医学界新聞

 

 〔連載〕ChatBooth

 普通の,なんでもない,スゴイこと

 加納佳代子



 私は管理職なので,患者さんのケアに直接かかわるチャンスはほとんどない。それでも精神科療養病棟中心の病院のため,今日はバーベキューパーティ,明日はデイキャンプとお誘いがかかるし,400床余りの病棟を歩き回っていれば,それはそれで患者さんとの楽しい出会いも結構ある。でも現場の看護婦たちのような密な接触はないので,私は現場の話を聞くのを何よりの楽しみにしている。
 今日も痴呆病棟の婦長が,「いい話,聞かせてあげるね」とやってきた。
 痴呆病棟の担当医は,50代半ばを過ぎた男性。髪を後ろで束ねている彼は,
「いい男だねえ,惚れ惚れするよ」と女性患者にため息をつかせる人気者である。彼が病棟で,ふと患者に
「俺のひざに乗るか?」と声をかけたそうだ。患者は先生のお膝に乗ってご満悦。
「今まで,こんなにやさしくしてくれた人に会ったことない」と,本当に幸せそうにちょこんと乗っていたとのこと。それを見ていた看護婦たちは,抱っこされるのはこんなに幸せなのだと気がつき,
「ここに乗ってみる?」と自分たちの膝を叩くようになった。婦長も1人の患者を膝に乗せ,
「ここに頭を乗せていいのよ」と言うと,小柄な婦長の肩に頭を乗せて,うとうとと眠ってしまった。わが身をすべて委ねて安心して眠る姿は,邪気のない子どものようだったと楽しげに語る。
 ここは,一般病院や施設から,「もう手に負えない」とやってくる,精神科の老人性痴呆疾患治療病棟である。疲れきった家族がようやくたどり着き,不安と安堵が混ざり合った気持ちで患者を預けていくところである。看護婦たちはいつも,「そんなこと,なんでもないこと」として,「よくいらっしゃいました」と患者を迎える。
 そういえば朝病棟を回っていたら,夜勤の准看護士が「いい話」をしてくれたことがあった。
 夜中過ぎに,「死にたくなった」と外来患者がきた。診察を終えて,結局,家に帰ることになり,当直医は「じゃあ,そういうことで」と立ち去ったが,患者は席を立たない。
「やっぱり,夫と別れたい」
「そうけえ」
「でもできない。子どもがいるから」
「んだな」
「別れないと死にたくなる」
「そうけえ」
「でも死ねない。子どもがいるから」
「んだな」と聞いていた。
 これを200ぺんは繰り返していたら,そのうち窓の外が明るくなってきた。
「明るくなったべ」
「もう朝だ」
「んだな」
「もう帰らなくちゃ。子どもがいるから」
「んだな」
 そして患者は家に帰っていった。彼は「そうけえ」と「んだな」を言い続け,「明るくなったべ」と患者を送り出した。なんでもないことが持つ,すごい力がここにある。なんでもないことを普通にするのがすごい力を持っているのだと気づくとケアが楽しくなる。だから私は「すごい,すごい」と聞かせてもらっている。
 家に帰ると,高校のクラス会の通知がきていた。4年に1回,オリンピックの年ごとに集うので久々の再会である。返信用はがきの近況報告欄にこう書いておいた。
 「50歳を前にして,公的一般病院から,民間精神病院に転職し,1年が過ぎました。別にこの病院ですごいことをしようと考えているわけではありません。普通のことを普通にしたいだけです。でも,普通のことをなんでもないことのようにやるのは,すごいことですよね」