医学界新聞

 

連載  戦禍の地-その(7)  

いまアジアでは-看護職がみたアジア

近藤麻理(高知医大・看護学科)


2398号よりつづく

日本で治療を受けた少年-その(2)

 人道援助は,たった1人の人間の「人を助けたい」という純粋な気持ちから行なうことができるし,また国の外交政策の1つとして政治的要素を強く打ち出し,巨額な予算運用のもとでも可能となります。どちらも極端ですが,結局のところ1人の気持ちだけでは人道援助はできないと私は思っていたのです。
 今回のネジール君一家の日本への移送には,日本外務省と在外日本大使館の関係者の方々による迅速・正確な打ち合わせによる書類手続きと,全日空の日本までの無償移送の協力がありました。また,日本での治療受け入れ先である金沢大学医学部附属病院スタッフの方々が,どれほど深く愛情を注ぎ治療と看護をしていたかが,コソボに帰国したネジール君とご両親の言葉から伝わってきました。この活動には,主役や英雄は存在しません。みんなが自分の役割を認識し,責任を果たしていったのです。

1999年1月のプリズレンの街。その中心に立つモスク(イスラム教会)は,幸運にも略奪と破壊を逃れ今も美しい姿で人々の心を癒している

コソボにおける医療の進歩と自立に望みを託して

 その中の1人に,コソボ自治州内の州都にあるプリスティナ病院の眼科で働くガズメンド医師がいました。人格的にも優れていたガズメンド医師は10名以上の候補者の中から最終的に選ばれ,AMDAの招聘で日本に研修に来たのです。もちろん,ネジール君のコソボでの継続的な診療と治療を担当する医師を育成することが第1の理由でした。
 また,人道援助の現場では多くの人たちが「結局,1人だけしか助けられないのか」というジレンマに陥ります。ですから,そのジレンマをコソボの人々と一緒に乗り越え,緊急援助が将来を見据えた活動であるためには,コソボの医師の手による治療がやがて可能となるような長期的展望が必要だったのです。そういう意味では,ネジール君が日本で難病を完治し帰国したこと,続いてガズメンド医師が日本での研修を受けたことは,近い将来コソボにおける医療の進歩と自立が実現するという望みを持つことになるのです。これら一連の活動は,現地の新聞に掲載されました。

雪の中,車の窓を叩く若者

 1999年12月下旬,ガズメンド医師は日本での2か月の研修を終え,隣国のマケドニア(首都スコピエ)に帰国しました。この日,前夜から降り積もった雪で国境付近の険しい山々は,突然の雪に対応できなかった大型トラックや車が立ち往生し通行止めになっていました。どの車にもツララが長くぶら下がっています。夜の気温はマイナス20度,この日の夜中,並んでいる私たちの車の窓を叩く若者がいました。
 彼は,「私たちの家に泊まりませんか」と言います。数か月前は,難民の人々をこうやって同じように泊めたと聞かされました。親切な村人の1人だったのです。私たちは,わずかな薪で暖をとりました。難民の脱出の様子は現地のスタッフや,村人からたくさん話を聞いていました。彼らのほとんどは雪が降り積もる3月に,山の中を家族みんなで何日も歩き国境を越えたのです。私はその脱出の跡を,かなり違った形ではありましたが追体験したことで,村人の親切や,難民の脱出を助けた状況が理解できるようになりました。そして「人を助けたい」と思う気持ちから,1人の人間の何かが変わることはありうると思うようになったのです。私が実務的な仕事をこなすことに熱中していた時期に,不意に訪れた転機でした。

「たった1人」ではなく「かけがえのない1人」に

 1人だけの努力は小さなものだけれど,それは心に深く残ります。そうであるなら,「たった1人」ではなく「かけがえのない1人」を助けることができたことで満足しても構わないはずです。
 私はコソボで数え切れない人々と出会いました。この体験は,私の価値観や世界観をあっという間に変えました。それは,日常の事務的な業務をこなして身につけたものではありません。現地の人々と仕事を通し,また私生活の中で悲しみや喜びを共有しながら,ときに同じ時間を過ごすことで得ることができたものです。そして,「いつか大きな国際機関で仕事ができたら,もっと多くの人の役に立てるだろう」という気持ちは,変わらずに心の中にあります。
 今回をもって,コソボでの緊急援助活動報告を終了し,話を「アジアにおける看護の現状」に移そうと思います。余談ではありますが,この連載を読んでくださっている読者の方から,「この8月からタイのマヒドン大学で勉強することになりました」という連絡を頂戴しました。連載第1回目で紹介しました大学ですが,その報をご本人からいただいた時,私がどれほど喜んだかご想像ください。なるほど,こうやって仲間は増えていくのですね。