医学界新聞

 

連載 MGHのクリニカル・クラークシップ

第7回

“First, Do No Harm”

田中まゆみ(ボストン大学公衆衛生大学院)


2376号よりつづく

“First, Do No Harm”

 医療は両刃の剣である。良かれと思ってしたことが,かえって裏目に出て,何もしないよりひどい事態を招いてしまったという経験を持たない医師はいないだろう。ヒポクラテスの誓いにあるこの言葉は“Above all, do no harm.”とも言い,医師の介入がかえって害を及ぼし得るとの自戒が込められており,医師として経験を重ねるほどにずっしりと重みを増す言葉である。
 教育病院での医療は検査・治療ともアグレッシブになりがちだが,MGH(マサチューセッツ総合病院)とても例外ではない(世界一アグレッシブという噂もある)。しかし,アグレッシブでありながら,いや,アグレッシブだからこそ,MGHの日常診療の中で最も引用されるヒポクラテスの誓いはこのせりふなのだ。最初に踏みとどまることが肝心であり,いったん走り出してしまうと次から次へと泥沼にのめりこみかねないからである(註1)。

「まず薬を疑え」

 Medical harm(医療被害)の中でも,クラークシップで最も強調されるのは薬の害である。問診では,患者のアレルギー歴について必ず詳しく尋ね,現在服用中の薬の名前と用量は全部聞き出さねばならない。幸い,アメリカの患者はほとんどが自分の飲んでいる薬の名前と用量を克明に記したメモを持ち歩いているので非常に助かる。患者の記憶があいまいなら,すぐ主治医や薬局に電話して情報を得なければならない〔患者の服薬歴情報を聞き漏らすのは業務上「過失」にあたる(註2)〕。
 鑑別診断の中でも,患者の症状が薬の副作用によるものである可能性は常に念頭に置かなければならない。筆者の実習中,口腔内浮腫をおこして舌が膨れ上がり,気道保護のため挿管されて緊急入院した患者がいたが,ACE阻害薬を開始して1か月もたってから突然起こった副作用であった。とにかく「まず薬を疑え」が合い言葉で,薬名の次に禁忌と副作用を覚えろと教えられているのかと思うぐらい,みんな薬の「ダークサイド」に詳しい。処方薬のTVコマーシャルでも副作用を(早口だが)並べ立てて流すお国柄だから,医師が「知らなかった」ではすまされないのだ。学生・研修医・教官のいかんを問わず,少しでも不確かなら,その場ですぐに電話帳ほどもある『PDR』(Physician's Desk Reference,医師の薬剤処方時のバイブル)をめくったり,コンピュータに向かったり(『PDR』の他,症状から検索できる薬剤の副作用情報CD-ROMが病棟や医局のコンピュータに搭載されている),薬局への照会電話をかけたりする。薬に関する疑問を見過ごしにすることは決して許されない。

“No one is perfect.”

 チームの中でも薬剤投与のミスにはみんなが目を光らせる。クラークシップ中の医学生は受け持ち患者の薬剤投与の指示も出すが,内容についてはインターンから綿密なチェックを受ける。学生だけでなくインターン同士でもお互いの指示をしつこいほど「ダブルチェック」し合う。決してあら探しをしているのではない。薬のミスは医療被害の中でも最多でしかも予防可能だから,関わる人すべてに注意義務があるのだ。
 薬の用量に少しでも疑問があると計算機で目の前で確認する。念を押されるほうはさすがに心おだやかではないが,場が気まずくなりそうだと,“Nothing personal.(あなたを個人的に信用してないわけじゃなくて,誰にでもすることだから気にしないで)”という言葉がよく使われる。「なぜ何度もチェックするんだ,信用できないのか」という態度の人がいるとチーム全体の風通しが悪くなり,患者にとっても危険な医療環境になる。チェックを受けるのは決して屈辱的なことではなく,お互いにチェックしあうシステムが患者により安全な医療を提供することに貢献しているのである。
 たとえミスを見つけても,鬼の首を取ったように言ったり,ミスを犯した者を問い詰めたり叱ったりする者はいない。淡々と,「これちょっと違うんじゃない?僕はこうだと思うんだけど,自分でも確認してみて」という具合にソフトに言う。指摘された側も,「本当だ。なぜこんなミスしたんだろう?あ,そうか,ここで間違えたのか。ありがとう,これからは気をつけます」と,見苦しくなく受け止める。
 “Don't point any fingers.(個人攻撃はいけない)” “No one is perfect.(ミスは誰にでもあることだから)”もよく聞くせりふである。ミスを指摘する側もされる側も洗練されていて刺々しさがない。

無謬主義,完璧主義の終焉

 実はアメリカで最近非常に問題になっているのが,医療従事者の「自分たちはプロだ,ミスはありえない」という特殊なプライドなのだ。1995年,ダナ・ファーバー癌研究所でおこった抗癌剤過剰投与事件(註3)が医療界(特にお膝元のハーバード関係者)に与えた衝撃の大きさは言葉では言い表せない。以来,続々と明るみに出る医療事故に,「医療ミスは医療の専門家である医療従事者が自力で問題解決できる」という医療側の弁明が説得力を失い,医療現場にも「品質検査」「危機管理」「人的要因」等の専門家が出入りして調査することが普通になった。
 その結果,一般工場や航空機操縦システム,原子力発電所,宇宙工学などと同様の「フェイル・セーフ」理論が導入され,「ミスは起こるものという前提で二重三重のチェックシステムを整備する」「個人を責めてもミスはなくならず,むしろミスを隠そうとする傾向を助長するため類似の事故を防止する機会を逃すことになる。ミスを報告しても報告者を責めないような雰囲気を作ることが大切」という論法で,“Double check(1人に任せず複数でチェックする)”,“Blame free(ミスをしても咎めない)”が医療事故防止の合い言葉になった。
 一見逆説的に響くが,個人のミスを咎めないことがミスをなくすことにつながる,ということなのである。長い間アメリカの医療人が抱いていた,「我々は患者の命を預かっている。ミスは許されない。完璧でなければ」という誇りは打ち砕かれた。無謬主義,完璧主義の終焉である。
 一方で,コンピュータによる指示記録が急速に普及し,初歩的なミスはほとんど自動的にチェックされるようになった。ここ数年で,医療事故に関する現場の雰囲気は急速に改善して開放的になってきており,それを医学生や研修医も実感しているはずである。誰だってミスを犯したくはないし,わざとミスをする人もいない。それでもミスは誰にでも起こりうる。システムをガラス張りにしてダブルチェック制度などでミスを防ごうとしている雰囲気は,個人の完璧主義に頼る閉鎖性がなく,患者にとっても安心できるものと言えよう。
 「でも,事故は必ず起こる,なんて言ったら患者は不安がらないか。怒り出す患者もいるかもしれない」「それでも事故が起こってしまったら患者にどう説明するのか」という疑問を抱かれるかもしれない。次回からは患者への対応について実例をまじえて述べよう。

註1:ある教官はこれを「タール・ベイビー症候群」と呼んでいた。よちよち歩きの赤ん坊が転んで右手をタールに突っ込んでしまった。あわてて抜こうとするがもちろん抜けるはずがない。そこで左手で踏ん張って右手を抜こうとするが,左手もタールまみれになってしまう。今度はエイッと右足を踏ん張って……じたばたするうちに左足も……パニックになってついには頭もタールに突っ込んでしまう,という話であるが,治療に合併症が併発し,その合併症に対する処置が次の合併症を生じ,次々と悪循環に陥ってしまう危険性を述べている。
註2:医療被害は,「一定の確率で起こる,避けられない事故(いかに医学的に最善を尽くしていても予測しえない事態)」と,「過失(negligence)による事故(注意義務違反などによって起こった,防ぎ得た事故)」の2つに大きく分けられる。第1のカテゴリーに対しては,患者に,他の選択肢も示した上で,起こり得る危険性についてよく説明してあり(インフォームド・コンセント),医学的に過失がなかったという証明ができれば,医療者の罪は問われない。ただし,第1のカテゴリーについても,起こってからの処置に明らかなミスがあれば第2のカテゴリーに入る。
註3:1994年12月,ダナ・ファーバー癌研究所で,抗癌剤の治験中の患者の1人が死亡し,1人が重症心不全に陥った。翌年2月,治験データを整理していた事務員が4倍も過剰投与していたミスに気づき,すぐに病院幹部が患者・家族・遺族に説明し謝罪した。調査委員会が設置され,2年次フェロー(一般内科研修を終了した専門科研修医)が指示した薬用量に薬剤師がいったんは疑問を呈してストップをかけたのだが,プロトコールの記載が1クール量か1回量かあやふやだったため,「大量投与の臨床治験だからこんなに大量に投与するのだろう」とそのまま投与してしまったということがわかった。世界でも最高水準の癌研究所でおきたこの医療事故とその後の対応・調査の徹底ぶりは,「ダナ・ファーバー事件」として今や医療事故のモデルとなった観がある。