医学界新聞

 

連載
アメリカ医療の光と影(20)

医療過誤防止事始め(14)

李 啓充 (マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学助教授)


国レベルでの情報収集が不可欠

 医療過誤を防止するためには,過誤の情報を集積・分析するという「誤りから学ぶ」操作が不可欠となるのであるが,この操作を個別医療機関の自助努力だけに限定する場合,数を集めて効率的な情報集積を行なうことなど望み得ない。真剣に医療過誤を防止したいと思うのであれば,国レベルで医療過誤の情報収集を行なうことが必須要件となるのである。
 95年に医療施設評価合同委員会(JCAHO)が始めた警鐘的事例制度は,米医療史上初めて国レベルでの情報収集を目的とする制度が実施されたという意味で特筆に値する。JCAHOの警鐘的事例制度では情報収集を行なうことが大前提であるから,「処罰されるという恐怖感から医療者を解き放った上で自己申告を促さなければならない」という考えがその根幹に据えられている。
 これに対し,99年7月,米保健省総査察官ジューン・ギブス・ブラウンは,「JCAHOの警鐘的事例制度は,医療過誤事例の情報を未公開にするなど医療機関に対してきわめて生温い制度である」とこれを厳しく批判する報告書を発表した。「過誤に対し厳罰で臨む姿勢こそ情報隠蔽を奨励し逆効果」という警鐘的事例の根底にある原則とは裏腹に,社会一般は「間違いを犯した病院や医療者は厳しく処罰されて当然」という感情を抱いていることを強く思い知らせたのであった。

「To err is human,but……」

 JCAHOの警鐘的事例制度にはさまざまな批判があるものの,国を上げて医療過誤防止策に取り組もうという米国の動きは,ますます真剣なものとなっている。
 特に,99年11月末に米科学アカデミー医学研究所が医療過誤について発表した「To Err is Human」と題する報告書は,全米に大きな衝撃を与えた。米国全体で毎年4万4千-9万8千人の入院患者が医療過誤で死亡しているとし,病院入院中に医療者の誤りが原因となって死ぬ確率のほうが,交通事故(4万3千人)や,乳癌(4万2千人)や,AIDS(1万7千人)で死ぬ確率よりも高いと発表したのである。米科学アカデミーは,5年間に少なくとも50%以上医療過誤を減らすことを目的として,以下の医療過誤防止策を実施することを米議会に提言している。
(1)米保健省に「患者安全センター」を新設し,医療過誤の情報収集と防止策構築に当たらせる。同センター運営には毎年1億ドルの予算が必要となると予測されるが,医療過誤の結果生じるコスト90億ドルに比べれば,微々たるものである
(2)死亡,重大な傷害が生じた医療過誤については,州当局に対する報告を義務づけ,その情報を公開する(現在でも20の州で報告義務が課されている)
(3)重大な結果を生じなかった過誤(ニアミス)については情報の「秘密」を守り,医師・病院からの報告を奨励する

 米科学アカデミーの報告書は「To err is human, but errors can be prevented.」と,医療者も人間である以上誤りをおこすことは避け得ないが,過誤を防止することは可能だと結ばれている。そして,過誤を防止するためには,医療界の「沈黙の文化」を変え,過誤について医療者がオープンに討議することが必要だと強調している。

医療過誤防止をめぐり政治的な動きが活発に

 米アカデミーの提言そのものには何ら法的拘束力はないが,政府に対し科学・技術に関する報告を行なうことは同アカデミーの義務として法律に定められており,同アカデミーの報告書は大きな政治的影響を与えるのが常となっている。エドワード・ケネディ上院議員(民主党)が,同アカデミーの提言の実施を可能とする法案を即刻議会に提出すると表明したように,議会・ホワイトハウスが医療過誤防止に向けてドラスティックな政治的方策を採る可能性が現実味を帯びてきたのである。
 実際,米科学アカデミーの報告に先立ち,米議会は11月に「医療リサーチ・クォリティ法」を成立させ,その中で,米保健省「医療ポリシー・リサーチ庁」を「医療リサーチ・クォリティ庁」に改め,医療過誤の原因分析と過誤防止策の構築に当たらせることを決めていた。12月初めに同法はクリントン大統領の署名を得て正式に法律となったが,その際に同大統領は,議会の動きを待つまでもなく,政府管掌の医療保健分野(連邦政府職員の医療保険,メディケア,メディケイド,復員軍人医療保険など)で米アカデミーの提言を可及的速やかに実施に移す方針を発表した。

VAにおける革命的施策

 実は大統領の指示以前に,復員軍人病院(Veterans Administration Hospital,以下VA。政府直営であるが,規模としては米国最大の「病院チェーン」となる)では,すでに97年6月から医療過誤の報告義務化を実施していた。99年12月に,報告義務化後19か月のデータが公表されたが,3千件の過誤報告があったとし,自主的報告に期待して運営されているJCAHOの,5年間で655例(99年10月末まで)という数字をVA病院群のみで大きく上回っている。さらに,3千例のうち死亡例は700例であったとし,医療過誤が高率に重大な結果を引き起こすことを再確認している。
 医療過誤についての情報収集を制度化する際に常に問題となるのは,「過誤情報を報告した結果,医療過誤訴訟に巻き込まれてはたまらない」という医療者の恐怖心である。今回の米科学アカデミーの提言について,米医師会前会長のナンシー・ディッキーは「安全性のカルチャーを語ることはできたとしても,われわれは未だに責めを負うという環境に生きている」と語ったが,彼女のこの言葉にも過誤訴訟に対する医療者の恐怖心が如実に現れている。
 しかし,最近は,医療過誤保険会社でさえも「ミスが明白な場合は患者に対して謝罪を含めできるだけ誠実に対応する」ことを医療者に勧めるようになっている(註1)。頑なにミスを認めまいとする姿勢は,患者・家族の怒りや不信感を強めて訴訟となる可能性を増大させるだけでなく,訴訟となった場合に陪審員の反感を買い巨額の懲罰的賠償金を課される結果にもつながりかねないからである。
 ちなみに,VAでは,98年1月から,すべての医療過誤について,患者・家族に事実を告げるだけでなく,賠償・訴訟などの被害救済制度についての説明を行なうことをも医療者に義務づけている。ケンタッキー州レキシントンのVA医療センターで,87年から「過誤の事実をありのままに患者・家族に告げる」という施策を実施してきたところ,他のVA病院と比べ医療過誤の賠償金は相対的に低くなったという結果(註2)が,医療過誤情報を進んで患者・家族に開示するという革命的ともいえるポリシーを実施する際のエビデンスとなったことは疑いを入れない。

註1:メディカル・エコノミクス,97年5月9日号
註2:アナルズ・オブ・インターナル・メディスン,99年12月21日号