医学界新聞

 

〈連載〉

国際保健
-新しいパラダイムがはじまる-

高山義浩 国際保健研究会代表/山口大学医学部4年


〔最終回〕国際保健の挑戦

 国際保健の重要な方法論に,プライマリ・ヘルスケアがあることは,以前に述べた(連載第3回,2301号)。実は,このプライマリ・ヘルスケアには,国際保健はもとより,世界のあらゆる社会が尊守すべき理念が詰め込まれていると言われている。
 そこで,最終回では,プライマリ・ヘルスケアの基本理念とは何か,これを紹介しながら,21世紀社会における国際保健の可能性について考えてみようと思う。

民主主義の前提として

 人類が今まで生み出してきた制度のうち,最高のものとされているのは「民主主義」である。少なくとも,日本人はそう思っているし,世界のほとんどの人がそう信じるようになってきている。その証拠に,世界に存在する国家のほとんどが,今ではその社会制度として民主主義を取り入れている。
 そして,この民主主義の理念とは,言うまでもなく「自由」と「平等」である。しかし,世界の現実からみると,残念ながらこれが理想に過ぎるものと映ってしまう。それほど,多くの人々が膠着化した差別と厳しい貧困の中に生きており,あるいは無責任な自由を浪費し,あふれる消費生活に埋没しているのだ。
 本当に人類社会は,「自由」と「平等」を旗印に掲げていて,その成員たちの幸福をなべて実現させていくことができるのだろうか。この問題意識を追求していった結果,プライマリ・ヘルスケアは,その理想論の前に掲げるものとして,「参加」と「公平」という理念を提示したのである。

参加を求める社会を

 生まれながらに人間は自由である。そして,人生は自己の責任で変えていくことが許されている。これが民主主義の大前提であろう。
 しかし現実はそうではない。多くの拘束が人間には課せられており,身動きが取れない状況があるのは,貧困に苦しむ途上国に出生した人々に限らず,日本に暮らす私たちにとっても避けられないことである。
 ところがよく見渡すと,私たちに課せられた拘束というものは,人為的であることが多いと気がつく。
 なぜ,彼が学校に通えないのか,なぜ医師の診察を受けられないのか。なぜ仕事がないのか。それは生まれながらにそうだったということではなく,そのような制約が地域社会,もしくは国際社会によって課せられてしまっているからなのだ。
 私たちは,互いに拘束しあって生きている。それぞれが,本当に生まれたままに自由であり続けるとすれば,社会は形成されない。社会の1つの側面として,他者に制約を与えるというものがあるのは,よく考えれば当然のことだろう。
 ここでもし,私たちが制約の範囲内で自由を謳歌し,満足するとすれば,人類社会の自由は拡大することはない。真に「自由」を愛し,それを追求するということは,他者の「自由」についても責任を持つということなのではないだろうか。誰かの自由が奪われているというのは,「彼だけのために作られた主観的なもの」ではなく,「あなたを含む集団の投影」なのである。そこで,「誰かが何とかするのだろう」というのは,自由の放棄であり,他者を拘束している者として怠惰にほかならない。
 プライマリ・ヘルスケアが,「自由」に先駆けて成員の「参加」を義務として要請するのは,こうした背景がある。

せめて公平な社会を

 国際保健が,民主主義の理想である「平等」を語り出す前に「公平」を,さらにその前に「公正」を達成するべきだと主張しているのはなぜだろうか。
 そもそも,「公正」というのは何だろうか。それは,わかりやすく言えば,「公に不正のないこと」である。
 たとえ話をしよう。ここに米が1kgあったとする。それをどう分け合うかというのは,「平等」や「公平」を論じることである。でもその前に,この米を分けるための計量方法に問題はないか。それを測りとる役割の者がくすねとったりしていないか。それを監視する環境にあるか。つまり「公正」であるように整備しなければならない。
 しばしば,「不公正」を黙認する者たちは,「平等」であることを喧伝し,煙に巻こうとするので要注意だ。裏で米を盗みながら,「みんなに分け隔てなく配ってます」と言う。最近になってようやく,日本社会の問題点が明らかになりつつあるようだが,談合や賄賂など権力の不正がまかり通りながらも,日本は世界に恥じない立派な平等社会であった。しかし,その土台が腐っていたというのは,つまり社会が「公正」でなかったということだ。ついでに言うと,援助にまつわる問題点というのも,結構ここにある。
 では,「公平」とは何だろうか。これは,「皆にチャンスが与えられていること」である。
 例えば,大学受験における問題漏洩など,「不公正」がないことは大前提だが,「公平」な社会では,さらに,誰もがその試験を受ける機会が与えられているはずである。ちなみに受験者全員が合格するか,不合格というのが,「平等」ということになる。民主主義が「平等」を理念と掲げるのに対し,プライマリ・ヘルスケアが,この「公平」を理念としているのには,国際保健のきわめて現実的な性格が現れている。
 もう1つ例をあげよう。
 「ある難病患者が10人います。その難病の特効薬が1人分だけあります。開発者であるあなたは,誰に渡しますか?」
 ここで答えを強引に導こうということはしない。ただ,国際保健に限らず,「世界の実情というのはこういうものなのだ」ということに気がついてほしいために用いたのである。
 「難病患者>特効薬」は,「移植を待つ患者>提供された臓器」であり,「難民>受入国」であり,「人類>食糧」でもある。もっと身近に感じたければ,「入学希望者>入学者定員」という難題を誰もが体験したはずだ。
 「平等」という原理が成り立つためには,「配分するものが人数分ある」ことが必要条件であるが,そんなことはむしろめずらしいケースである。「では,誰もそれを手にできないように封印してしまえばよい」という平等主義があるとすれば,それは滅びの思想である。そこで,プライマリ・ヘルスケアは,「誰もにそれを手にするチャンスを与える」という「公平」を社会の大目標としたのである。
 人類社会はパラダイスではない。手の届くところに美味しい果物がなり,暖かな布団が誰もに保証されているわけではない。この限られた地上で,私たちが「平等」であることは少なくとも今のところ不可能なのだ。しかし,例えば,親の資産によらず誰もが高等教育を受ける機会が与えられ,性別や障害の有無にかかわらず望む職種を志し,あるいは病からの回復に希望を持てるようにしておかなければならないだろう。このような「公平」な社会の実現を,国際保健はまずめざしているわけである。

国際保健の諸問題

 国際保健を,医療者による国際貢献であると考えている読者には,このように社会問題に取り組もうとする姿勢に違和感を覚えている人も多いかもしれない。実際,プライマリ・ヘルスケアの思想が登場する前までの,保健医療分野における国際協力とは,病院の建設や医療機器,基本的薬剤の物的援助,あるいは医師,看護婦を現地へ派遣するような人的援助に力が入れられてきたものだった。
 ところが専門家たちは,世界の健康問題と向き合い,原因追究を繰り返すうちに,これまでの保健的な姿勢だけでは,解決へと結びつかないことに気がついてきた。身体的,精神的な健康問題とは言い切れない諸問題が,数々,浮かび上がってきたのである。
 ここで,また1つ例をあげよう。
 東アフリカの各国で旱魃が続き,幼児の死亡率が高まった時に,アメリカから大量の粉ミルクが援助物資として送り込まれたことがある。しかし,これが,結果的に大量の幼児を殺してしまうという,最悪の結果をもたらしてしまった。
 母親らが,この粉ミルクを泥水に近い水で溶いて幼児に与えてしまったからである。この悲劇の背後には,水道設備の不備,煮沸のための燃料不足,そして母親たちへの教育不十分などが隠れていた。
 人々の健康とは,常に周囲の環境から影響を受けとめている。その相互作用を分析し,さらに人間の生存の全体像を明らかにしていくと,多くの社会問題に突き当たるだろう。「健康とは,身体的,精神的に問題がないということだけではなく,さらに社会的にも問題がないということである」という,かの有名なWHOによる定義を引き合いに出すまでもなく,現実問題として,国際保健は,「貧困」や「差別」などの,社会問題をもターゲットとして研究し,活動しなければならなくなっている。

 国際保健は,いつも現場とともにあり,成功と失敗を繰り返してきた。それゆえに,きわめて現実的な戦略を打ち出しており,今回紹介したような「参加」と「公平」というような理念を掲げるようになってきたのだろう。
 国際保健は,今後の歩み方によっては,幸福実現の手段として,大きな可能性を持っていると思う。今,研究や実践における目的はさまざまあるだろうが,その最終的な目的とは,限られた地球環境の中で,時代と環境に即した,幸福のための地球生態系を実現していくことではないだろうか。最後に筆者は,「国際保健とは何か?」と問う人へ,未来への期待をこめて次のように答えたい。
 「国際保健とは,人類の幸福を国境を超えて実現しようとする挑戦である」

(終わり)

〔編集室より〕
 高山氏による連載は,今号で終了です。ご愛読,ご支援ありがとうございました。引き続き,次回の企画にご期待ください。