医学界新聞

 

《短期集中連載》全7回

ボストンに見る米国の医学,看護学,
ならびに医療事情の激しい動き(1)

日野原重明(聖路加看護大学名誉学長)


ボストン再訪

 私は過去20年間,定期的に年末の休暇を利用して米国・マサチューセッツ州ボストン市を訪れ,米国の医学や看護の教育,研究,医療の実態を見学することを続けてきた。
 前回は1997年末の報告を4回にわたって『週刊医学界新聞』に連載した(編集部注参照)が,今回1999年12月末の1週間のボストン市滞在中に得た資料について報告しようと思う。
 今回は1999年12月25日から5日間,ラブキン(M.Rabkin)教授に当地で医療界の重要な職に就かれている14名の方とそれぞれ1-2時間のインタビューの予約をとってもらった。彼はハーバード大学医学部教授で,マサチューセッツ総合病院(MGH)で内分泌学のフェローを終え,専門医として働くうちに管理能力を高く評価されて院長に抜擢され,以後30年にもわたりBIH(Beth Israel Hospital)の院長をされた米国でも一流の病院管理の専門家である。
 今回インタビューした方のうち3分の2の方は,私が長年親しくしていた友人であるが,その他の方はラブキン教授の示唆をいただいてお目にかかった方々である。
 実際,米国の教育,研究,医療,看護のトップに立っている専門家と1時間も話すと,現在の米国において何が問題となっているのか,そしてそれが将来どのように変貌をとげていくのであろうかということがよく洞察できる。米国の医学や看護のトップにある人たちの考えは日本より10年くらい先をいっているので,これから先の10年の見通しがつき,それは日本の現状より20年先のことになり,私が日本に帰ってからの長期の将来計画を立てるのに非常に参考になる。
 米国の病院の統合やマネジドケア(HMOという民間の健康保険団体の圧力による保険報酬の過度の抑制によるもの),政府のメディケア(政府の老人保険医療費)の予算カットなどによる米国医療の混乱の実態を知ることは,一面では日本がそれを避けるためにはどうすればよいかという「前車の轍を踏まず」という教訓になる。
 しかし,医療のレベル,ことに教育のレベル(医学と卒後教育)の差には歴然としたものがあるといわざるを得ないので,以下の情報を,大学や病院の研究・教育者にも,また一般臨床家にもぜひお伝えして,参考にしてほしいと思う。

1999年12月25日(土)・第1日目

出雲正剛教授との再会

 成田を午後1時半に発ち,同じ日付の午前7時半にボストン空港に着いた。機上でコートを着用せずに日本を飛び出したことに気づく。私にとっては国内旅行も国外旅行もあまり変わらない心境なので,こんなこともあろうかと自分で思った。
 ボストンのローガン国際空港には,ハーバード大学医学部内科(循環器)教授の出雲正剛(東大昭和53年卒)夫妻が私を迎えてくれた。出雲教授とは22年前,私が理事長をしている(財)ライフ・プランニング・センターから,ハーバード大学での留学のスカラシップを彼に出して以来の間柄である。
 彼からはその1年後に,「東大とハーバード大学医学部卒業時の医学生の臨床能力の比較」というテーマで報告書を提出してもらった。その報告によると,基礎医学,ことに病理学のレベルは東大のほうが高いが,臨床能力ははるかに低いということであった。彼はこの事実に発奮して,次々と内科のレジデント・フェローの地位を得て,いまは米国の循環器学の分野で分子生物学を使った研究で非常に高く評価されており,NIHのグラントの論文審査の有力なメンバーともなっている。
 出雲君は早速,私がコートもなしで出てきたのを見て,自分のコートを脱いで,私に1週間貸してくれることになった。日中のボストンの気温は0~5度である。
 今年は例年のような深い雪はなく,比較的暖かいとのこと。Public Garden公園の前のホテル,Four Seasonまで車で送ってもらった。
 機内では原稿などを書いていてほとんど眠っていなかったので,ホテルで2時間ほど仮眠した。

李啓充助教授との邂逅

 午後,京大出身(昭和55年卒)で,同年卒の夫人と結婚,現在マサチューセッツ総合病院(MGH)で骨代謝を研究中の李啓充先生(ハーバード大学助教授)が私に会いに夫妻でホテルへ来られたので,日曜日の午後にもかかわらず,MGHの内分泌学研究所を見学させてほしいと頼んだ。
 『市場原理に揺れるアメリカの医療』(医学書院刊)の著者である李先生は,本紙でその続編となる長期連載「アメリカ医療の光と影」を執筆しておられ,専門の研究の他に,米国の医療システムの実態(マネージド・ケアや医療ミスなど)を正確に日本の医療界に紹介してこられた広い学識を備えた研究者であり,指揮者の小澤征爾氏とともにボストンレッドソックスの大ファンとのことである。
 また,まゆみ夫人はボストン大学の公衆衛生大学院で研究中で,本紙『医学生・研修医版』の連載「MGHのクリニカル・クラークシップ」の筆者である。

MGHの内分泌学教室

 李先生は,MGHの古い建物の中にある,約50人の研究員がいる内分泌研究室に案内して下さったが,クリスマスの,しかも土曜日なのに日本からの研究生が2人も実験していたのを目にした。この研究所は,甲状腺の研究については世界のメッカであるが,この研究室はその創設者の故フーラー・オーブライト(F.Albright)教授(1900~69)の大きな夢のもとに始められたとのこと。李先生はこの研究所の入口にある偉大な夢多き研究者の肖像を見せながら,彼の生涯の大要を話してくれた。
 私はとっさに京都大学医学部内科教授から総長になられた内分泌学者井村裕夫先生が,総長在職中に出版された『生命のメッセンジャーに魅せられた人々:内分泌学の潮流』(羊土社)の最後の章「海図のない海」の中に紹介されたオーブライトの素晴らしい発想の数々をを思い出し,この研究者について詳しい話を聞かせてもらった。
 李先生は京大では呼吸器学や癌の研究をしつつ臨床に携わっていたが,米国留学を決意して9年前に渡米された。米国での医師免許がないので研究室に飛び込み,現在は副甲状腺ホルモン関連のペプチドと呼ばれる物質の生理的作用,特に内軟骨性骨化制御(Regulation rate of cartilage differentiation and Parathyroid hormonrelated protein)というテーマで研究を続けておられ,広い内分泌研究室から少し離れたところに先生専用の研究室が与えられていた。
 アメリカ独立戦争の6年後,1782年に創設されたという歴史を持つMGHは,古い建物と新しい建物が混ざり合っているが,古いものの中には,かの有名なEatherホール(エーテル麻酔による手術が世界で初めて行なわれた手術室)はそのまま保存されている。古い建物は廊下がとても狭く,迷路のようになっているところもある。しかし,外来部門は比較的新しく,また病棟部門は高層になっていて,展望のよい上層階にはVIPのための広々とした個室が設けられている。
 李先生から,1996年8月20日号の“Science”に発表された先生の研究の別冊をいただいたのでホテルに戻ってから熟読した。

わが国初の電解質代謝の著作『水と電解質の臨床』

 私は循環器病学を専攻する京大第3内科(真下俊一教授)出身であるが,日米講和条約が締結された年の昭和26年(1951年)からジョージア州アトランタ市のエモリー大学に1か年留学した。当時は,循環器病学よりも電解質代謝と甲状腺ホルモン(当時は蛋白結合ヨード:PBI)の測定に関心を持っており,帰国後は日本で最初に米国製のBaird式Frame photometerとPBI測定用の機器を聖路加国際病院に持ち帰った。早速レジデントに電解質代謝を講義して,日本で最初の『水と電解質の臨床』という本を出版した(医学書院,1955)。
 当時,私は腎臓病学にも電解質を通じて興味を持ち,腎尿細管アシドーシスの治療にアルカリ剤を用いる治療法にも関心を持ったが,この治療を始めたのがオーブライト教授であったことを後に知った。
 私は帰国後も甲状腺疾患と心臓病の関係に興味を持ち続け,1959年にはMGHで甲状腺と副甲状腺疾患の臨床の権威であった内科教授のミーンズ(J.Means)先生を現役退官直後に3か月間聖路加に迎えた。当時,日本にはめずらしいと言われていた亜急性甲状腺炎の症例を,私たちは先生の指導で数例見出すことができた。
 その時,副甲状腺ホルモンの過剰分泌の患者を発見する方法を教えていただいた。そのような事情から,私は内分泌学専攻ではないが,甲状腺と副甲状腺ホルモンの代謝には今でも強い関心を持っている。
 そのようなことが私の頭の中に絵のように思い出され,オーブライト先生の肖像の前を去りがたい思いで暫し佇(たたず)んでいた。

井村裕夫先生が描くオーブライト先生

 ちなみに,井村先生はオーブライトの孫弟子になる内分泌専門家の指導を受け,オーブライトには強い関心を持って上述の本を書かれた。このオーブライト教授が副甲状腺疾患を中心に研究を始められてから10年の間に,井村先生の表現では「まさに天才の業としか言いようがない」というように,彼は海図のない海をフルスピードで前進されたが,重いパーキンソン病のために研究は中断される。
 オーブライト教授はビタミン抵抗性くる病へのビタミンDの大量療法や,閉経後骨粗鬆症に対してエストロジェンの有用性を示唆され,マッキュン=オーブライト症候群の記載,プロジェストロンとエストロジェンの併用が避妊薬になることの示唆など,その発想は多岐にわたった。しかし,前期のように若い時にかかった脳炎の後遺症によるパーキンソン病のため,わずか10年で現場での研究は終わったのである。
 私が戦後8年(1953年)して出会った世界的臨床循環器学の大家,ホワイト(Paul White)教授も,ミーンズ教授と同時代にこのMGHで働いていたこともあって,ハーバード大学関連のこの総合病院は,私にとっては印象深い病院なのである。
 この施設には,プライマリケア医学の父といわれるストックル(J.Stoekle)教授が今も外来診療を続けておられるが,ストックル先生とのインタビューの記事は後述する。夕食は李夫妻の招きでケンブリッジの下町の中華飯店でご馳走になりながら,米国の医学教育やマネジドケアについて話し合った。

(編集部注;日野原氏の前回のご寄稿は「短期集中連載-激変するアメリカ合衆国医療事情」と題して第2288号,2290-2292号にわたって弊紙に掲載させていただいた)

ボストンに見る米国の医学,看護学,
ならびに医療事情の激しい動き

〔第1回〕ボストン再訪(本号掲載)
〔第2回〕ベス・イスラエル・ディーコネス・メディカルセンターについて/ハーバード大学,MGH(マサチューセッツ総合病院)にて(第2394号)
〔第3回〕MGH(マサチューセッツ総合病院)にて(続)(第2395号)
〔第4回〕MGH Institute of Health Profession訪問/問われる米国の病院の看護(第2396号)
〔第5回〕Shapiro教育研究センターに見る米国の医学教育/ハーバード大学における医学生のための「予防医学,栄養学,外来でのプライマリ・ケア」(その(1))(第2397号)
〔第6回〕ハーバード大学における医学生のための「予防医学,栄養学,外来でのプライマリ・ケア」(その(2))/Shapiro外来棟クリニックにて/ボストン滞在最後の1日(第2399号)
〔第7回〕ミレニアムをまたいだ帰国の機上で考えたこと(第2400号)