医学界新聞

 

連載
アメリカ医療の光と影(23)

医療過誤防止事始め(17)

李 啓充 (マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学助教授)


 これまで,医療過誤をいかに防止するかについて米国の事例を紹介しながら考案してきたが,結論を言うと「医療過誤そのものを防止する早道」というものは存在しない。医療過誤を防ぐ努力とは,日常の臨床の質をいかにして向上させるかという不断の努力に他ならないからであり,このことは,米国の病院で医療過誤防止を担当する業務(部門)がcontinuous quality improvementと呼ばれていることにも明瞭に現れている(ちなみに,リスクマネジメントは,正確には医療「訴訟」対策を担当する)。コドマンが「エンド・リザルト」の考えを唱えたのは100年近く前であるが,彼の思想の中で,医療過誤の防止と医療の質の改善とが同義のものとして扱われていることは前回(2376号)述べたとおりである。

没後60年を経て実を結んだコドマンの思想

 コドマンが種を蒔いたエンド・リザルト思想は,彼が1940年に没した後,さまざまな形で大きな実を結ぶこととなった。
 例えば,現在米国の医療機関審査を行なっている医療施設評価合同委員会(JCAHO)は,コドマンが米外科学会内に創設した「病院標準化委員会」が母体となって1952年に設立されたものであり,コドマンはJCAHOの産みの親であると言っても過言ではない。また,ある医療行為の結果が本当に利益をもたらしたかどうかを調べる研究は「アウトカム・リサーチ」として現在大流行しているが,99年に成立した医療リサーチ・クオリティ法(2374号参照)の主目的はアウトカム・リサーチを推進して医療の質を向上させることにあり,コドマンのエンド・リザルト思想が最新の法律として結実した形となっている。

アカウンタビリティと情報開示

 コドマンの数々の業績の中でも,とりわけ特筆すべきことは,「社会に対する医療のアカウンタビリティ」を彼が厳しく認識していたということである。
 アカウンタビリティという英語は,自分のやっていることが正しいと説明できるかどうかという意味で使われるが,医療過誤に対する社会批判の高まりは「医療サービスの質」についての医療側のアカウンタビリティを問うものであり,マネジドケアが診療内容に介入するようになったのは「医療資財の使い方」に対する医療側のアカウンタビリティが問われた結果といってよい。
 アカウンタブルであろうとすれば,自分たちがやっていることについての情報の開示が必須となることは言うまでもなく,コドマンが,1世紀近くも前に,自らの失敗例を含む自病院のデータを率先して公開していた事実には驚倒せざるを得ない。

権威主義と闘ったドンキホーテ

 コドマンは「現れるのが早過ぎた」とよく言われるが,先駆者として「早過ぎた」ことの苦難を味わうこととなったのは彼の場合も例外ではない。
 1914年には,頑としてエンド・リザルト制を入れようとしないMGHに絶望し,MGH外科を辞している。コドマンの時代,ハーバード大学医学部もMGHも権威主義と年功序列制により運営されていたが,エンド・リザルト思想の立場からは,権威主義・年功制は患者に害をなすだけの存在でしかなかった。証拠によらない権威で患者を丸め込み,不必要・有害な医療を施すなど「いかさま」でしかないというのがコドマンの思いであった。
 エンド・リザルト制の実践をめざすコドマンが,ハーバード,MGHに代表される既製医療にあからさまな闘いを挑んだのは1915年1月8日のことである。この日,彼は,サフォーク郡医師連盟外科分科会会長として「病院の効率に関する討議会」を開催した。少しでも参加者を増やそうと,ボストン市長ジェームズ・カーリーなどを講演者として招いていた。

 予定の演者の講演が終わった後,コドマンが壇上に立ち,画家フィリップ・ヘイルの手になる戯画を公開した。絵の中央には頭を地面に埋め,自らが産んだ黄金の卵を蹴り出すダチョウが描かれていた。蹴り出された黄金の卵を争って手に入れようとしているのはボストンの医師たちである。ダチョウの背後では,MGHの理事たちが「患者についての真実を教えた後も,あのダチョウは卵を産み続けると思うか?」と話し合い,ハーバードのロウェル学長は「臨床の真実と科学としての医学は相いれないのではないか?いかさまなしでハーバード医学部の臨床教授が生計を立てることなどできるだろうか?」と語らされている。地面に頭を埋めたダチョウは「思い切って探す勇気があれば,私の病気を治してくれる医者が見つかるかも知れない」と語っているが,黄金の卵を産むダチョウが患者の象徴であることは言うまでもない。
 既製の医療を「いかさま」扱いしたコドマンの戯画は,ボストン医療界を怒らせ,コドマンは医師連盟分科会長の職を解かれた上に,ハーバード大学医学部講師の肩書きも剥奪されることとなった。コドマンの病院を手伝う医師もいなくなり,ピンクニー通り15番地の病院は1918年に閉鎖された。
 晩年になって,コドマンは自らをドン・キホーテにたとえている。「重要なのは自分の教師ではなく,生徒に認められることであることを悟りもせず,旧世代の意見を相手にするのに多大の時間を無駄にした」ことを悔いてはいるが,「私の信念は3世代,4世代後に真実と受け入れられると信じ,その信念のために一生懸命働いたから幸福だった」と語っている。

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 エンド・リザルト病院跡の建物から煉瓦造りの家々とガス灯が立ち並ぶピンクニー通りを西に真っ直ぐ200メートル歩き,最初の角を右に曲がると,坂道の終わりにMGHのブルフィンチ棟とエーテル・ドームが見下ろされる。自分の理想の実践をかけたエンド・リザルト病院と,自分の理想を受け入れることを拒んだ権威主義の象徴MGHとの間を行き来するために,コドマンは何度この道を往復したことだろう。コドマンは3世代,4世代後には自分の信念が真実と受け入れられると信じてやまなかった。私たちの世代こそコドマンが期待した世代に他ならないが,私たちが現在行なっている医療を見た時,コドマンは果たして何と言うのだろうか。

(この項終わり)