医学界新聞

 

〔座談会〕

医事訴訟の動向をめぐって

藤村 啓氏
(東京地方裁判所
民事25部部総括裁判官)
古川俊治氏
(慶應義塾大学外科・
 TMI総合法律事務所=司会)
 
宮崎東洋氏 
(順天堂大学麻酔科教授)


医療過誤訴訟の問題点

古川(司会) 本日は,今,医療現場で問題とされている医療事故と,医療過誤訴訟についての問題点をうかがいながら,お話しを進めたいと思います。
 藤村判事の所属される東京地方裁判所民事第25部は,新任裁判官の養成の実験部です。司法改革の重要な論点の1つである裁判官養成を適正・迅速な民事裁判を実践する中で,複数の先輩裁判官の指導の下に1-2年目の新任裁判官のオンザジョブ教育を行なっている部です。「部総括」とはその長にあたる裁判官ということで,私からみると大変改革的,民主的な立場でいらっしゃいます。
 宮崎先生は,ペインで有名な麻酔科の第一人者でいらっしゃいます。司法にご理解があり,裁判所からの鑑定依頼をお受けになられ,判決文によくお名前があげられています。それから,訴訟外に終わっている事件にも精通していらっしゃいます。

医事訴訟専門部構想

古川 医事訴訟は増加傾向にあり,私の試算では,医師1人が年間に1件弱の医事紛争に関係し,そのうち300件に1件ほどが訴訟までいっています。そしてもう1つの実態として,医師にとって判決が非常に厳しくなる傾向があります。今日は,まずその手続き的な面のご意見を藤村判事にうかがい,それから厳しい判決という部分を考えていきたいと思います。
藤村 医療過誤訴訟について,かつては存在したのですが,現状では専門部や集中部といった特殊な扱いをしている裁判所は全国的にもないと思います。司法改革論議がさかんになっており,医療過誤事件についてこれでよいのかと,専門部や集中部などが検討されているところです。
古川 裁判所では「素人」が集まって裁判を行なうというイメージがぬぐえないのですが,医療側からみてその点はいかがでしょう。
宮崎 常に感じるところですが,裁判に携わる方は医療知識に詳しくないため,鑑定人や証人として法廷へ出た時に,本当に言いたいことをわかってもらえないと感じることが多いです。そういう意味では,藤村判事のおっしゃる専門部制ができてほしいと,医療者側の誰もが思っているのではないですか。
古川 その点は私も同意見です。専門部があるほうが安心ですね。藤村判事,専門部ができない理由について,簡単にご説明いただけますか。
藤村 専門部の話の前に,われわれ裁判官にとって医療過誤訴訟がどう受け止められているかを指摘しておきます。医療訴訟が難しく,時間がかかる理由の1つは,医療行為の裁判自体が病人に対する治療行為の違法性が問われている事件である上に,裁判官が経験を有しない高度の専門知識を要する裁判であるからです。その背景には,生命・身体という代替性のないものが侵害を受けたことで感情的な要素が紛争を形成しているという問題も強く存在します。しかし他方では,医療技術,医療費用も含めた望ましい医療環境の確立を念頭に置くと,感情的な面だけに流されるわけにはいきません。どこを判断基準にすればよいのかが常に難しいのです。
 これは鑑定制度の問題にからみますが,専門的知識を補助する体制がきわめて貧弱な点もあげられ,正確な専門的知見に立った理解ができるまでに時間が経ってしまいます。これは裁判官だけではなく,弁護士にも共通した悩みだと思います。

医療の専門知識の提供体制

藤村 かつてある裁判所で「医療過誤専門部」が設立されましたが,その総括の裁判長が転勤した時点で解消してしまいました。結局,医療過誤事件の特殊性と,それを審議するための専門的知識の補助体制といった医療過誤事件の審理環境が十分に整っていなかったということでしょう。専門部にはしたものの,審議が円滑にいかなかったのだと思います。
 したがって,裁判官を特定の医療過誤裁判の専門家に育て上げるという理念だけではどうにもならず,やはり医学界の協力も得て,専門知識を補助する体制が確立していかないと,なかなか難しいですね。
 海外でも医療過誤訴訟は難しいものと聞いています。以前私が見聞したことですが,ドイツ・ハンブルグの裁判所では,医療過誤の専門部を有していました。ロッカーいっぱいに鑑定人名簿が入っており,各専門分野ごとに鑑定人との連絡が取れるようになっていて,実際にも医師の積極的な協力が得られていました。
 そういう環境ができればよいのですが,理念だけが先走りしてしまうと,かえって審理が停滞してしまうこともあります。集中したがゆえにどの事件も大変になり,どれも判断がつかないままに時間が経過してしまうおそれがあります。ですから,裁判所だけ,法律家の世界だけで理念を掲げてスタートしても,必ずしもうまくいかないのではないでしょうか。「望ましい医療環境の確立」という公益的な目的実現のために,医療の専門家の協力を得て,専門知識が随時提供されるような体制を整え,手を取り合うことで初めて実現していくことだと思います。また協力の仕方も難しい問題です
古川 医学的な部分をきちんとみられる機構がなければ,いくら裁判官だけを専門化しても無意味だということですね。
藤村 専門部を作るといっても,裁判官が医療の専門家になるわけではありません。弁護士も同様で,むしろ,中途半端な専門家になってはいけません。あくまでも弁護士や裁判官は法律の専門家であり,彼らが分野の異なる世界で起きた法律問題について,適正な判断を下すために欠けている知識を迅速に,的確に提供してくれる協力機関が必要なのです。お互いが協力すべきだと思います。

「鑑定」

古川 医療関係の訴訟にとって,鑑定が最も重要になりますが,鑑定依頼の困難な点はどこでしょう。
藤村 鑑定人の選定手続きですね。どういう手順で誰に頼んでよいかわからないのが,一般的に大変な点だと思います。個人的な選定ルートがある方は特別として,医療過誤事件を抱えた大部分の裁判体にとっては皆目検討がつきませんし,やみくもに依頼電話をかけることになります。
古川 依頼をしても,なかなか受けつけられないという話もよく聞きます。
藤村 そうですね。調査によると,選任だけで1年近くかかったケースももあるようです。
古川 宮崎先生は,依頼がきたらほとんどお受けになりますか。
宮崎 自分の専門に関することで,自分が判定できる能力の中の問題が争点になっているものはお引き受けします。病名だけでは「専門ではないじゃないか」と言われることもありますが,その中身を見ると麻酔科の知識が必要という場合もあります。ですから,逆の意味でお断りしたことも何度もあります。その時には,裁判官から「誰か適任者はいないか」と相談を受けることもあります。
古川 面識のある方が当事者になられることもあるかと思いますが,そういう場合は躊躇しませんか。
宮崎 私はきちんとした裁判が行なわれてほしいと思っていますので,そのことをあまり意識しません。ですから,相手側に「この鑑定を引き受けるなど,とんでもない」と言われたこともあります(笑)。
古川 鑑定をみると,たまにですが極端な意見の場合があります。1人の鑑定人の意見に頼っている日本の裁判では,1つの判例が出てしまうと,その人の意見が判例になっていくところがあります。その点はいかがですか。
宮崎 実際にその傾向があると昔から思っています。自分としては一生懸命,中立に,ある事象についてデータをすべて眺めるようにしています。偏った鑑定文には,自分に都合のよいものだけを取り出して,「こうだからこうなった」と書いてあることが多いですね。全部を並べるとまったく異なる事象が浮かび上がることがあり,鑑定文を書く時には非常に気をつけています。
 鑑定人がその点に十分気をつければ,意見が中立になり,1つの鑑定文を信用してよいとなると思いますが,現実には「どうしてこんな意見が出てくるんだろう」と感じることはありますね。

鑑定の証明力

古川 裁判官にとって鑑定がどの程度信用できるものかですが,他の文書による証拠,例えば書証,医学文献に比べて重くみるのではないですか。
藤村 もちろんそうです。訴訟事件は個別的ですから,一般的な知識や他事案の実験データを記載した文献等よりも,当該個別事案に対する鑑定意見が尊重されるのは当然のことでしょう。
古川 医学文献も鑑定も1つの意見ですから,その点はどうかと思いますが,鑑定が医療過誤訴訟の決め手になるのはどういう点でしょうか。つまり,その鑑定書が信じられるかどうかの決め手という意味です。
藤村 医療過誤事件の要諦として,専門知識は専門家に求めて,裁判所はそれを有力な参考資料として法的判断をします。したがって,専門的分野の事項に対する判断で裁判所が責任を持ってできることは,その鑑定意見を述べた人を信頼できるかどうかを判断することだけ,と言ってもよいほどです。異論もあろうかと思いますが,私はそういう言い方をしています。
 何をもって信頼するかとなると,もちろん経歴,論文の数といったことが信頼の根拠とならないとは言いませんが,それよりもむしろ,当該事件の資料をまんべんなく,バランスよく検討しているかのほうが,信頼性の判断に重要です。
 過去に経験したことですが,若い医師がミスを犯したという訴えに,いわゆる権威と言われる医師が証人に立ちましたが,その方の見解に説得力を覚えないことがありました。その方の意見が事案全体からみて強引すぎると思ったためです。これは法律家の基本姿勢でして,どんなことでもバランスを欠く意見には抵抗感があります。
宮崎 とてもよく理解できます。私が言いたいのもそういうことです。
古川 裁判官はもちろん独立ですが,藤村判事と同じ考え方ではない方もいらっしゃると思います。高等裁判所に行くと判事が変わったりして,困ることもあります。裁判官全員がその点に気をつけていると考えてよいのでしょうか。
藤村 最終的な判断結果が分かれることはあっても,判断を求めていく上での基本的な考え方やスタンスに大差はないと思います。
古川 鑑定自体が信用できるかどうかも,よく事案をみているかどうかになるわけですね。各証拠の評価は,裁判官の「自由心証主義」と言い,種々の証拠を全部使って裁判官がトータルな視点から判断するのが基本となります。しかし,鑑定人が法廷に呼ばれて尋問を受ける場合には,鑑定人が事案をよく検討しているかどうかとは,異なる印象を裁判官に与える可能性があると思いますが。
宮崎 はっきり申し上げて,非常に嫌な仕事です。恐いとは言いませんが,言葉も1つひとつ選んで大事に喋らないと,すぐに突っ込まれることがあり,また慣れていない場所ですから,あまりよい気持ちがしませんね。
 例えばある分野の専門家として鑑定した場合,「先生の論文にこう書いてあるが,この医師はそれだけのことをやっていないじゃないか」と言われることがありますが,それは間違っていると思います。区別は難しいのですが,そこには医学と医療の違いがあり,そこをしっかり区別して,そして医療のレベルで判断をしてほしいのです。私はそのために鑑定文を書いています。「これからこうなるかもしれない」と書いてあるたった1人の医学論文を持ち出して,「だから駄目だ」という結論になると,医師は相当ひどい目に遭わざるを得ません。

心証形成の実際

古川 弁護士の常套手段として,鑑定人に反対尋問をする時には必ずその先生の教科書を読んでおいて,その論理矛盾を引き出すことがあります。
 鑑定とは,鑑定書と鑑定人が法廷で答えたことの両方が証拠になりますが,判決の心証形成の過程において,そのあたりの採否についてはいかがでしょう。
藤村 鑑定書の記載内容と法廷での証言が,本質的な部分でまったく違っていたのでは大きなダメージを受けるでしょう。しかし,一般に両方の間に食い違いがあるからといって,その鑑定人の意見すべてを採用しないかというと,そんなことはありません。食い違った点の合理的な説明を求めて,鑑定書記載意見のほうが合理的と思えば,鑑定意見として鑑定書に書かれたものを採用しますし,法廷の発言で修正されたところが合理的と判断すれば,修正されたものを採用するなど,一概には言えません。
 それから,ご指摘のような事態が生じる前提として,鑑定事項が的確であったかどうかも大きな問題になります。その鑑定事項では問題点を的確に判断することができないのに,鑑定人が鑑定事項の立て方に疑問を感じながらも,与えられたその鑑定事項で無理矢理書いているような場合だと,法廷で証言を求められた時には違ったことを言うことになります。当然のことでしょう。これは裁判官のほうが,鑑定事項を確定する段階で十分に注意しなければいけないことです。
 きちんと手順が踏まれて,的確な鑑定事項が用意され,その訴訟事件に表われている事項をバランスよく検討された意見であれば,法廷で少々変な質問があり,それに混乱されるようなことを答えても,心配されるような影響はありません。
 付け加えれば,裁判官は矛盾を探すというのではなく,その鑑定人が何を言おうとしているのか,そこに事案全体に照らして合理性があるかという姿勢を持って聞くことが必要ですね。

裁判におけるカルテの重み

古川 心証形成の上で,裁判官はカルテをどれだけ重くみるものでしょうか。われわれは,日常臨床でカルテを書く時間が十分にない場合が多いのですが,「カルテに書いていないので認められないのでは」と心配します。カルテにはどのくらいの重きを置かれるのでしょう。
藤村 カルテは非常に重要な書証です。しかし,そこに書かれていないからといって,そのことのみから書いていない医療行為,治療行為が行なわれなかったとは考えません。それは事柄によると思います。例えば,その医療機関が提供した診療録や看護記録,さまざまな検査結果を踏まえて,患者の容態の推移を時系列的に眺めていきます。その流れの中に書いていないことを埋め込んでみて,それが突出していて,その流れを変容させてしまうことになる時には「変かな」と思いますが,そうでなければ,カルテに書いていないから医療行為がなかったという判断は,普通はしないと思います。カルテや看護記録にすべてが書けるわけがありませんから。
古川 特に麻酔などは緊急の場合がありますね。
宮崎 ご存知のように,麻酔のいちばん細かい表では5分ごとに血圧その他を記載することになっています。しかし,その短い間に,状況に応じてはずっと計測を繰返していることもあります。書く暇がないこともあり,また狭い範囲内に10回分を記載するわけにもいきません。行間には,書けない状況がたくさん出てきますので,そこを読んでほしいですね。「血圧低下」と書いていなくても,昇圧剤使用の記載があればわかっていただけるはず,と思っていますが,そうではない時がありますね。
藤村 私は鑑定をする前に,その医療行為についての医療機関側の意見書を出していただきます。それは,医療機関側が作成していた客観的な資料を可能な限り踏まえて,というもので,カルテ等の医療記録に書かれていなかったことを書いてもかまわないのです。病状の転変に応じてどういう医療行為をしたのか,そして疑問視されている点についてなぜその処置をしたのか,あるいはしなかったのかについて所見を提出していただき,そこに無理がないかを判断して,次の審理,進行をどうするかを考えていきます。
古川 最高裁判所で医学の専門家を集めて臨床家のカンファレンスを行ない,その結論を尊重しようではないかという試みが新聞等で報道されています。専門家が集まるというと学会の審議みたいな感じですから,医療側としては安心ですね。
宮崎 中立的なよい検討がされると思います。ただ,「医者だけが集まって」と必ず反論が出てくるでしょう。しかし,本当に医師だけのほうがよいと思います。いちばん実情にあった意見が出るだろうと,私自身は思います。
古川 専門家を中立的な立場で雇うには相当なお金がかかるでしょう。そういった能力のある人たちをしばらくの期間,公務として拘束するとなるとかなりの額を払わなければいけないことになり,予算の問題が大きなネックと聞いたことがあります。

医療事故の起こる現場

医療事故の3つの原因

古川 最近,報道でも医療事故が取りあげられ,「リスクマネジメント」という言葉が流行しています。医療事故に対する対応は,医療側の単純なミスで訴訟外で解決されるようなものと,訴訟の中で専門に踏み込んで解決される事件と,2種類に分かれると思います。宮崎先生,現在の医療事故のあり方について,医療人としてどうお考えになりますか。
宮崎 裁判になるケースは,資料を注意して読まないと,医療者として「ここに何かあったのではないか」と言うことはとても難しいことで,軽々しく判断することはできません。当然のことながら裁判官も弁護士も大変だろうと思います。
 ただ,残念なことに訴訟外の解決をするような場合は,圧倒的に単純ミスによるものです。私は,そこに3つ原因があると言っています。1つは「勘違い」,もう1つは「身勝手」,そしてもう1つは,「まったく無能」です。
 「勘違い」とは,例えば検査データを見過ごしてしまい,悪いことが起こっていないように思っている場合がある時などです。それから「身勝手」は,これはひどい例ですが,当直の医師が離れた場所に飲みに行って不在だったために,対応が間に合わなかったというようなものです。そして「無能な医者」とは,医者として無能というのではなく,例えば麻酔薬の知識のまったくない医者が,上級医から「患者がうるさいから麻酔で寝かせてくれ」と言われた時に漫然と使ってしまうようなことです。麻酔薬はことごとく呼吸が止まるため,麻酔医は人工呼吸を前提に麻酔薬を使っていますが,それも知らずに素人が考えるレベルと同じ程度にしか考えていない医者がいるということです。このようなことは麻酔だけに限りません。これは許されない重大なミスであって,糾弾されてしかるべきだと思います。
古川 今のような,本来訴訟外で解決するような事案があるために,医療側に対する不信感を募らせて,検討の難しい事案も同じように考えられてしまいます。

医師の保険料と規範意識

古川 訴訟には判決に至る場合と,和解で解決する場合があります。今のような事故の保険料として,勤務医は年間4万600円を払っています。病院は別に費用を払っていますが,1人の医師ではその程度の負担しかありません。これはアメリカに比べても,実情が違うこともあって低額です。一般人の交通事故でさえ,もう少し保険料を払っています。それに比べて,常に人が死ぬ可能性のある行為に携わる医者がこれだけというのはどうか,という議論があります。またこれで1億円までの保険金が下りるために,ほとんどの場合はカバーされますし,特に示談となると,通常はこれだけで支払い可能です。しかしこのために医師の規範意識も改善されないような気がします。
宮崎 結局はその医者のレベルによってしまうことかもしれません。「5千万円も払えばいいんだから」という口の利き方をする医者がいます。張り倒したくなりますが(笑)。
 そのようなミスを犯した場合,大病院の医師なら病院内はともかく,世間的な批判は表立って出ませんね。ところが開業医の場合,和解となっても相当な影響を受けますし,その場所では開業医として成り立たなくなってしまいます。その意味では,問題が起こったこと自体が医師の首をしめるのは間違いありません。しかし明らかなミスならともかく,「これはどうか」という難しい問題で争っている事案も同じに見られると,医者は非常に厳しい状況に置かれることになります。
 マスコミ報道については,起こったことを報道するのは構わないと思いますが,結果をきちんと報告してほしいですね。患者さん側が勝った時だけは大々的に出ますが,医師側が勝った時に報道することはまずありません。例えば未熟児網膜症に関わる最初の裁判で,未熟児網膜症には光凝固を行なうべきとする判決が出ました(註1)マスコミはこれを何度となく大きく取り上げましたが,その後,原告敗訴の判決が次々となされることの報道は明確には行ないませんでした。結果,160件を越える訴訟が起こり,すべての収束に17年を要しました。ところが,大腿四頭筋短縮症の事件では,最初の裁判で,医師に過失はないとする妥当な判決がなされ,大きな騒ぎとならないで済みました。私の知る限り,ほとんどのマスコミはこれを黙殺しました。これが逆の判決であれば,マスコミは喜び勇んで報道し,集団訴訟に至る可能性さえあったと思います。

和解と行為規範

古川 医療過誤の場合には,先ほど判事がおっしゃったように感情面が入ってきます。例えば1億円以下の和解だと双方が傷つかずに,患者さん側にも救済のお金が入り,医者も個人的にお金を払わないなど和解しやすいのではないかと聞いたことがあります。その点はいかがですか。
藤村 広い意味でのコストパフォーマンスを考えれば,和解がよいでしょう。最終的に判決が確定して救済が得られるまでに要する原告側の経済的,精神的負担は相当なものです。他方,医療機関側としても裁判を続けることは,原告側とは違った意味で負担があります。その場合,早期に和解で解決できるならそのほうがプラスではないかという意見は十分に成り立ちます。事案にもよりますが,明らかなミスの場合には比較的早く和解が可能になることが多いですね。しかし,そうではない例が和解で終わった場合,医療機関側に課せられる行為規範が表に出ないことになります。その場合には安易に和解せず,きちんと判断を示していくことが求められるでしょう。判決の形にならないと,実質的な行為規範が出ませんし,いくら和解で「今後こういうことのないように気をつける」と言ったところで,判決という形で出るのとでは与える影響が違ってきます。
古川 実際に判決になっている例は少ないので,医療側への知識の普及という意味でも,そうかもしれないですね。
 それから,原告側が感情的になり,このままいくと敗訴することがはわかっていても和解に応じない場合はいかがですか。
藤村 結構そのような例はあるのではないでしょうか。私自身が扱ったものでも,原告に「これはこういう理由で棄却の判決にします。しかし,この限度で医療機関側に支払いをさせます」と言い,医療機関側には,「医療上のミスはないかもしれないが,紛争という視点からすると負担すべきものはある」として,ある一定額を承諾してもらったことがあります。しかし,納得しなかったですね。それよりも判断がほしい,ということでした。それで説明した理由で原告敗訴の判決をしましたが,控訴はなく確定しました。

司法からみた医療とその水準

厳格化する判例

古川 最近の事例をもとに話しを進めましょう。
 平成7年の未熟児網膜症の事件(註1)は,厚生省研究班の結論が出る前に「学会レベルのシンポジウム等でテーマに取り上げられることが医療水準になる」という判決となりました。その後も厳しくなり,典型例は平成8年度の,「能書が医師の過失の基準になる」という判決(註2)があり,それにプラスして,「医師の平均的な慣行は医療水準にならない」という判断もこの判例で示されました。 その後,感冒薬の肝機能障害で敗訴した判例(判例時報1294号89頁)もあり,医師は能書のすべてを知らなければならないことになっていますが,その点はいかがでしょう。
宮崎 例えばどの能書にも,「子どもには(きちんとした治験の結果が出ていないから)注意して使う」,「妊婦には注意して使う」の2行が必ず入っています。これは,日本でも世界でも,子どもや妊婦における臨床研究をしていないからです。それなのに,どんな抗生物質でも子どもに投与されています。ですから,それを逆手に取られると,「子どもに注意しろ」と能書に書いてあったのに注意せずに使った,で終わりになってしまいます。能書というのは,そのあたりをも理解していただかないといけません。
 製薬会社によっては,1か所で何かあるとそのたびにつけ加えますから,どの薬にも100個や200個の注意書きをつけることも可能です。しかし同じような薬でも,「臨床データでは肝機能に問題がないから,つけ加えない」とする毅然とした製薬会社もあります。私は若い連中に,「能書は読まなければいけない」と教えはしますが,そこでのきわめて稀なこと,検査データが出ない限りわからないようなものに即気がつけ,と言われても困ります。
古川 能書もそうですが,医学の教科書を盾にとって,そのとおりにやれというような判決も出ています。藤村判事,ご自身の意見と,法曹として最高裁の判決の拘束性という点意見と,2つの方向からお話しいただけますか。
藤村 註2の能書の例は,判決文を読めばわかると思いますが,能書に書いてあることに違反したらすべて損害賠償義務を前提としての過失を確定的に認めると言っているものではありません。また,このケースは事実認定の中にもありますが,能書には「2分間隔で」とあり,この間隔で測定すれば血圧低下の状況を把握する可能性が高く,その段階で昇圧剤を投与すれば回復できることが,すでに医療のレベルで受け入れられていたことが大きな裏づけになっていると思います。この能書の部分は,医療現場にもほぼ妥当する事実を踏まえて書かれています。ですから,能書に違反していることが過失として取り上げられていることの実質的な裏付けとなっているのではないかと思います。
古川 ただ,それが最高裁の示した一般的な規範だというのが,法律実務上の定説になってしまっている気がしますが。
藤村 判例の読み方はとても難しいのですが,すべてが事例判決であり,「この事実でこの判決」なのです。この前提事実を読んでいく中で,どういう事実を踏まえて最高裁判所なり下級審なりが判断をしたのかをみなければいけません。

予見可能性と結果回避の可能性

藤村 話が飛びますが,「注意義務」を判断する場合は,一定の法益侵害あるいは不具合の発生についての予見可能性とその結果を回避する可能性の2つがある場合,医師に過失の前提としての注意義務を措定する,それに違反したら過失がある,という論理的な展開になります。
 すると,本件の場合はまさに能書に書いてある2分間隔で行なえば,予見の可能性と結果回避可能性があったと言えます。ですから注意義務が措定されて,それに違反したと判断したということでしょう。
古川 判事のおっしゃることはわかりますが,私自身がこれを読むと,一般的規範として読める点がありますね。私は医療過誤訴訟では代理人にならないことにしていますが,仮に私が代理人になった場合にはおそらくこの判決を使っていくと思います。その場合に,この判例と違ったものを出して,仮に能書違反でも「医師無責」という判決を出す可能性があるということですね。
藤村 もちろんです。一般的な裁判官は皆そう思っているのではないですか。それが普通の裁判官の感覚です。私はこの判決のケースでは能書のことを持ち出すまでもなかったと思います。能書に違反した場合には,そのことの合理性を医療機関側に説明せよということでしょう。
古川 そうすると,あくまでも結果回避の可能性と過失の判断だから,予見可能性と結果回避可能性と考えればいいということですね。
藤村 そうです。能書に書いてあることが注意義務の措定として是認できるかどうかという判断をするわけです。ですから,能書違反について合理的な説明がつけば,過失の推定は覆されるのです。
古川 裁判官の建前としては,そういうことになるのでしょう。ただ,弁護士として言わせていただければ,能書違反の合理的説明を訴訟上証明できるなどということは,事実上ないに等しいのです。この最高裁判決以降の下級審の諸判決を見ても,この点は明らかだと思います。ですから医師一般の認識としては,「能書違反は許されない」と考えておくべきだと思います。いずれにせよ,この点については,今後も議論が必要でしょう。

医療慣行と医療水準

藤村 医療慣行と医療水準が違うという話は,これは論理的には先ほど申し上げた,注意義務の法律論からも違うということが言えるように思うのです。判例上の過失とは,臨床医学の実践における医療水準に違反したものであるということですね。その違法,過失を構成するのは注意義務であり,それは予見可能性と結果回避可能性です。そこに注意義務が措定されて,違反すればその医療行為は違法となり,医師に過失があるということになります。
 そして,医療のレベルをどこに置くべきかを考えた時,医学上のレベルで考えられる予見の可能性,回避の可能性で違法,過失すなわち法的責任を判断したのでは現実の医療行為はできなくなってしまいますから,法的な過失概念とを矛盾することになります。そうすると,医療の水準にそれが合うことになります。他方,「医療慣行」は多くの場合,医療水準ないしは合理的な医療行為を踏まえた経験則に基づいて行なわれているのでしょうが,どうしても日進月歩の世界と離れて漫然と事実上行なわれている医療行為という印象があり,より高い技術開発をめざして実施される医療行為という側面を伴わない場合もあるように思うのです。そこには予見可能性,結果回避可能性という行為規範を支える基盤が不足し,法的評価の判断水準として適当ではないということになるように思います。そういうわけで,医療水準と言えない医療慣行のレベルのものは,将来の望ましい医療環境の確立という点からも一般人の納得を得られる基準にはできないでしょう。
古川 「業界の慣行」というものがありますが,確かに,それがすべて過失の基準になると,「業界の慣行どおりにやっていればよい」となってしまい,不合理です。現在では,大学病院ではこう,一般病院ではこう,というように開きが出てきているので,平均的な医師の慣行といっても一般基準にならないとも言えます。
 宮崎先生は麻酔科という,特に人の身体・生命に直接かかわるところにいらっしゃって,いまの平均的な医師の慣行――この言葉はお嫌でしょうが――についてはいかがですか。
宮崎 麻酔について考えますと,私のような指導医(他科では専門医)は全国で4300人を少し越えた数しかおりません。一方,厚生省による麻酔標榜医はおそらく2万人近くいると思います。これらの大半は2年間専従して麻酔経験があった者,または300例の麻酔を経験したことがあるというに過ぎません。われわれ指導医が麻酔を担当して行なっている手術は,日本中で行なわれている手術の半分にも達していないのが現状だと思います。日本の手術の麻酔は,外科が専門であったりするこれら標榜医が,自分で行なうのではなく,指導者として初心者に麻酔を行なわせているということが,かなり頻繁になされているのが現実です。日本の麻酔のレベルはどこにあるかというと,非常に判断が難しいものがありますね。
 また,日本麻酔学会は麻酔を安全に行なうために,揃えるべきいくつかのモニターを指定していますが,大病院を除いて,それらがどの病院にもすべて揃っているというわけにはいきません。そのような病院でモニターに関連することで事故が起こったとしたら,それも叩かれることになるのでしょうか。
 私が医師になった35年前と比べて,新しい麻酔薬が登場したことは確かですが,麻酔の手法はほとんど変わっていません。モニターの発達で異常を多少早く見つけられるようになったとは思いますが,麻酔科医自身が麻酔施行にあたって注意すべき事柄は何も変わっていないのです。
古川 確かにモニターがないと「水準に達していない」という事実認定の1つに用いられています。
宮崎 毎日手術が10-20件とあれば当然モニターも揃えますが,月にその程度しか手術のない病院も同様に維持しなければならないとなると,モニターだけで何千万円とかかるため,経済的に成り立ちません。そういう差もあるのです。
藤村 最高裁判決の言う医療水準とは,その中身が実際には難しく定かではありませんが,例えば「全国一律のものではない」とした判例(最高裁第二小法廷平成7年6月23日判決・民集49巻6号1499頁)があります。分野ごと,地域ごとに異なるものというのが基本的な考え方です。例えば,へき地の医療機関で事故が起きた場合,都会であれば起きなかった類のものであったとしても,都会の医療水準またはそれを少しだけ下げたような水準を要求して責任と損害賠償を負わせるとなると,へき地の医療機関はもうやっていけなくなりますし,そうなれば地域に医療機関がなくなってしまいます。法規範とは現実的なものでなければいけませんから,そのような判断は明らかにおかしいと私は思います。
宮崎 麻酔ひとつとっても,そのような状況をみて判断していただけるといいですね。同じ鑑定を書いていても,大病院や大学病院のケースであれば,私もかなり厳しく考えて書きますが,そうでない場合には,「ここにはこれだけのことを考慮する必要があるのではないか」という意見を必ず添えるようにしています。
藤村 裁判では同じ事案というものは存在しません。事実も違うし,それに対する法的評価も,昨日と今日,今日と明日では違うのです。そして,そのような評価を経て作り出された行為規範が明日からの医療現場の行為規範としても妥当するかどうかという面も考えなければいけません。

望ましい医療環境確立のために

古川 最後に,裁判所から医師に言いたいこと,医師から裁判所に言いたいことを一言ずつお願いしたいと思います。最初に私から申し上げようと思います。
 私は,医師兼弁護士として,裁判所にぜひ予算をたくさん持ってきてほしいと思います。まだまだ裁判所は市民から遠い存在ですから,予算を使って,市民のためにもっと活躍できる裁判所になってほしいという希望があります。
宮崎 私は,医療者のためにも患者さんのためにも,迅速に結論を出してほしいと思います。10年も引きずると,その間に医療水準は相当変わってしまい,判決の際には,当時と状況の異なる現在のレベルで,過去の事例を判断するようなことが起こります。なんとか迅速になればよいと思います。
藤村 漠とした言い方ですが,裁判制度,司法制度は国,社会の統治の手段であって,それ以上でもそれ以下でもありません。したがって,裁判制度はそれに応えるように機能しなくてはいけません。医療過誤訴訟の問題であれば,そこで判断される内容が,医療現場に行為規範として妥当するものでなければいけません。そのためには内容に妥当性が求められるのはもちろんですが,タイムリーな判断でなければいけないのです。宮崎先生がおっしゃるように迅速に,的確な判断が必要です。そのためには,裁判所も努力すべきであり,裁判官が鑑定等に至る前に注意義務の措定など争点を弁論で整理しなければいけません。
 それと同時に,必要な専門的知識を医療側から提供してもらわなければいけません。それを医療機関側に切に期待したいのです。要するに,統治の手段ということからすると,医療訴訟に限れば,その判断の結果が医療技術のみならず費用負担の点も含めて,すべからく望ましい医療環境が確立されることに還元されていかなければ意味がありません。医師のプライドや,病院の経営などの問題はあるにしても,よりよい明日の医療環境を確立するという心意気みたいなものを持っていただきたいし,裁判官も同じように努力しなければならないのです。
 今日の話題には出ませんでしたが,例えば患者との接し方とかの,医療技術だけではない点の不十分さを問題にした訴訟もあります。それを立場は異なりますが,より望ましい医療環境の実現という公益目的をもってそれに資するような仕事をするという心意気を持つことが必要と思いますし,そういう意味で医療と協力していきたいと強く思います。
古川 日本弁護士会には自浄の機能があります。自分たちで自分たちを統治するということで,懲戒制度を持っています。今までのところ,医療に自浄制度がないことが批判の的になっています。無知や不真面目,不誠実という点については何らかの裁断が下されてもよい時期にきているのではないかと思います。ぜひ,司法と医療とが手をとりあってやっていきたいと思います。
 本日はありがとうございました。


註1)判例時報1537号3頁など。
註2)虫垂炎の切除手術に,麻酔剤ペルカミンSの腰椎麻酔を施行。添付文書(能書)に「注入後は2分間隔で血圧測定すべき」と書かれてあった。最高裁第三小法廷1996(平成8)年1月23日判決は,「医師が医薬品を使用するに当たって添付文書に記載された使用上の注意事項に従わず,それによって医療事故が発生した場合には,これに従わなかったことにつき特段の合理的理由がない限り,当該医師の過失が推定される」とした(判例時報1571号57頁)