医学界新聞

 

新春随想
2・0・0・0

癒しは医療が取り組むべき道か?

池田光穂
(熊本大学助教授・文学部)


 あけまして,おめでとうございます。
 さて,新春慶賀に免じて放談もかまわないという編集部の助けもあって,単刀直入に言わしていただく。
 それは,昨今流行している「癒し」ということのいかがわしさである。

癒しは近代医療の幻影のヒーロー

 まず歴史をチェックしておこう。日本では1980年代にアンドリュー・ワイルなどの海外の動向紹介を通してこの言葉とその概念が登場する。癒しは,近代医療の治療の特徴である要素還元的あるいは攻撃的治療に対抗する,全体論的もしくは調和的な治療を指し示す言葉であった。時はイヴァン・イリイチ『脱病院化社会』が馬鹿受けした時代である。自然治癒力という言葉と並んで,癒しは近代医療を批判する対抗的言説として華々しくデビューする。そのため癒しは,近代医療が予め到達することのできない領域における技術すなわちアートとして位置づけられた。癒しを追及する人たちがそのモデルとして求めたのは,シャーマンやヒポクラテスあるいはオスラーといった,どちらかと言えば神棚に奉っておけばよいような偉人がなせる技であった。
 それも技能者の身体や精神性と不可分なものとしての技芸なのである。癒しは,近代医療が持つ宿痾を退治するためにやってきた幻影のヒーローである。癒しが神秘的用語である起源はここにある。しかし皮肉なことが起こる。癒しを近代医療の批判として利用する人たちは,治療者の身体や全体性とは不可分の癒しを分節化可能な――つまり要素として還元できる――ものとして分析しはじめた。これは何を意味するのか?
 簡単である。癒しを近代医療の概念で説明するということだ。設問のあるところには答えがある。孤高で分解不能であった癒しというものが腑分けされ,その要素を再び組み立てられ怪しげなフランケンシュタインが作られた。それ以降,癒しは本来の道とは異なる堕落の道,つまり近代医療に奉仕する道を歩み始める。癒しは患者本来が望んでいるもの,あるいは医療者は病気の治療だけではなく,患者を癒さなければならない,といった素人芝居めいたスローガンが蔓延した。
 このような現象の弊害は,「近代医療者」ではなく――というのは,この医療体系は治療のためならあらゆることを試みて科学的にそれを裁定するという教条を旨とするからだ――癒しの概念の可能性と限界をきちんと見極めつつ公正な議論の俎上にあげようとしなかった「癒し派」と言うべき,近代医療批判論者や代替医療支持者にその罪がある。もちろん尻馬に乗り,ちゃっかり儲けた近代医療「従事者」もいる。

人間的な医療の実践と癒し

 実際問題として癒し概念の病根は深い。情けないことに,明日の医療を担う医学生もが,意味不明な「癒しの重要性」を叫ぶ時代になった。これでは医学は錬金術の時代に逆戻りしてしまう。医学教育の現場に立つ人は戦慄を覚えないわけにはいかない。
 癒しなどという意味不明な用語を弄する必要などない。近代啓蒙の精神が必死に説いてきた「人間的な医療の実践」という用語があるではないか。癒しを使わなくとも十分説明可能なのだ。「医療は骨の髄まで社会科学だ」と言うルドルフ・ウィルヒョウは,常識的には医療の社会的実践性を説いたと解説される。だがここでは,医学者は社会科学者たるセンスもまたしっかりと訓練される必要があり,教育者は論理的かつ批判的である科学の精神を持つ医学生を世に送りだすべきだという教示であると私は理解したい。
 癒し概念の変節の歴史を眺めると,軒を貸す近代医療もまたうかうかとはしておられないという屠蘇(=興)が冷める話で終わりそうだが,言い方を変えればそれは医療界に対する熱い声援であるということで,この小話を締めくくりたい。