医学界新聞

 

連載 MGHのクリニカル・クラークシップ

第10回

教官は悪魔の味方!?

田中まゆみ(イエール大学ブリッジポート病院・内科小児科レジデント)


2392号よりつづく

 MGH内科の教官といえば,さぞかし怖れ多い偉い人々で,毎日の回診は高度な質問ばかりが矢のように飛んできて,学生や研修医は緊張の連続ではないか,と想像されるかもしれない。ハリソン内科書の共著者,“Nature”,“Science”,“New England Journal of Medicine”といった超一流科学・医学誌の常連,一流の臨床家でありかつ基礎研究でも一家をなすようなハーバードの教授・助教授ばかりなのだから。
 ところが,予想に反し,そういう光景はまったく見られないのである。

ハーバード教授陣はいかに教えるか

 MGHの教官の教え方のイメージを一言で表現するなら,「慈父」というのがぴったりだろう。偉ぶる教官は皆無。意地悪な質問は一切なし。学生や研修医は答えられなくても叱られない。ほとんどの場合,学生が質問を受けるが,それは,学生なら答えられなくても当たり前で,誰も気まずい思いをしなくてもすむからだ。
 “I don't know(知りません).”と答えることは恥でも何でもない。知ったかぶりをするよりはるかによい答えである。すると,答えがわかっている研修医や学生が,横から代わりに答を言う。「そう,その通り」とほめて,教官はにこにこと次の質問に移る。見渡して,誰も答えられないとみると,さっさと自分で答えを言う。問い詰めて恥をかかせたり,もったいぶって答えを教えないようなことは一切ない。
 リラックスした雰囲気で軽い問答を繰り返すうちに,クイズを楽しむようなノリで,知らず知らず基本的な病態生理や重要な鑑別診断が明解に整理されていく。目の前の患者から生じた疑問から出発して,教える側と教わる側がキャッチボールしながら正しい思考過程をたどろうとするわけだが,当然のことながら,上手なほうが,とんでもない球を投げ返す初心者相手に走り回ることになる。

迷答にも余裕の返球

 例えば,TTP(血栓性血小板減少性紫斑病)の症候を聞かれた学生が「肝障害」と答え,みんながちょっと呆れた反応を示しても,教官はむげに否定したりせず,「うむ」と一呼吸おいて,「もし患者が妊娠中なら,それもあながち間違いとは言えないね」とにっこり受け止めてみせるのである。
 「HELLP(溶血,肝酵素上昇,血小板減少)症候群というのがあるね。妊娠後期に起こる,原因不明の病気だが,TTPとちょっと似たところがある。TTPは妊娠中によく起こるしね。君は産科志望かね。うん,TTPとHELLPというのはいい着眼点だよ。HELLPでvon Willebrand factorを調べた文献はあったかなあ。ところで,von Willebrand factorがTTPとどういう関係があるか,誰か説明できる人?」という具合だ。
 自分がどんなとんちんかんな答えをしたか気づいて赤面する学生を尻目に,話は多少脱線しながらも意外な方向に広がり,さらに興味をそそりながら,また本筋に戻っていく。さすが余裕たっぷりのリードぶりというしかない。

教わる側が屈辱を感じないように

 また,学生は質問に答えるだけでなく,どんどん質問することを奨励される。“This may be a stupid question, but....”というおずおずとした前置きに対しては,例外なく,“There is no stupid question.”という,きっぱりとした励ましが返ってくる。「馬鹿な質問というものは存在しない。とっぴな質問,大歓迎」というのである。そしてまた,どんな質問に対しても,“That's a good question.”とか,“Actually, that's an excellent question!”とか,笑顔とともに必ず肯定的な反応が返ってきて,そのあとに名答が待っている。どんな球でも丁寧に打ち返してくれるのだから,嬉しいやら感激するやら,いやが応にも,もっと勉強しなければと肝に銘じることになる。
 “No humiliation(教わる側が屈辱を感じないように)”という教育理論がこういう雰囲気の根底にあるようである。教官の側が圧倒的に知識量が多いのだから,知らない者を問い詰めて恥をかかせるのはフェアでない。知識の伝達は最小限にとどめ,考え方の筋道をたどることに重点を置き,そのおもしろさを感じさせることができれば,あとは(やる気のある者なら)自分で知識を増やせる。
 「魚を与えるのではなく,漁のやり方を教えよ」とは,発展途上国への援助の理論であるが,教育もこれに似ている。「私はこんなに魚を持っている。ほしいか?」というのは,傲慢なパワーゲーム(註1)であり,受け取る側に屈辱や怨嗟しか植えつけない。「漁の仕方さえ覚えれば,あなたもたくさんの魚が手に入りますよ」と,漁の技術やおもしろさを広めることが,教育の醍醐味ではなかろうか。教官だけでなく,チームリーダーも短い講義をさらりとやってのけるが,それは,豊富な症例を経験し,このような質疑応答を繰り返し,関連した文献を読むうちに,2年もたてば教官顔負けの臨床的実力が身につくからである。

学生も教官も“I don't know.”

 研修医や学生の博識ぶり,特に病態生理についてすぐさま議論を繰り広げるその系統だった理解にいつも圧倒されていた筆者は,その優秀な彼らが,非常にしばしば,いともあっさりと“I don't know.”と自分の無知を認めるのにはもっと驚いたものである。ちっとも悪びれず,その目は,「だから教えて」と知識欲に燃えている。教官も,「よし来た」とばかり,嬉しそうに教え出す。
 逆に,学生や研修医の熱心な質問に,教官が“I don't know.”と答えることもしばしばだ。そのあとに“No one knows.”(さすがMGH,格調高いというかすごい自信というか)と続くこともあれば,“You are asking a wrong person(お門違いだよ,僕の専門じゃないよ).”と言って逃げることもある。でもほとんどの教官は翌日ちゃんと文献を調べて誠実に回答していた。

いじめる教育からの決別

 臨床教育が「患者も研修医も泣かせない」ものである時,病棟の雰囲気は穏やかになるようである。教官に「よくこんな重症患者ばかりで,新人研修医を指導しながら,平静な雰囲気が保たれていますね」と感想を漏らしたら,「内心は大変なんだよ」と一笑に付されてしまった。チームリーダーは,「波立つ感情は表に出さないようにしている」とにっこり笑う。いらいらして研修医や看護婦をどなりつけるような教官は1人もいなかった。
 実は,つい10年ほど前までは,教官回診はこのように和気あいあいとしたものではなく,「矢のような質問」による学生いじめ・研修医いじめが米国中どこでも日常茶飯事であったようだ。教える側と教わる側とでは知識量はもとより力関係に歴然とした差がある。「教える」といいながら実は大勢の前で立ち往生させ恥をかかせるような,いじめに類する教育パターンが横行していたのである。
 1987年に出版された“Becoming a Doctor”(Melvin Konner著,Viking Penguin Inc刊)の中でも,「ニューパスウェイ」以前のハーバードのクリニカル・クラークシップで学生がいかに質問におどおどさせられる弱い立場であったか,文化人類学の教授転じて医学部学生となった著者が専門を駆使してその異常さを分析している。他ならぬ「ニューパスウェイ」を紹介したTV番組(1987年からハーバードの新入生を追跡し92年に放映したもの)の中でも,老齢の神経内科の教授が研修医相手にねちねちと質問していじめる場面があった。

何が教官の態度を劇的に改善したか

 どうして短期間に教官の態度が劇的に改善したのであろうか。「ニューパスウェイ」の過程で教官も研修医も再教育を受けた,ということも大きいであろうし,医学生が教官や研修医の評価をするようになったことも重要な変化であったろうと思われる。医学生からのフィードバックは非常に重要視されるので,評判の悪い教官は,いやでも反省せざるを得ない。よりよい教官になるための再教育(Faculty Development)の機会を与えられ,それでも改善が見られなければ,教官を降ろされてしまうということさえ理論上はありうるからだ。
 現在のMGHの教官たちを見ていると,過去にそんなひどい時代があったとは信じがたいほど,フェアで教育熱心な教官ばかりだ。いったんよいロールモデルが導入され奨励されれば,どんなに望ましい変化を起こすことが可能かというよい実例と言えるのではないだろうか。
 暖かい人格や公正な態度だけではない。科学としての医学に対する真摯さと冷静な批判力という点でも,教官は優れたロールモデルぶりを発揮する。患者の容態や治療方針などについて議論する時,必ずしもすべてEBMで結論が出るとは限らず,むしろ結局経験論になることが多い。研修医は経験に乏しいから,どうしても議論が短絡的になったり,感情が入ったりする。そういう時,教官がわざと「敵役」に回って,研修医に反論するのである。
 「では,この患者には移植の適応がある,と言うわけだね。……よろしい,ここは1つ,私が“Devil's advocate(悪魔の味方,註2)”になってみよう」

権威や感情に流されない厳しい科学的態度を培う

 「悪魔の味方」という設定は,議論を冷静に処理するのに非常に有効な役割を果たす。研修医は,教官が個人的に自分に反対なのではなく,わざと,教育的目的で反論を「ゲーム」として仕掛けているのだ,と知っているので,勝っても負けても後味悪い思いをする必要がないからである。例えば,こんなふうだ。
教官「この患者は,つい3か月前まで麻薬患者だった。今もアルコールをやめられない。肝臓の移植が可能なら,酒はきっぱり断つ,とは言っているけれど,麻薬とアルコールの両方の中毒患者の再発率は90%以上という統計がある。そんな患者が,貴重な臓器移植を受けて,もし酒を飲みだしたらどうする」
研修医「でも,彼はまだ若いし,再起の可能性は高いと思います」
教官「B型肝炎にD型肝炎まで合併しているではないか。免疫抑制剤で再発したらどうする」
研修医「……」
教官「CMV(サイトメガロウイルス)抗体陽性なのは?」
研修医「抗ウイルス剤で乗り切れます」
教官「CMV陰性の移植候補患者に比べれば不利だね」
研修医「それはそうですが……50歳でCMV陽性の患者にこの間移植しましたね。彼はまだ25歳,チャンスを与えるべきだと思います」
 教官は,「こういうことは考えられないか」「もし……だったらどうする?」とわざと意地悪い難問を次々と出してくる。とんだ憎まれ役だが,おかげで,研修医のほうはそれに反論するためにいろいろ調べることになる。説得してとにかく一刻も早く禁酒させる,家族の強力な支援体制を印象づける,D型肝炎を合併している場合の移植後の予後のデータを調べる,CMV陽性移植患者の予後データを調べる,年齢別の移植患者の予後や就職率を具体的に示す,など,「悪魔の味方」のおかげで,患者を移植待機リストに載せてもらうための有利な条件づくりや,より説得力のある資料集めが可能となる。
 「悪魔の味方」は,この他,学会発表前の演習でも登場し,手強い厳しい質問を次から次へ浴びせて,本番など軽いと思わせてくれる。わざわざ「悪魔の味方」になってまで,未熟な医学生や研修医・フェローを教育してくれるのであるから,教官とはありがたいものである。このような教育的雰囲気の中で,権威に負けず感情に流されない厳しい科学的態度が鍛えられていくのだ。

(註1)力関係の優位を利用して,抵抗できない立場の弱い者を長く待たせたり,いじめたり,無理難題を押しつけたりすること
(註2)“Devil's advocate”というのは,議論をするときに至るところでよく用いられるらしい(会社の会議など)