医学界新聞

 

新春随想
2・0・0・0

始まった臓器移植

松田 暉
(大阪大学教授・第1外科)


 わが国でここ何年か「今年こそ移植元年」と言われ続けてきたが,昨年2月に待望の脳死からの臓器提供が実現し,心臓,肝臓,そして腎臓の移植が行なわれた。特に,高知県下での臓器提供とそれに続く心,肝の移植は全国固唾をのむ中で行なわれ,幸い円滑に実施,結果も順調であったことより移植医療への社会の理解も進み社会的支援も高まった。1968年の札幌医大での心臓移植以来,4半世紀を超えて閉ざされていた扉が一気に開かれた感じがした。提供された方の尊いご意思とご遺族の勇気ある決断に最大の敬意を表したい。法整備から実施にかけての移植を支える多くの関係者,そして中でも高知赤十字病院の関係者や日本臓器移植ネットワークのコーディネーターの大変な努力を改めて尊敬する。あの時に提供が中断されていたら,その後に引き続く臓器提供はなかったであろう。
 さて,1例目の後あまり時間を経ず3例の提供があり,脳死臓器移植も思いの外順調に進むかと思われた。昨年は再開ブームのようなところもあったが,今年は地に足をつけた着実な進歩を示す年である。しかし果たしてどう進むのであろうか。昨年後半で新聞紙上にみられたことは,臨床的には明らかに脳死でありながら脳死診断のマニュアルに沿わなかったり,規定されていなかったりと,法的な脳死診断ができないという判断のもと,脳死診断が中止された例である。せっかくの臓器提供の尊い意思が実現されなかったのである。
 脳死に至った人の尊厳や人権を大事にすることは当然だが,生前に意思表示をしてほしいと社会に訴えながら,自分たちの作ったシステムのまずさでこれを生かせないのは納得できないと思う人も多いだろう。今の法律では臓器提供の場合の脳死判定は法律のもとでの診断であり,法的脳死であるから医学的に脳死とは違うことはやむを得ないとされている。そこには人の知恵や考えの柔軟性は入ってこないのか。何のための法律なのか,国民のためなのか,お役所のためなのかといった考えも出てくる。

 昨年11月のある新聞に紹介された世論調査によると,過半数が脳死を人の死と考え臓器提供に賛成しているものの,カードの所持率は6%にすぎない。また,今後より慎重に対応すべきと言う意見も30%ほどあることは,移植希望患者さんや移植実施側からみるのと社会の意見とのギャップが依然としてあることを示し,当然関係者は自覚せねばならないだろう。脳死臓器移植は始まったが,定着するにはまだ遠い道程が控えているようである。個人的には臓器移植においては性善説に立ってものを考えたいし,そうだと信じる。移植実施側が臓器提供や脳死について意見を言うのは控える風潮もある。移植希望者を毎日管理している中で,補助人工心臓を着けざるを得ない症例がどんどん増えている。毎日死と直面し,わずかに一縷の生への希望をつないでいる患者さんや家族の顔をみると,今静かに成り行きを見守っていくことは医師として正しいのか,逃げているのではとも思うのである。
 せっかく国をあげてここまでこぎ着けた臓器移植の道を,関係者が自ら狭めていっては決して医療として定着しないであろう。角を矯めて牛を殺すようなことにならないように願いたい。小児心臓移植や一部の肺移植の待機患者さんは今もって海外へ助けを求めなければならない。
 今はスタート後の第1コーナーにさしかかったところであろう。ここでオーバーランしたり転倒してはいけないが,それを恐れてばかりいては肝心なものは進まない。待機患者さんの現場からの気持は,今年こそ移植の発展の年としてほしいのである。