医学界新聞

 

新春随想
2・0・0・0

ノーベル賞をいただいて

寺田朗子
(国境なき医師団会長)


 千年紀最後のノーベル平和賞は「国境なき医師団」(フランス語でMEDECINS SANS FRONTIERES;MSF)が受賞しました。その報を聞いたとき,真っ先に頭に浮かんだのはドクター・グザビエ・エマヌエリ(前MSFフランス名誉総裁,MSF創設以来多くの現場で活動を行なった)の静かで穏やかな笑顔でした。それから次に,「地球上のあらゆる場所でMSFのマークを胸に働いているボランティア,地元スタッフ,各国の事務所で仕事をしている人,その活動を後方から応援してきた人などたくさんの人が喜んでいるだろう。こんなに大勢の人で分かち合える賞は何てすばらしい」ということでした。日本にMSFの組織があって,そこに関わっていることはとても幸せなことだと思いました。

MSFのこころ

 今から31年前の1968年,フランスで,いわゆる「五月革命」と呼ばれる学生の大きな運動がありました(この時,私自身ちょうどフランスに留学していました)。この流れは日本でも安田講堂事件などにつながる大学紛争を引き起こしましたが,当時のフランスで医師たちの中にも意識の変化を生み,医師は病院で働くだけでなく,医学が人間にとってどういう影響を与えられるかを問い直そうというきっかけになりました。そして国内の医療の恩恵を受けられない人々や,世界の片隅に忘れられている途上国での医療に目を向けることになったのです。こうした状況の中,ビアフラの内戦に医療援助に出かけた医師たちと,東パキスタン(現在のバングラデシュ)の洪水に救援にかけつけた若き医師たちと,彼らを募った新聞の関係者たちが集まりました。そして「人はすべて医療を受ける権利を持ち,医療従事者はいかなる状況へも政治,思想,民族,宗教を超えてこの権利を奪われた人々に医療行為を行なうために出かけていくことが医療の原点である」として,民間の医療援助団体,「国境なき医師団」を1971年12月に設立したのでした。創始者の1人が先のドクター・グザビエ・エマヌエリですが,彼は「国境なき医師団は,いわば救急車の発想から生まれました。技術が進んで患者を病院で待つのではなく,患者の所へ病院を運ぶことができるようになった。それならそれをもっと拡大して,世界中の貧困にあえぐところや緊急医療を必要とするところにこちらから出向いて行こうとしたのです」と述べています。
 このグザビエは2回来日しています。その時聞いた話はとても印象深いものでした。低い声で穏やかにゆっくりと話すこの救急医療のベテランを見ながら,この人は現場でどんな熱っぽく厳しい表情で仕事をするのだろうと考えていました。以下はその時の話の一部です。
 『……私たちの原動力は他人を思いやるヒューマニズムの精神です。しかし始まりは必ずしもそうではありませんでした。1979年,カンボジア国境での体験が私にそのことを気づかせてくれたのです。連日の爆撃機の攻撃で,おびただしい数の負傷者がキャンプに担ぎこまれていました。私は仲間を指揮しながら,自分も負傷者の手当てにあたり,医師として充実したやりがいのある仕事をしているという高揚した満足感に浸っていたのです。
 そこへ1人のカンボジア人女性が運ばれてきました。腹部に被弾し,明らかに助からないと思われる状態で,手遅れだと誰もが思っていました。しかし,その時1人の医師が駆け寄り,彼女をひざの上に抱きあげ,優しく髪を撫でながら話しかけ始めたのです。おそらく彼女の知らない言葉で,しかし思いやりにあふれたやさしい言葉で彼は自分の気持を,彼女に対して持っているやさしい気持を話し続けたのでした。
 それを見て私は自分を恥じました。彼は彼女の命を救うことはできませんでしたが,心やすらかに死んでいく手助けをしたのです。医師としての仕事の効率ばかりを考えていた私は人間としての大切なことを忘れていたのでした。……』
 私にとっては彼が最初の「フィールドのMSF」でした。ですからノーベル賞受賞の報を聞いた時,まずグザビエのことを思い出したのです。蛇足ですが,この講演会の時,ネクタイを持って来ていなかったグザビエはどこかで700円の物を見つけ,それをしめていました。

現地への道

 彼は,フランスのシラク大統領のもと,人道援助大臣として入閣。今はMSFを離れましたが,グザビエのようにフィールドで活動をしているボランティアは世界中で昨年1年間に2800人を超えています。医療ボランティアとして参加するのには3つの条件があります。2年以上のキャリアがあること,6か月以上海外での仕事に従事できること(緊急の外科医など一部に例外はあります),派遣医師団は何か国かの人たちで構成されるので共通言語として英語かフランス語が話せること,です。初めての日本人医師として貫戸朋子さんが医師団に参加してくださったのは,1994年でした。スリランカのマドゥーのキャンプでした。それ以後23名の日本人ボランティアが全部で29回派遣されています。あるお医者さまが「先進的な機械があるわけではない。基本的な器具,道具で治療をする,ある意味で医療の原点です。自分の力を試されている気がします」と話してくださいました。日本の高い医療教育を受けられた医療関係者の方の中で,MSFの考え方に共感してボランティア参加を考えてくださる方が増えていくとうれしいと思います。
 そして,このようなボランティア参加についてはもう1つ問題があります。参加した後のことです。フランスでもこうしたボランティア活動が社会から評価をいただくのには10年くらいの年月がかかりました。日本でもこれはかなり大変なことと思いますが,少しずつでも,こうした方向に社会の目を向けていただけたらと思います。ことに医療に関わっていらっしゃる方々にお願いをしていきたいことです。
 日本の医学界の持つ大きなパワーを,願っているのに医療を受けられない人々のために,少しだけいいのです,分けていただけないでしょうか。そして分けることに力を貸してくださった方たちにその労をねぎらってくださる,そういう方向に社会が少しずつでも向かっていってくれないでしょうか。これが2000年への私たちの心からの祈りです。この新しい世紀に向け,こうしたお願いをしなくてもよい時,つまり国境なき医師団が必要とされない時が来るというのは夢でしょうか……。