医学界新聞

 

〔対談〕

医療文化の大革命

-医療過誤防止の歴史を拓く-

李 啓充氏
マサチューセッツ総合病院内分泌部門
ハーバード大学医学部助教授
森 功氏
医療法人医真会理事長
医真会八尾総合病院長


 「続発する医療事故……それは隠蔽されてきたもののかすかな表出にすぎないのではないか」社会の不信感にもはや遠慮は期待できない。失墜した医療への信頼を回復するために,医療界には真剣な対応が求められている。
 医療界のどこに問題があり,医療者は何をなすべきなのか。医療過誤防止をめぐり積極的な発言を続けるお2人に,その核心に迫っていただいた。


医療過誤をめぐる日本の状況

 医療過誤防止について考える時,まず自分たちの医療機関に,そして日本の医療界全体に,本当に患者の安全を守ろうという組織文化があるのか,というところから問わなくてはなりません。例えば,確認をする,報告をする,つまり,「正しいことを正しく行なう」,ということが逐次できているのか。最近,公表されている一連の医療過誤のケースは,それができておらず,エラーは起こるべくして起こっている状況だと言えます。
 さらに,その状況を直視し,把握し,分析して,適切な対応策を講じていくという,正常なるプロセスが作用しないのが,日本医療界のもう1つの大きな問題となっています。

カルチャーを変える

 「組織文化」ということをおっしゃいましたが,この「カルチャー(文化)」という言葉は,1つの集団の構成員同士がお互いに期待し合う行動や思考のパターンと定義されます。これを変えない限り医療過誤はなくなりません。例えば,誰かがミスをする。ミスを報告したら怒られる。あるいは処罰を受ける。だから,隠してしまう。日本は隠す文化でずっとやってきました。ここから変えなくてはならないのです。
 ヒューストン市のハーマン病院は,ジゴキシンの過誤投与による乳児死亡事件以降,真摯に過誤防止に取り組んだことで知られています(註1)が,事件発生後どのように病院の体制を立て直したか,ということをテーマにした病院関係者による座談会がテレビ放映されました。そこでなされた皆の共通の主張が,「カルチャーを変えないと駄目だ」ということでした。
 例えば,看護婦が指示内容に疑問を持った時,医師に対して質問をするのは,米国でも,気がひけるところがあります。「医師に質問をして起こり得る最悪の事態とは何か」「自分が医師に怒鳴られることだけではないか」「それは患者さんに害が及ぶことと比べたら何でもないではないか」
 そこで,ある病棟では,医師が看護婦を怒鳴ったら,看護婦が皆でその医師を取り囲むというプロトコールを決めました。また,研修医たちに対して,例えば夜中の3時に看護婦から指示内容を確認する電話がきたら,必ず「ありがとう」と言うように徹底させたそうです。患者さんに害が及ぶことを防いでいるわけですから。これがカルチャーを変えないといけないという言葉の意味なのです。
 医療過誤防止の方策としてよくとられる,院内に過誤防止のスローガンを掲げたり,マニュアルを積み上げていくという手法だけでは,実は効果はあがりません。それまでの考え方や,リアクション,行動のパターンを根底から変えること,つまり医療文化の革命なくしては本当の意味での防止はできないのです。
 組織文化を含めて,安全文化をエンジニアリング(さまざまな因子を加えて,多面的に分析し対策を講ずること)することは,「クオリティ・コントロール(QC;品質管理)」,「トータル・クオリティ・マネジメント(TQM;全企業的品質管理)」などの言葉で,以前から産業界で行なわれています。代表的なのが航空会社や原子力発電所などで行なわれている工程管理の手法ですが,残念なことに医療界だけが孤島に取り残されているような状況です。
 今ご指摘のQCという方法論は,米国のW.E.デミングによって開発され,米国よりも日本の産業界で発展しました。それを見習った米国が逆輸入して,米国の産業界で大いに取り入れ,さらに,米国医療界が医療事故防止と医療の効率化へと応用していったのです。ところが,この連鎖の中で取り残されているのが,かわいそうなことに日本の医療界だけなんです(笑)。
 おっしゃる通りです。しかし厚生省もその点には気づいていて,飯塚悦功氏(東大教授・化学システム工学)らの大学研究グループ,および,建設,電話・通信,電装などの分野で十分にクオリティ・コントロールの実績がある企業,そして病院群の3者で,遅れ馳せながらも合同のプロジェクトを始めました。1-2年かけて医療界でどのようなQCができるかを検討します。日本でもやっと小さなパイロット実践が始まったのです。
 もちろん,これが一気に日本の医療界に広まるとは思えません。しかし,今回の診療報酬の改定も病院経営には非常に風当たりの強いものになり,現在9400ある病院が今後,いくつ残っていけるのかという雰囲気になっています。これからはTQMをしっかりやり,コストを下げると同時に質を上げ,それをオープンにするという21世紀の経営管理の原則を実際に自分たちで実践していかなければならなくなるでしょう。今は小さなパイロットに過ぎませんが,具体的な方向性として示されれば,これらの手法の導入が進む可能性はあると思います。

最大のがんは医局講座制

独善的診療が医療過誤の温床

 私はやはり,日本の医療文化における最大のがんは医局講座制にあると考えています。例えば,基礎的な研究をして業績を積んだ方が,臨床があまり得意ではなくとも臨床の教授になる。場合によっては,回診中にまったく口を聞かずに患者を診るような教授を見ながら若い医師が育っていく……。よいロールモデルを若い人に示さずに,日本の医療というものが何十年も続いてきたわけです。
 そこでどんなにゆがんだカルチャーができあがるかは,常識的に考えれば明らかなのですが……。
 医療の中では,患者は非常に弱い立場に置かれます。裸にさせられたり,体を触られたり,痛い思いをさせられたり……,これも皆,自分の健康を取り戻して元気になりたいと思うから我慢しているわけです。このあたりの感受性が医師に欠けていると,インフォームド・コンセントもできないし,医療過誤の温床とも言える独善的診療がまかり通ることになります。
 現状では,閉鎖的な医学部の中で,悪いロールモデルが拡大再生産されているように思えてなりません。
 医局講座制の打破は,大学紛争の頃から続く私のライフワークです(笑)。医局講座制の存在は,相互批判のない医療を生み,質の保証のない,非科学的な医療を野放しにしてきました。現在,各施設で行なわれている診療工程(産業界で用いられる「生産工程」という言葉を転用して,私たちは診療プロセスのことをこう呼ぶのですが)には,バラツキがあるばかりか,それらは無根拠に踏襲されている場合が多く,EBMとはほど遠いものが少なくありません。このような意味でもエラーは起こるべくして起こっているのです。

診療工程の検証が不可欠

 1995年に私たちは「医療事故調査会」を発足させました。これは日本で初めて生まれたピア・レビュー組織であり,かつメディカル・エラーの分析,防止活動を行なう団体で,医療過誤訴訟等で鑑定意見書を作成します。医療過誤訴訟では,医療専門家の診療作業結果を非専門家である原告が検証し,判断するということ自体に無理があり,大きなハンディキャップとなります。私たちはこのハンディキャップを補い,公平に裁判が進むように努めます。しかし残念ながら,私たちが鑑定をし,実際に裁判所で証言をする際に,きわめて偏った医学論争に持ちこもうとする(被告側の)大学教授らの主張に出会うことがあります。あるデータをもとにした鑑定を行なう場合でも,そのデータそのものがずさんである場合が少なくない。「これでは科学的根拠にならないのではないですか」その場でこう言わざるを得ないのです。
 一方,日常の診療現場では今後,経済的な圧力が強まってくることが予想されていますが,経済性を考えるがゆえに診療が偏り,大きな危険が発生する可能性があると言えます。例えば,今突然,DRG/PPS(診断群別定額支払い制)の導入を行なえば,巷における第一線の診療現場では大変ひどい医療内容が行なわれかねないのです。つまり,現状でも,いわゆる「投網型診療」や「すごろく診療」,「決めつけ診断」は蔓延していますが,それでもたくさんの検査をやることによって,ある程度のフィードバックはかかっているのです。ところが,DRG/PPSによって検査が抑制されれば,そのフィードバックがかからなくなり,誤診が急増する危険性があります。私たちが鑑定しているケースは,実はそういうことで過誤化しているものが多いのです。
 医療の質を下げずに,コストを抑制するためにも,まず巷で行なわれている診療工程そのものの検証が不可欠だと思います。
 このような現実をみると,医局講座制の弊害はさまざまに姿形を変えながら,生々しく出現しているという気がします。個別の対応では難しい。国家として何らかの対応が必要なのかもしれません。

まず被害者の救済を

 医療過誤訴訟の話が出ましたが,私自身は,医療過誤訴訟でしか医療過誤に遭われた患者や家族が救済措置を受けられない制度というのは根本から間違っていると思うのです。
 それは私も同感です。
 訴訟では,通常のコミュニケーションというものが断たれてしまいますし,被害者は加害者に対する怒りや恨みなどの気持ちを抱えながら,毎日過ごさなければならない。これはもう,本当に身体的障害以上に二次災害と言ってもいいぐらいの苦しみを与えているのです。一方,訴えられる側も,もし,自分は過誤はしていないと信じている場合には,非常に困難な状況に立たされてしまいます。
 米国のハーバード・メディカル・プラクティス・スタディの第3報は,ニューヨーク州の51病院で,3万件のカルテを調査したら,280件の医療過誤を見つけたというものです。その3万件の中で訴訟になっているのは50数例です。ところが,この医療過誤280例について訴訟になったのはわずか8例にすぎません。ですから実は,米国においても医療過誤訴訟というものが過誤にあった方の救済制度としてはまったく機能していないわけです。過誤の事実と関係のないところで訴訟という制度だけが空回りしているのです。

医療過誤=訴訟というイメージが弊害に

 だから,私は例えば,労災に準じる形で医療に事故はつきものという観点から,医療専門職だけでなく,一般市民が幅広く入った公平中立な委員会を作り,医療事故認定制度とか,医療事故救済制度等の形で,まず,救済を考えるべきだと思います。それでも納得できない方には,訴訟に訴えていただけばよいのではないでしょうか。
 医療過誤=訴訟というイメージが,患者や医療者の側にある限り,医療過誤についてのデータはなかなかオープンにならず,実効性のある対策を打ち出すのは難しいのです。
 また,もう1つ重要な点があります。これは日米で最も異なることなのですが,日本では医療過誤が「犯罪」として扱われるということです。警察が介入し,書類送検する。書類送検すると,一件落着みたいな形でマスコミも収まってしまう。実はこれは非常に奇妙なことです。4000年前のハムラビ法典には「医療過誤をしたら,医師の両手を切ってしまえ」と記されていますが,同じ思想でやっているように思えます。間違いを犯した人たちが悪い人で,それを処罰する。そうすればいい人だけ残るから,過誤は防げるという思想なのでしょうが,そのようなことはあり得ません。
 先ほど紹介しましたハーマン病院の座談会では,ピア・レビューによりその事故が起こった過程を皆で詳細に分析しました。印象的だったのが,皆がその過誤について,「It could be me.(私も同じことをしただろう。したかもしれない)」と思っているのです。過誤とは,多くの場合,そういうもので,個人を責めるということはまったく意味がありません。たまたま,そういう状況に身を置いたがために,過誤の当事者になってしまうということが非常に多いと私は思います。処罰主義では,医療過誤はいつまでもたってもなくなりません。
 ご指摘の通り,現在,医療事故の裁判期間は一審で3-5年という長時間を要しており,まさに第2の被害と言っていいと思います。加藤良夫氏(医療事故情報センター理事長・弁護士)らのグループが提唱している救済制度というのも,李先生がおっしゃったように,過誤云々に関わらず,「まず被害者の救済を」というものです。
 日本が成熟した文明国であるならば,医療過誤の救済制度は21世紀には必ず備えるべきものだと思います。現にスウェーデンでは医療被害の救済が理由の如何を問わずに行なわれています。
 また,現在の医療裁判に関わっていて,一番不毛に感じるのは,裁判の結果,医療者が敗訴に至ったとしても,その後の医療の品質保証には何の改善もないのです。裁判が終わってしまえば,医療者は早くそのことを忘れてしまいたい。再教育・再訓練をするとか,ハーマン病院のように,それを組織の中で生かしてずっと後々まで検証を重ねていくなどという気持ちはまったくないのです。そんなことをいくら積み重ねても,質も上がらなければ,エラーもなくなりません。やはり,裁判という仕組みの中で医療過誤の問題を取り扱うこと自体に無理があるのです。

医療者として何をなすべきか

 米国ではJCAHO(医療施設評価合同委員会)の存在に象徴されるように,ある一定の品質保証レベルは維持されてきました(図参照)。ところが,日本では1951年に医薬分業をしなくてよいという医薬分業法を制定して以降,薬価差益依存体質が醸成され,金満体質がはびこってきました。医局講座制の存在と相まって,表の品質を考えない代わりに,裏のエラーも考えないという体質ができあがってしまったのです。この過去50年の国家的怠慢のつけを払うのは容易ではありません。

図 日米における医療の品質保証(作成:森功氏)
 米 国日 本
品質保証1952年JCAHO・医薬分業の成立
(以後品質保証が発展)
1951年医薬分業をしないことを認める医薬分業法が成立(以後,品質保証欠如,差益依存体質の育成)
免許更新1970年代 5年に1度
現在 2年に1度
なし
専門医制1970年代確立形式上のみ 実質評価なし
危機管理1980年代普及 コスト削減のためなし
エラー管理1997年 リサーチ・クオリティ法の成立と保健省内のリサーチ・クオリテリィ庁の設置警告のみ

透明性と説明責任

 米国では,JCAHOの審査を通らなければメディケア(米国の公的老人医療保険)の適用が受けられず,病院経営がなりたたない。つまり,JCAHOによる第三者評価は医療の品質を維持するために,一種の強制力を持っているのです。これが,日本の医療機能評価機構による第3者評価との根本的な違いです。
 JCAHOの前身となる組織は1910年代の後半にマサチューセッツ総合病院の医師アーネスト・コドマン(註2)によって作られました。当時の米国医療界は非常に権威主義的であり,医師はミスをしないという無謬主義がはびこっていました。コドマンはそれに対して,一生をかけて孤独な戦いを挑んだのです。彼は自分がやっていることは本当に患者さんの役に立つのかを自己検証し続け,自らの設立した病院で行なわれた診療については,手術ミスなども含めすべての情報を整理・管理し,しかも開示したのです。
 先日,ジョージ・アナス氏(ボストン大学公衆衛生大学院教授・医療倫理学者・法学者,『患者の権利』の著者として知られる)と話をした時,彼は「これからの医療のグローバル・スタンダードはトランスペアレンシー(透明性)とアカウンタビリティ(説明責任)だ」と言っていて強い共感を覚えましたが,コドマンが実践したのはまさにそのことなのです。そして,この2つの原則が日本の医療文化に一番欠けていることではないでしょうか。残念ながら。
 トランスペアレンシーとアカウンタビリティ,そのどちらも負うのが嫌なのですね。それが日本では医師の「裁量権」と呼ばれているような気がしてなりません。
 冗談みたいな話として申しますが,私たち八尾市の医師会長選挙が先日ありまして,医師会が創設されてからこれまで一度も選挙が行なわれてこなかったのですが,今回私が立ちまして無理やり選挙させたわけです。21世紀の八尾市の医療はこうあるべしという主張をまとめ,全医師会員に配り,自分のホームページにも載せました。実は,その時に私が主張したのが,「カルテの記載法などの統一」,「医師の診療内容の信任評価」,「事故・未遂事故・過誤事例の収集,分析,対応と開示」さらに3-5年に1度医師会として自発的に行なう「医師免許更新制度」などでした。結果,38対203票で負けましたが,38票を獲得したことには感激しました(笑)。
 誰かがこの時期にこういう声を上げておかなくては,との思いからでした。誰も何も考えなかったというのではあまりにもさびしく,子孫にそれを示せません。

医療のプロセスを患者さんと共有すること

 ところで,私たちは日本のあり方を変えていくためには,地域の中で医療に関する,住民の新しい文化を作り上げていくことが必要だと感じ,その1つの試みとして,健常者の「病院ツアー」というものを行なっています。八尾地域の健常者に来ていただいて,病院とは一体何をしているところかということをお見せしているのです。そこでは,診療手帳というものをお渡しし,それを1つのツールにして,「あなたの健康状態をあなたご自身で管理しましょう」という話をしています。「病院にいらした際には,診療内容を私たちがそれに書きます。もちろん,わかりやすく書くつもりですし,わからなければ必ず説明をしますから聞いてください」,「診断と検査,検査に至った過程,そして,治療方針と治療内容などを書きますから,ご自分で管理してください」と。これは2-3年前から始めたものですが,すでに完全に習慣化しました。患者さんはまずその診療手帳を出してから,「実はきょうは熱があるんです」と始まるわけです。
 ご帰宅された後も,自分で診療内容を確認することができます。「私は風邪だと思ったら,医師は気管支肺炎と考えておった」ということになる。そこにはちょっと,「胸に音が聞こえる」というようなことが書いてあり,「これは旅行するのをやめておこうか」ということになりますよね。もう1度,自分で確認することになるわけです。
 今のお話と通じるものがあると思いますが,先日,日本看護協会の方から,例えば投薬を1日に2回,15mgずつすることを忘れてしまい,そのミスを取り繕うために1回で30mgを投薬してしまうケースが多いという話を聞きました。その時「なぜ,患者さんに投薬の予定表を渡しておかないのでしょうか」という話をしました。患者さんは,予定時間に投薬がなかったら必ずそう訴えるでしょう。
 そういう形で患者さんにもっと手伝っていただく,医療のプロセスにもっと参加していただくことが大切なのです。すると,医療の質がよくなるし,当然のことながら,いろいろな事故も減っていくはずです。

医療者の責任が問われている

 そのような意味でもインフォームド・コンセントの重要性はいくら強調してもしすぎることはありません。一部にインフォームド・コンセントを訴訟逃れの書式だと思っている人がいますが,とんでもないことです。インフォームド・コンセントというのは,医師と患者が治療のゴールを共有して,そのゴールに向けて治療プランを共同して作っていくプロセスなのです。結局,これは診療をガラス張りにすることにもなりますから,トランスペアレンシーとアカウンタビリティを実践していることにもなります。
 インフォームド・コンセントという言葉の代わりに,最近米国では,「シェアド・ディシジョン」という言葉が流行っていますが,共に歩むプロセスだということが強調されています。医療に対する不信を解消していくための努力はここから始めないといけないのではないでしょうか。
 日本で最も欠けている部分ですね。日本でインフォームド・コンセントと言っても,内容の90%は誘導型説明で,本来のそれではありません。裁判の場でも,私ども一応調査会としては,かくかくしかじかのものを持ってインフォームド・コンセントとするという定義から始めなければならないという状況です。
 私は21世紀においてはこの日本でも,患者さんの満足度なども含めて,診療そのものの質をトータルに,自分たちの責任において保証していかなくてはならないと考えています。そして,それは常に誰に対しても,医療の中身をオープンに示すことができるという環境整備が前提にあると思います。
 情報開示の法律1つ作れない日本の医療界にあっては,これらのことは建前や理想論の域を出ていないのが現状ですが,私たちは,現場において個々の具体的な課題を1つひとつつぶしていく以外にないと思って取り組んでいます。そのためにも,まず,事故(未遂・既遂)情報を収集しなければなりません。日常診療の事故情報を誰かが責任を持って集めて分析するという役をやらないといけない。だから私たちはまず監査機構(関連記事)を作りました。ここが出発点です。今後,年々医療現場の質をどこまで改善できるのかということを報告していきたいと思っています。今,医療者は医療の質を確保するための具体的な作業を,自分たちの状況に合わせて,しっかりと設計し,実践できるかということを問われている時期にやってきているのではないでしょうか。
―――ありがとうございました。


註1:李啓充氏による本紙連載「アメリカ医療の光と影」11-12回を参照(2353,2357号)
註2:同21-23回を参照(2375,2376,2378号)