医学界新聞

 

魂学=Soulologieとは何か

山中康裕(京都大学大学院教授・教育学研究科)


魂学(Soulologie;ソウロロギー)の造語に関して

 筆者が「魂学(ソウロロギー)」なる学問用語をうち樹(た)てたのは,かれこれ10年前のことである。有斐閣という書肆(編集室注:しょし;出版社を意味する)から『老いのソウロロギー』という書物を出したのが,1991年9月のことだからだ。あの本は,すでに,その8年後に,ちくま学芸文庫から文庫本としても発売されているから,ひょっとしてもう読まれた方もおありになるに違いない。
 その中でも書いたことだが,ソウロロギーとは,本来ならばありえない造語法で,通常なら,「たましい」を表すコトバのギリシャ語は,プシケー(psyche)ないし,ヌース(noos)なのであるが,それらはすでに,前者は英語ならサイコロジー(psychology),ドイツ語ならプシコロギー(psychologie),つまり「心理学」としてすでに人口に膾炙(注:かいしゃ;広く人々に知れわたること)しており,後者はあの『夜と霧』の著者で,かつ実存分析で有名なフランクフルが造語して,ヌウオロギー(Noologie)「精神学」としてしまっているので,次なる学問言語のラテン語で「たましい」を表すアニマ(anima)を用いてアニモロギー(Animoligie)としてもよかったが,animaはすでにユングが,「男性のこころの中の女性像」を表す特有の使い方をしているため,やはりあきらめざるを得ず,やむを得ず,本来なら英語をギリシャ語につける造語法はないのだが,あえて「たましい」を表す英語のソウル(soul)を語頭に持ってきて,学問を表すギリシャ語のロゴス(logos)からきたドイツ語ロギーを語尾にして,ソウロロギー(Soulologie)としたのである。
 ドイツ語を採用して英語にしなかったのは,邦語表記をとった時,「ソウロロジー」となって,どこか「早老のお爺」のようなイメージがわく(それはそれで意味ある偶然の一致であるのだが)ので,きっぱりと,ドイツ語表記ドイツ語読みを採用したものなのである。

老いの果てに見出した「たましいの真実」

 さて,採用した用語は以上のようであるが,それはともかく,「たましい学=ソウロロギー」の内容は,ギリシャ語のヌースがそもそも「叡智」の実態,ラテン語アニマが「いのち」の実体であったように,筆者は「たましい」とは,「叡知と命との実態」を表す概念である,として考えているのである。つまり,「人間の生きてあることの本体」とも言うべきか。
 かつて,ギリシャの昔,プラトンが『パイドン』で明らかにしているような,ソクラテスが述べた,「たましい」の不滅を信じるか否かは別にしても,「われわれが生きてあることの証し」,「生きてあることのいのちの輝き」を,老いの果て,医学的には「アルツハイマー痴呆」なり,「脳血管性痴呆」なりの名で呼ばれる「老耄」の中に,彼らとの一時の語りや,寄り添いの中に見出した,「たましいの真実」として描出したのが,拙著『老いの魂学』だったのである。

お代は,2銭

 1つ2つ例をあげようか。
 よしさん(仮名)は,痴呆老人病棟に入院してもう数年が経過していた。彼女はほとんどコトバをしゃべることなく,いつも,彼女の起居している畳の6人部屋の入り口の,柱にもたれてちょこんと座っているのだった。
 私は,彼女の前を「失礼」と目で会釈して通り,中で,ほとんど寝たきりでおられる他の患者さんのために,いつもながらの「貝殻節」や「南部牛追い歌」を歌っていたら,
 「あいつなげぇな」と独語のようにつぶやかれたのである。
 「おや,よしさん,しゃべったね」と思った私は,彼女のほうを見て
 「よしさん,なげぇって,何のこと?」と尋ねると。
 「ただで入りよってからに……」と,またぼそぼそっと言われる。隣に来ていた看護婦さんが,
 「あれっ,よしさんがしゃべった」と目を丸くする。彼女は,ここ数週ほとんどしゃべったことはなかったからだ。
 次の週も,その次の週も同じだった。ある日,彼女の身内の方がお見舞いに見えたので,彼女の生い立ちをうかがってみた。すると,なんと,彼女はお風呂屋の番台に座って40年の生活をしておられたことがわかったのである。以来,私は彼女の前を通る時に,
 「お代はいくらで?」と言ってみる。すると,彼女はちょっと相好をくずして,
 「2銭」とおっしゃる。そこには,ほんの一瞬だが,笑顔が見られることもあったのである。

昔とった杵柄

 同じ病棟の奥のほうで,もっとしゃんとした姿勢でじっと座ったままの女性がいた。彼女のことを「おことさん」と呼んでおこう。おことさんは,私が歌うのを目を細めて聴いておられることが多かったが,ある日,私は「山中節」を歌ったのだが,その途端,
 「ちょっと,二の糸が違うね」とおっしゃり,私の手をぴしゃりと叩かれたのである。私が,ちょっとふざけて,三味線を弾くまねをしたからであった。
 「わすぅーれぇー,しゃんすぅなぁ。やまぁーなぁーかぁーみぃーちぃーをぉー……」と唄うと,彼女は
 「ひがぁーしゃぁー……」と小さな声であったが和して唄われたのである。後で聞くと,彼女は以前,三味線のお師匠さんであった。

ソウロロギーの本義

 さて,「ソウロロギー」を,上記にみたごとく「学」なる規定で話したが,通常の「学び」の道を要求するというよりは,「学ぶ」の本義であるところの「まねび」,つまり「模倣」を励行されたら,その応用は可能とみる。つまり,何のことはない。痴呆の老人の傍らにあって,彼らの言動の一挙手一投足に「耳を傾け」,彼らとともに「歌い」かつ「ある」ことで,それは成就されるのである。ただし,その根源に,彼らの「尊厳(ディグニティ)」(山中康裕,『老いのソウロロギー』,1991)の尊重と,彼らの「意地」(土居健郎,『老年期の死生観』,長谷川和夫・那須宗一編,『HANDBOOK老年学』,岩崎学術出版,1975)への配慮が必須であることは言うまでもない。
 かくして,それが遵守されれば,「効果」は必定であり,彼ら老人たちの,「一瞬の笑顔」,「一瞬の目の光」が必ずや認められるであろう。それが確認されれば,彼らは,必ずや「この世に生きてあったこと」を,「感謝のうちに」受け止め,早晩「死」を受け止めていかれるはずである。
 というのが筆者のソウロロギーの本義なのだ。ぜひ,全国の津々浦々でこのことを励行していただければ,筆者の願いは叶うのである。今やもうすぐ間近となった21世紀の初頭には,高齢者人口が25%を超すという。つまり,4人に1人は確実に老人なわけで,彼ら老人たちの,これからの「残された人生を意味あるものに」するために,そして,彼らが従容として「死」を受け入れ,安らかな「死」を死にゆけるように,というのが,「ソウロロギー」の目的であり,願いなのであることがおわかりいただけただろうか。