用し,迫真の演技で患者役をこなした。問診のあと,医師役の学生の指示のもと机の上に(まるで診察ベッドのように)横になり,膝関節の身体所見の取らせる。それを教官が見て,作成されたリストに基づいて学生を「評価」することを体験する。

■映画も教材

 イヌイ氏は,身近にあるものを,学生の興味を引きつけるような「教材」に変えてしまう才能がある。
 3回目のレクチャーは,OSCEと同様の教育効果が期待される方法として,映画のワンシーンを学生にみせ,その中で繰り広げられる患者と医師とのやりとりを通して,「医師-患者関係」を学ぶというものであった。
 氏は教材に「The Doctor」(註1)を選び,そこから学生たちに医療者として求められる態度について深く考える機会を与えた。ここでイヌイ氏が選んだのは,主人公の医師が吐血した後で,耳鼻科医の診察を受けるシーンだ。ここで耳鼻科医はまるで主人公の意志などを無視して,自分のペースで診察を進め,また子どもに命令するかのよう対応する。もちろん「悪い」態度の例として紹介される。
 最初に,字幕付きのシーンを普通に2回見せる。次いで同じシーンを,音声を消して登場人物の動きだけを見せる。そして最後には,画面を見せずに会話(声)だけを聞かせる,という3通りの方法を用いた。それぞれの場面で,参加者から感じたことをあげさせる。そしてあらかじめ議論していた,「患者との関係作り」「患者の不安を取り除く」などの「医療面接の機能」を再度認識させる。さらに,具体的な診療の進め方だけでなく,患者や医師の声のトーンやピッチ,さらに表情や間の取り方,ボディランゲージなどにも細かく注意を向けることで,患者への理解が深まり,診療の一助になることを示した。
 一方,画像を通している点は,教官にも学生にも客観的な評価を可能にする。これは客観的に臨床技能を「評価」するためのトレーニングにもなるのだ。

■CD-ROMを用いて

 「臨床入門」の最終日,氏は市販のCD-ROM「Heart Sounds and Murmur」を用いて,OSCEのステーションの1つ「心音聴取」を再現。これは学生が実際に自分の聴診法が正しいかどうかを確認でき,さらに症例に基づいて,問診から身体所見,さらに心音を聴き取ることで,診断をつけるまでをシミュレートするものである。
 ここで用意された症例とチェックリストも,東大の教官の手によって作成されたもの。これを使って,教官は学生が行なう身体所見の取り方や医療面接を評価するところまでを行なう。このセッションは,教官はどのようにOSCEを運営し,評価者として学生にフィードバックを行なうかを,これまでイヌイ氏のデモンストレーションに参加した体験を活かして実践する機会となった。
 教官1人と学生2人(患者役と医師役)を選び,役割に応じてロールプレイを行なわせる。症例は「50歳女性。小学生の頃関節炎が2週間みられたが軽快。この10年,階段をのぼると息切れを感じていたが,3週間前より動悸とともに息切れの症状が悪化,夜間苦しくて目がさめるので来院」と,「22歳男性。子供の頃よりやせて手足が長く,近視もみられた。最近時々激しい運動で動悸息切れを感じていたが,特に気にしていなかった。就職前の健康診断でクリニックを受診」の2例。学生による問診終了後,聴診を行なう場面でCD-ROMを作動させ,医師役の学生は聞こえてくる心音に耳をすまし,診断をつける手立てとするのである。
 評価者である教官は「心臓の診察をすることを患者に告げ,了承を得たか」などの患者への配慮や聴診の仕方,また2音の強弱に聞き分けなどの聴診所見などを,あらかじめ用意したチェックリストに基づいて,総合的に評価を行なう。
 そして最後に,教官はこれまでイヌイ氏が行なってきたように,学生に対してフィードバックを行ない,この講義を終えた。

■改革における9つのパラドックス

 9月27日,イヌイ氏による最終講義「古池や,蛙飛び込む……A Commentary on Curriculum Change at Todai」が,「東京医学会」の主催で行なわれた。氏は日本における活動を振り返り,東大の医学教育カリキュラム改革のための助言・提言を述べた。
 また東大におけるカリキュラム改革については,「コア・カリキュラムを教えよ」「新しい知識と技術をコアに含めよ」「教育マネジメントと評価の能力を高めよ」など,3か月間の東大での活動と観察を通して,変革の鍵となる項目を提示した。
 最後に,「カリキュラム改革における9つのパラドックス」と題して,カリキュラム改革の際に考えなければいけない9つの注意点を,以下のようにあげた。
(1)カリキュラムは学習への憂慮から始まるのであり,教育への憂慮からではない
(2)より少ないことはより多いことである(情報過多と過大な必須科目から,コア・カリキュラム,手助けする自主学習,そしてそれぞれのニーズに合わせた学習へ)
(3)知的探求は学生が自ら求めるもので,教師から与えられるものではない
(4)統合は自らの知識の限界を自覚することに依存しており,包括的知識によるものではない
(5)ベテラン教授は最大の資産だが,同時に最大の問題である
(6)最高の教師はガイドであり,壇上にいる賢人ではない
(7)行動によって教えるのであり,言動によって教えるのではない
(8)教育における制御因子は本物の知であり,人工の知ではない
(9)評価の重要な機能は改善であり,成績をつけることではない
 そして,「カリキュラム改革は大きな挑戦である」とし,最後に東大で改革を進める教官に対して,「新しい価値ある変化を求めるならば,勇気をもってジャンプすべき」と,熱いエールを贈った。

(註1)The Doctor(ランダ・フェインズ監督,1991年)
 原作の小説「ドクター」は,実在の医師,エド・ローゼンバームが自らの体験に基づいて書いたベストセラー小説。
 心臓医ジャック・マッキー(ウィリアム・ハート)はある日,車の中で血を吐いてしまう。診断は喉頭部のがんだった……。

■表1 イヌイ氏の主な活動内容

●教育活動
臨床特別講義「プライマリケアとは何か」
臨床入門(医療面接,身体診察)
症例立脚型教育(小グループ)
回診,クリニカルカンファレンス,講義,セミナー,他
大学院教育(「Qualitative Research Methods」)
●研究活動(EBMに関する医学教育の調査,医学部教官の教育能力の評価法開発と応用)
●その他
医学教育新カリキュラムづくりのための助言・提言
学外講演活動(東京医学会,日本医学教育学会)
京都大学「臨床と疫学」セミナー講演
医学教育指導者フォーラムへの参加
東大医学教育ワークショップ「Faculty Development」(富士教育研修所)

■東大での活動を振り返って(イヌイ氏のコメント)

 「東大の学生たちはとてもスマートですばらしい。みな向上心があり,学ぶ意欲にあふれている。
 今,東大は変化しつつある。医学教育に深く関心を持つ医師たち,リーダーシップのある学長がいる。東大は大きな改革にむけてチャレンジしつつある途中だ。また,東大は教育制度のグランドデザインを作りつつあるところ。小グループ学習やOSCEなどの技能を積極的に吸収しようとしている。実際に,教授には「教授文化」のようなものがあり,「わからないと言ってはいけない」,「弱みを見せてはいけない」,という暗黙の文化が存在する。しかし,そこを乗り越え,自分がわからないことを学ぶという姿勢を学生たちに提示し,そこでどのように学ぶのかを学生にみせることが,一番の教育方法だと私は思う。そのことが深まると,日本の医学教育の世界は大きく変化すると思う」


■イヌイ氏のセミナーに参加して(東大・老年病学 吉栖正雄氏)

 イヌイ先生には多くのことを教えていただいたと思います。
 深く幅広い基礎に根ざした医学教育の真髄を見せていただいたように感じました。
 また,先生の教育への情熱は,そのすぐれたアイディアと結び付き,例えば映画やCD-ROMなど,何でも貪欲に学ぶ道具にしてしまいます。私自身も「The Doctor」のビデオを持っていますが,医学教育に使うことなど思いもよりませんでした。
 東大内でもこれまでの医学教育について疑問を持つ声がありましたが,実際にそれを変えるというところまでなかなか進まなかったと聞いています。しかし今年の医師国家試験の結果がよくないといった危機感があったところに,イヌイ先生というすばらしい教育者が,短期間ですが来られたことで,その声が私たち教官の行動に結実しつつあります。
 東大では来年度からカリキュラム改革が行なわれることになり,OSCE導入など医学教育改革が徐々に始まっています。非常によい時期にイヌイ先生とこのような機会を得て,改革に向けての大きな弾みがついたのではないでしょうか。