《短期集中連載》全7回
ボストンに見る米国の医学,看護学,
ならびに医療事情の激しい動き(6)
日野原重明(聖路加看護大学名誉学長)
ハーバード大学における医学生のための
「予防医学,栄養学,外来でのプライマリ・ケア」(その(2))
(第2397号より続く)
12月29日(水)・第5日目
1学年の集中ワークショップ:その準備のすばらしさ

それぞれ第1日目のためには129頁,第2日目は90頁,第3日目は107頁,第4日目は77頁,第5日目は62頁というように,完璧に近い資料が印刷して準備されている。
1例として,表2に1995年の「予防医学と栄養(Preventive Medicine & Nutrition)」のコースを紹介する。
学生の能力の評価
1学年と4学年の学生に予防医学と栄養のコースがあるが,各コースを終えると受講した学生を下記の3項目について「A(優),B(良),C(可),D(不可)」などと評価する。1.知的理解
2.問題解決技法と分析力
3.コミュニケーション技術
予防医学の栄養学コースには9人の教授以下助教授,講師,助手がテューターとして参加している。
以上のような学習方法で時間と人材とスペースと費用と教材が提供され,在来の講義中心の教育に比べると格段の進歩がある。これらのことは日本の医学校の少ない教員数や教室数,教材製作の労力不足,安い経費などでは,とても米国式にはできない。カリキュラムがよく準備され,労力も資金も十分に投資されているので米国では可能だという現状をみると,ただため息が出るのみである。私はフレッチャー(Fletcher)夫妻の熱心な説明をうかがうと同時に,いろいろと質問をした。フレッチャー夫人のほうは,全米各地おいて卒後の医師のための,ハーバード大学の講習会やワークショップの計画を立てておられ,できれば日本と協力して日本でも実現したいと希望されている。これらは,一般臨床医向けのハーバード大学の事業である。
ずいぶん多くの資料をいただいたが,持ちきれず,別便で送ってもらうことにしたので,帰国直後,膨大な資料が東京の私のオフィスに送られてきた。
出雲研究室の若い研究者との会話
正午に私とフレッチャー夫妻との話し合いは終わり,R.フレッチャー氏の車でBID(ベス・イスラエル・ディーコネス)メディカルセンターに送っていただいた。ここで私は,出雲教授の研究室で働く数名の日本からの研究者と,同研究室以外のボストンの研究所で働く4-5名の方,合計約10名あまりの若い研究者と出雲教授を交えて,米国におけるマネジドケア,および米国と日本の研究・教育・診察の現状と対比して論議した。私は日本の臨床医学教育が大変偏っている事実を述べ,専門医制度が各科の学会では一応格好がついているが,これにはいまだ経済的メリットがないため,この制度の発展を阻んでいるとことを率直に述べた。
ノーベル平和賞と倫理教育
午後1時30分にこの集まりは終了し,出雲教授の案内で,病院玄関に通じるエスカレーターで階下に降りようとしたが,途中で突然私の肩をたたく人があった。振り返ると,私が平成8(1996)年に,(財)ライフ・プランニング・センター主催の「医学とQOL」をテーマにシンポジウムを開いた時に招待した講師の1人,フォロー助教授であった。前記表1のカリキュラムに紹介したように,彼とそのグループはノーベル平和賞を授与される光栄を得られたが,平素は一般内科の助教授である。総合内科学の教育の他,先にも述べたように,生命倫理に関して学生を指導しておられるのである。
彼は,「Albert Schweizer博士生誕125年記念」と,「J.S. Bachの死後250年祭」を兼ねて,2000年9月30日から10月15日までテネシー州ナシュビル市のVanderbilt大学で「生命の尊厳を通して平和の世界を」と題するシンポジウムを企画し,世界各地から大勢の人を呼んで開催する予定だと話された。彼によると,日本からは原爆を受けた広島の少年合唱隊も参加するそうで,この件に関してはまた後ほど改めて文書で連絡してくれるとのことであった。
Shapiro外来棟クリニックにて
専門外来の見学-ていねいな診療の場面
午後1時半からはShapiro外来棟のクリニックを見学した。出雲教授夫人である博子女史は,現在ハーバード大学の内分泌科のフェローとして働いておられ,彼女からここの内分泌科専門クリニックの診察風景を見学しないかとの誘いを受けた。そこで,2階の内科外来クリニックを訪れたのである。ここには,内科の各専門家のクリニックが開かれているが,内分泌学でも甲状腺疾患を専門にしたM教授の紹介患者の診察を見学した。
博子女史は,開業医であるプライマリ・ケア医から紹介された患者の問診を始める前に,私をその老婦人に紹介し,病歴が取れたところで簡単にバイタルサインをチェックした。その後,ハーバード大学で甲状腺疾患の臨床の第一人者と言われるパロッタ(J.A. Pallotta)教授を隣の部屋から呼んで来られた。
パロッタ女史は,この老婦人に私が東京からきた循環器専門医だということを改めて紹介された。この患者は虚血性心疾患で心不全を繰り返しており,ベルギーで開発された心室性頻脈発作防止のための抗不整脈剤アミオダロンを開業医の処方で内服していたが,「この与薬が甲状腺機能異常を疑わす症状を招いたらしい」ということで,内分泌専門医にコンサルテーションを頼んだのである。患者がHMO(Health Maintenance Organizations)などの健康保険に加入していると,指定の開業医にしかかかることができないが,その開業医が自分では扱いかねる病状であると,他科の専門医にコンサルテーションをしなくてはならないことが起こる。アミオダロンのような抗不整脈剤は,時に甲状腺の働きの異常を招くので,内分泌専門医が立ち会い診察を依頼されたわけである。
プライマリ・ケア医がこのような患者を診る時,甲状腺についてはTSH(thyroid stimulating hormone)のテストしか保険では認めないとのことである。そして,この患者の立ち会い診察を頼まれた甲状腺専門医が診察するとなって,初めてT3とかT4のホルモン検査を保険で行なうことができると言う。このような事態は,日本の保険制度からみるとまさに「制限診療」である。プライマリ・ケア医としての開業医は,HMOの下では勝手にTSH,T3,T4などの検査を「まるめ」では行なえないことになっている。
パロッタ教授は,甲状腺を触診した後,「日本から来られたこのドクターは心臓の専門医です。私はあなたにこのドクターから心臓を診てもらうことをお勧めしますが,あなたはそれを受け入れますか」と患者に尋ねた。彼女が,「イエス」と答えると,教授は私に聴診器を渡してくださった。私は甲状腺の触診と心臓の聴診を行なったが,甲状腺機能亢進を示す異常の心音や血管音が聴取されないため,「おそらく甲状腺機能亢進はないと思うが,機能低下はもっと調べないととわからない」と話した。
M教授は,博子女史に「とりあえずT4ホルモンの結果で病状を判断するように」と患者の前で告げて,再診を約した。
目の前に見る医師-患者間のスムーズなコミュニケーション
このようにして医師間,ならびに患者と医師間のコミュニケーションが円滑に行なわれると,患者もよく納得できるわけである。こういう余裕のある外来診察が行なわれているのを見て,日米の第一線の診療の差を感じた。パロッタ教授の診察料はいくらかを博子女史に聞くと,180ドルくらいだろうとの話であったが,はたしてこの額を保険が認めるか否かは,査定まではわからないとのことであった。米国では,医学生やレジデントの教育の過程で,患者と医師との間にスムーズなコミュニケーションが行なわれるように細やかな指導がなされている。日本のように,患者に何の説明もなくテスト用の採血をするようなことは,米国ではまず見られない。必ず採血は何のためにするのか,ということが患者に事前に話される。それもわかりやすい言葉で説明し,医療職間で使っている専門語(Jargon)は患者の前では使わないように学生を指導している。
以前に報告したMGH(マサチューセッツ総合病院)のストックル教授の場合でも,この内分泌専門のM教授の場合でも,患者への説明にはごくわかりやすい言葉を用いている。患者にわかりやすく説明する義務と責任が医師にはある,ということを英語ではAccountabilityと呼んでいる。このような外来診察のゆとりがあってこそ,初めて外来での医学生や若い医師への臨床研修が功を奏すのである。
米国ではHMOの普及のために,医師による患者の診察時間が短縮される傾向が見られるが,しかし日本の3分間診療とは大違いで,専門医による初診は45分か短くても30分,再診は15分というのが平均であると言う。
ラブキン教授夫妻との四半世紀におよぶ交遊
ホテルに帰ったのは午後4時だったが,午後6時にはラブキン夫妻の招待でボストンの下町のカニ料理のレストランでディナーをご馳走になり,久しぶりにゆっくりと食事をとった。ラブキン夫人は,メディカルソーシャルワーカーの仕事を多年務められてこられたが,今は現役を退いてほうぼうでボランティア活動をしておられる。私とラブキン夫妻との交遊は,四半世紀近くにわたっている。私がラブキン先生を知ったのは,昭和52(1977)年8月の(財)ライフ・プランニング・センター主催の「医療と教育に関する国際シンポジウム」を計画した時のことである。
ちょうど米国から招く人材を捜していた折に,デューク大学の副学長のアンリャン(Anlyan)教授から「医師として病院管理の実績を持たれる経験者」ということでラブキン教授を紹介され,彼を日本にお招きした時から,2人の交遊は始まった。その後,ラブキン先生が院長をされているボストン市のベス・イスラエル病院に何人もの医師と看護婦の留学をお願いしてきたのである。平成4年に聖路加国際病院の新病院が完成した時,私はラブキン先生を開院式にお招きもした。
ベス・イスラエル病院と競い合ってきたブリガム・ウィメンズ病院とMGHが協定してPartner's Health Care Systemを打ち出したことに対して,ラブキン院長はディーコネス病院との合併によって対抗する,という計画を立案されたのである。30年にわたる病院管理のエキスパートとはいえ,いざ合併してみると,2つの病院のスタッフの融合は難しく,赤字はかえって増す結果となったのである。前回にも記したように,1年余り前からはこのプロジェクトの執行の責任の座を下り,医学生や若い医師の教育の仕事に転じられた。
ボストン滞在最後の1日
12月30日(木)・第6日目ベス・イスラエル病院で長い歴史をもつプライマリ・ケア
午前9時に,再びラブキン先生の車の迎えを受けて,一緒に先生のオフィスに行った。待合室にベス・イスラエル病院の一般内科のマクドン(H. Makdon)先生が来られていた。私はこの病院を訪れる度に,この病院が長い間,一般内科でのプライマリ・ケアを重要視し,デルバンコ(Delbanco)教授の下に,ユニークな,行き届いた診療がなされているのを知らされていた。そこでこの科には,日本財団からの援助で,過去に日本からの留学生を2-3名送っている。ハーバード大学医学部の教育病院というと,研究活動や専門医の研究に重点を置く所と考えられやすいが,ハーバード系でもこのベス・イスラエル病院のプライマリ・ケアの教育と診療の質は実に高い。私はここを訪れるたびにこの科の午後のカンファレンスに出るのを楽しみにしていたが,今回はデルバンコ教授はクリスマス休暇で旅行中のことであった。そこで,このマクドン医師にラブキン先生のオフィスに来ていただいて,その後のこの部門の活動について尋ねることにした。「ディーコネス病院との合併後のベス・イスラエル病院側のプライマリ・ケアの活動に,何か変化はなかったか」と尋ねたが,「この科は合併後も同じ活動が続けられ,地域住民によいサービスを提供している」と答えられたので,私は「よかった」と思った。
ところで,デルバンコ教授は「日本から留学されて,この科のレジデント教育を受けた武田裕子医師はすばらしい」と常々彼女を高く評価しておられていた。彼女は帰国後,筑波大学付属病院のレジデント教育を担当し,ごく最近,沖縄に転勤されたと聞いている。彼女は近年,Evidence‐Based Medicineにも興味を持ち,日本の若手医師の指導者として活躍しておられる。このような成果を知ることは,このうえなく喜ばしいことである。
出雲正剛教授の研究室を訪問
この日の午後は,出雲教授の研究室を2年ぶりに訪問した。彼の研究室には,日本の多くの大学の医学部の循環器内科から数名の若手研究者が留学に来られており,出雲先生のユニークな発想の下で分子生物学的手法などを用いて,心筋再生の研究や,先天性心臓病の発生の機序を探求する研究に参与している。出雲教授に,「ハーバードの内科教授として,教育に提供している時間はどれほどか」と尋ねると,「1年のうち2か月は医学生やレジデントの臨床教育に捧げ,他は研究に集中している」とのことであった。
NIHなどの科学研究費の大型の助成を申請する直前の1週間は,研究室に泊まり込みで,申請のための膨大な資料を作ると言われる。実際にその資料を見せてもらったが,日本の文部省への科研費の申請に出す資料に比べると,比較にならないほど綿密で膨大なものである。
私がこの研究室を訪れた時に,出雲教授は居合わせた日本からの研究者(その中にはもう数年も彼の下で研究をしている顔馴染みの女性医師もいたが)を私のところに呼び寄せた。そして,その4名の研究者の方から,それぞれが行なっている実験のプランとその成績について,分子生物学の知識の少ない私に,内容をていねいにダイジェストして報告するよう指示された。これらの若い人からの知的エネルギーが,私の身体一杯に充満してくるような実感を持ち,若い人と接触できる喜びを感じた。
老人施設の見学
午後4時に私はラブキン先生のオフィスに帰った。夕刻には,私が興味をもっているボストン近郊の老人ホームに案内される約束があったからである。行き先はボストン市街から南に向かって約30分ドライブしたカントン郡の町で,そこに23エーカーの森と牧場に囲まれた5階建ての老人住宅の建物がある。これは「Orchard Cove」と名づけられたヘブライ・リハビリセンターの経営によるものである。ベス・イスラエル病院と同じユダヤ系の出資団体であるが,入居には人種の差別がない。ここには227世帯が住めるアパートがあり,窓からは森と湖とが見える。静かな素晴らしい環境に作られた隠退した老人の住む施設である。ラブキン先生の知人のB.Polonskyさんがこの施設のマネジャーであるが,私が東京から訪ねてきたことをラブキン先生が話すと,夕食前の忙しい時間帯であるにもかかわらず,早速愛想よく私たちを各階に案内してくださった。
各アパートには大・中・小の区別があるが,1Bedroom,1Bathroomの最小のアパートでも25坪はある。さらに2Bedroom(1つは来客用),デラックスの50坪ものアパートもあり,すべての部屋にテラスがついているのがこの施設の特徴である。入居には,それぞれ25万$,30万$,50万$の費用を払わなければならないが,これは退去時には9割が返却されるという。入居後の費用は,1人で月に1600$,2人だと2300$で,日本の現状にくらべると格安である。
入居中に病気になり,寝たきりやまたは痴呆になった者は,日本の特別養護老人ホームでやっているような医療や看護サービスが受けられる看護ケア棟で世話され,その費用は,政府の老人保険(メディケア)からの入金で十分まかなわれるという。軽い病気の際はショートステイの病室もあり,3度の食事も支給される。
1日3回の食事のうちの1回は,どのレストランで食べても費用は月々のサービス料(1人1600$,2人は2300$)の中でまかなわれる。自分の部屋で食事をとってもよいが,多くは朝食をそれぞれの部屋でとり,残りの2回は食堂かレストランを利用している。食堂のメニューを見ると,心臓病患者の昼または夕食1回分の食事は,総カロリー(515Kcal),脂質(16g),コレステロール(95mg),Na(200mg)という献立が用意されている。
医療やリハビリテーションの設備,プールその他,美容室やライブラリー,ミュージック・ルームなどの施設があり,銀行の出張所もある。廊下には,4つある食堂またはレストランへ夕食に出かける入居者が大勢歩いていたが,マネジャーは出会う入居者の1人ひとりに親しく名前で呼びかけておられた。そして,ここでは1年を通してさまざまな行事が企画されており,その中にボストン・シンフォニーホールでの直前総練習の席(ゲネプロ)に連なることができるプログラムも組まれている。
日本にある多くの老人施設には,中年の人が入っていることは少ないが,この施設には主人は65歳を超えていても若い夫人を伴って入居しているカップルも多く見られるので,雰囲気が明るく晴れ晴れとした感じがする。病気になって寝込んでも,この施設内の医師やナースの世話を受けたり,あるいは長年の外部のホームドクターが出入りすることもできて,入居者は健康上心配することはない様子である。
もちろん手術を要する場合は,BIDメディカルセンターに入院することができ,早期に退院しても,この施設の中の静養室に戻れば心配はない。患者によっては必要時には外部のクリニックの医師のところへ診察を受けに出かけてもよいのである。
ラブキン先生のお住まいを訪問
「Orchard Cove」を1時間ばかり見学した後,ホテルに帰る途中にラブキン先生のお住まいがあるというので,そこに寄らせていただくこととなった。先生の住居は,ボストン郊外の静かな住宅地にある。ここには長く住んでおられるとのことで,体格の立派なラブキン夫人は私を抱くようにして迎えてくださった。パーラーには日本から持ち帰られた絵や飾りものが壁に飾ってあったが,ラブキン先生は棚から陶器のお皿を1枚持ってきて,「これは島岡達三氏の作品だ」と言われた。後で調べてわかったことだが,島岡氏は栃木県の益子に住居と窯を構える益子焼きの重要無形文化財保持者(縄文象嵌)でもある。この方はカナダや米国でよく個展を開き,カリフォルニア州のロングビーチ州立大学で集中講義をされているとのことである。余談になるが,私は帰国後すぐ島岡氏に手紙を書いて,「ラブキン先生があなたの作品に大変興味を持っておられるので,図鑑があればぜひ入手したい」と頼んだところ,英文の資料を送ってくださった。そして,「秋にはまたボストンで個展を開くので,先生に伝えてほしい」とのことであった。私が早速いただいたその資料をラブキン先生に送ったことは言うまでもない。
ラブキン先生はこの古い家を愛し,お子さんたちはそれぞれ独立しておられるので,今はご夫婦だけで簡素な生活をしておられる。「2000年の7月にはご夫妻を招待しますよ」と夫人に申し上げてお宅を辞去した(編集室注;ラブキン氏は「第13回医学教育指導者フォーラム」の講師として来日した。参照)。先生は,私が宿舎としていたボストン市内のFour Seasensホテルまで車で送ってくださった。
堀越夫妻とラルソン女史から行動医学の情報を
いよいよ明日はボストンを発ってサンフランシスコ近郊の私の息子の宅を訪ね,そこで新年を迎えて,1月2日に帰国となる。そのボストンでの最後のスケジュールは,午後7時に予定されている,ホテルの近くに住む臨床心理学専攻の若い研究者である堀越勝君のお宅の夕食への招待である。ここにはラルソン(K. Larson)夫妻も招待されていた。ラルソン女史は専門ナースで,行動医学,ことにバイオフィードバック療法を看護の立場から実践されている。そのご主人はバイオフィードバック用のカナダの機器を取り扱うビジネスもしておられる精神科医である。堀越君のお住まいは,階下が居間兼食堂で,2階に寝室を持つ2人住まいの家庭であるが,彼は日本からきた若夫婦の庶民生活の一面をみてほしかったと言われる。久しぶりに日本料理をいただいた後,早速,堀越君やラルソン女史の研究や仕事の内容をうかがった。
臨床心理士と医師との協力体制
堀越君は,本年7月からハーバード大学関連病院であるケンブリッジ病院での「行動医学プログラム」から,同じハーバード大学医学部系のMGHの強迫神経症研究所(OCD研究所)に移り,重度の不安症と強迫神経症患者のケアを担当されると言う。この実務に携わりつつ,ハーバード大学医学部のアドヴァンスド・ワークとしての研究を続けているとのことである。彼はバイオフィードバックの手法を用いて強迫神経症の研究を3年ほど続けている由である。時々日本の学会に招かれて,臨床心理学やリエゾン精神科方面の講演をされていると言われた(編集室注参照)。私は今から15年前にノルウェーを訪れた時,国際尿失禁学会に日本から出席されていた福井準之助先生と出会った。福井先生は現在,聖路加国際病院の副院長をしている泌尿器科専門医である。それから以降は,老人症候群の1つとして失禁の研究とその指導に取り組むことが,日本の今後の老人問題の大切な課題と考えるに至った。そしてその後,当時聖路加看護大学博士後期課程に在籍中で,現在は同大学教授の小松浩子先生が失禁に興味を持っているの知り,フィードバックの手法を用いた尿失禁患者のケアについて研究することを勧めたり,米国・フロリダで開発されたフィードバックの機器の輸入に便宜を図ったことがあった。私がこのような方面に関心があるのを堀越君は知っていたので,彼の友人であるとともにバイオフィードバックを研究されているラルソン女史を紹介されたのである。ラルソン女史は,現在ボストン市にあるHarvard Vanguard Medical Associatesという研究治療施設のBeharvioral Medicine部門長をしている精神科のご主人のロック(Steven Locke)医師の下で,バイオフィードバック・サービス科の主任を務めておられる。彼女は看護系のSimmons Collegeを卒業して看護婦となり,その後ハーバード大学の公衆衛生大学院やボストン大学公衆衛生校などで卒後の研修を受け,英,仏,スペイン,スウェーデン語をマスターしたという努力家である。
彼女の研究の領域は下記に及んでいる。
(1)尿失禁,夜尿症,膀胱炎などのバイオフィードバック療法
(2)行動医学と看護との関わり合い
(3)集中監視ケア病棟(ICU)入院患者の心理療法
(4)心身,心理教育的プログラム
(5)行動医学と糖尿病
行動医学の日米両国の差
この連載の2回目に,私は日本では米国に比べて行動科学を専門にする医科系の研究者の少ないことを述べた。日本にも心身医学会所属の内科医または精神科医には,行動科学を治療にもっと導入したいと思う人はかなりいる。またバイオフィードバック学会などの加入者も増えているが,まだ日常の診療への行動医学の導入は弱い。これはすべてを医師がすべきだという狭い考えが医師側にあり,臨床心理学者や専門ナースをチームに加えて一緒にやろうという考えが弱いためで,このことが行動医学の発展を阻止しているとこの席でも述べた。ラルソン女史が2000年3月に名古屋の日本での学会に来られる機会があると言われたので(編集室注参照),私はその帰りに聖路加看護大学の院生と教授に「行動医学と看護」と題する講演をしていただき,ご主人が持ってこられるカナダ製のバイオフィードバックの機器〔A Multimedia Biofeedback System,Thought Technology Ltd., Canada.国内総代理店=ポラックスヘレン(株):TEL(03)3666-0511/Fax(03)3666-0886〕を紹介してほしいと頼んだ。
この機器は,額部に電極をつけて筋電図をとり,その波形を見ると,患者は自分の緊張とリラクゼーションとの波形がどのように違うかということが,見た目にわかり,自然と自分をリラックスさせるコツが繰り返しの訓練により体得されるというものである。また,膣内に器具を挿入して,骨盤内の不随筋の収縮を筋電図を用いて記録させ,これを見ながら患者に不随意筋をエクササイズさせると,失禁のコントロールが次第にできるようになるという。このような機器が大いに有効であることを私はその説明を聞いてわかった。
話が進み,夜10時にもなったのでお宅を辞し,ホテルに帰った。
ボストンでの年越しの楽しみ
私のボストン滞在最後の夜は,出雲正剛教授夫人の博子女史からいただいたボストンでの劇場の年末の出し物,チャイコフスキー作の歌劇「くるみ割り人形」の観劇であった。その内容は,毎年異なり,子どもにも大人にも楽しめるさわやかなオペレッタである。第4日目の夜は,小沢征爾氏が音楽監督をしているボストン・シンフォニーオーケストラのクリスマス演奏会に行った。この コンサートは,クリスマスの前後1週間にわたり,各地から指揮者を招いて開かれる。このボストン・ポップスの演奏中は,ホールはファミリーごとにテーブルを囲み,アルコールその他の飲み物や,スナックを口にすることが許されている。私の出席した28日の夕べは,ハンゲン(Bruce Hangen)氏の指揮であった。彼は指揮をするだけでなく,エンターテイナーとしてプログラムを進行させるなど,その才能はみごとなものであった。パターソン(Elizabeth Patterson)女史指揮の混声合唱団の「Gloroae dei Can tires」もとても素晴らしかった。最後には,聴衆一同が立って,クリスマス・キャロルの合唱で閉会となった。
また,12月29日のラブキン先生招待のディナーの後には,出雲先生夫妻の配慮でボストン美術館の夜間の入場券をいただいた。夜間とはいえ,大入り満員であった。「太陽のファラオ(古代エジプトの王の称号:Pharaohs of the sun)」という題のエジプト展の美術品には,古き時代の人物が創った「美」の粋が数多く展示され,私はその1つひとつの作品の前で感動を覚えた。
古いエジプトの資料の展示を見ると,地球上ではサイエンスは毎年刷新されているが,アートとしての美術は紀元前2000年以上前に生活した人間が,その一生の間に作成した作品である。アートにはその材料や製作技術には進歩があるものの,各年代でそれぞれの最高の美が描かれている。医のサイエンスは刷新を続けるが,不易のアートは癒しの技の中にも厳然と存在していることを現代人は認識すべきだと思う。
帰国の準備
ホテルでは,帰路の荷物の整理をした後,いろいろな方をインタビューしたメモを整理していたら,午前4時になってしまった。空腹を覚えたので,ホテルのロビーに下りてバスケットの中にあった林檎を1ついただき,部屋で食べながら早朝のテレビを見た。朝になってからひと眠りすると寝過ごすので,入浴し,体を温めて,午前6時に堀越君夫妻の迎えの車に乗り,ローガン空港に向かった。早朝であったためであろう,20分ほどで空港に着いた。
今日の大晦日から明日の元旦にかけてミレニアムになるに際してのコンピュータ・トラブルへの警戒のため,ローガン空港では見送り客のゲートへの出入りが禁じられたので,堀越夫妻と別れ,1人でゲートに向かい,午前8時発のアメリカン・エアライン機でサンフランシスコに向かった。
表1:プライマリ・ケア,Internal Medicineのカリキュラム | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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表2:「予防医学と栄養」のコース | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【編集室注】
堀越勝氏およびラルソン女史は,さる3月2-4日に名古屋市で開催された「第27回日本集中治療医学会」(会長=名大・島田康弘氏)に招聘され,招請講演「集中治療におけるインテンシブなケア」(堀越勝氏),「Suffering and distress in the ICU;Implications for behavioral medicine and nursing practice」(ラルソン女史)を行なった。 (本紙第2381〔3月27日付〕号参照) |
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