医学界新聞

 

連載 MGHのクリニカル・クラークシップ

第4回

患者に始まり患者に終わる
-網羅的鑑別診断と問診の妙-

田中まゆみ(ボストン大学公衆衛生大学院)


2363号よりつづく

なぜすらすらと鑑別診断が出てくるのか

 クラークシップを始めて間もない頃,思わず「ねえ,どうしてそんなにすらすらと鑑別診断が出てくるの?」と学生に尋ねたことがある。優秀とは百も承知でも,教官に質問されると即座に10も20も鑑別疾患名をあげる整理された博識ぶりには圧倒されっぱなしだった。それも,うっかりとそういう症状も出現し得ることを忘れがちな疾患を実に漏れなく列挙する。
 「それはね,ニューパスウェイでは患者さん1人に3日かけて調べるからよ」と答は明解に返ってきた。ある主訴で来院した患者(すべて実例)の現病歴について,医学部の2年生が小グループで検討する(こういう授業形式をテュートリアルという)。教官は何も口出ししない。学生たちは,その症状を起こし得るありとあらゆる疾患について分担して調べ,経過や他の症状と合致するか,他にどんな情報が必要かカンカンガクガク,時にはまるで見当はずれの議論をする。
 教官は質問されれば答えるが,よほどでない限り軌道修正もせず学生の議論にじっと耳を傾ける。
「本当に腹が立ってくるわよ,ちょっと助けてくれれば何時間も無駄にせずにすむのにって」
「でも,おかげで,自分で結論までたどり着こうとして迷えば迷うほど鑑別診断に詳しくなるの,ただの丸暗記じゃなくね」
そして答は,ほとんど必ずといってよいほど実にありふれた疾患なのだそうである。

互いに支え合う基礎と臨床

 ニューパスウェイの1つのねらいとして,基礎医学に臨床的動機を与え,逆に臨床医学においても基礎医学からの視点を想起させるという「基礎と臨床の相互交流」がある。最初の2年間でほとんど不可能に近い量の基礎医学を暗記させられる学生にとっては,この週1回の「患者と医師」コースで触れる生身の臨床例は,まさにオアシスのようなものらしい。1年生の時から,わけもわからぬままマナーと問診・診察のしかたを学んできて,ようやく病理や病態生理で病気ともなじみになり,問診でなぜああいう質問をするのかがのみこめてくる。そこで直面する膨大な病気の数々。当然学生たちは,網羅的に取り組まざるを得ない。時間をかけてまず鑑別診断の方法論を体得してから,クラークシップに入るわけだ。1つの主訴に反射的にずらりと鑑別診断を並べ上げる学生たちの能力はこうやって培われたものだったのだ。
 3年生になると,ニューイングランド医学誌に載るMGH(マサチューセッツ総合病院)のCPC症例を割り当てられる。そして,招待演者のあとに学生たちが自分たちの鑑別診断を発表するのである。この部分は雑誌には載らないユーモラスな場面で,学生たちは,聴衆が聞いたこともないようなめずらしい疾患をいたずらっぽく取り混ぜてずらりと早口で鑑別診断を並べてから,「で,私たちの結論は……」と発表する。司会者は「その中の×××という病気についてちょっと説明してもらえませんか?」と突っ込んで聴衆を笑わせることもある。この学生発表は多分に座興のような趣ではあるが,とにかく学生にとっては鑑別診断の中に正解が含まれていれば,ほっと胸をなでおろすことになる。
 これがインターンの立場になると,彼らの知的好奇心は生き残りを賭けた優先順位(一に睡眠二に食事,三四がなくて五に睡眠)の遥か低位に押しやられてしまう。疲労の極にあるインターンが健全な思考能力と知的興味を取り戻すのは,ジュニア・シニアレジデントになってからである。

教育回診のツボ

 教官は,こうした学生と研修医の両方を満足させるように論点を押さえて教育回診の「本日の症例」を進めていく。例えば,主訴と現病歴から学生たちが勢い込んで網羅的にあげる鑑別疾患名を黒板に書いていく時に,「頻度の多い3つは?」とか,「この患者の年齢で最も多いものは?性差は?」とか質問して,実戦的知識に組立てていく。
 「これくらいでいいかな?では,これらを鑑別するために,患者にもっと質問したいことは?」と問診に戻って検討し直す。症例提示者がチームの質問に答える形で現病歴が“Negatives(なかった症状)”に重点を置いて補足され,既往歴,薬用歴,家族歴,社会歴が述べられる。ここでは患者個人のプロフィールが浮かび上がってくるようなエピソードが交えられるので,患者に対してぐんと親しみが増す。
 次に理学所見が読み上げられる。そのあとチームが次々と「○○はなかった?」「□□は?」と質問して大事な陰性所見に念を押す。「それは何を考えているわけ?」と教官がフォローする。問診においても理学所見においても“Negatives”の重要性は繰り返し強調される。ただ漫然と話を聞き体を触るのではなく,何を念頭において情報を得ようとしているかが問われるのだ。問診と理学所見だけで病気の8割は診断可能と言われるだけあって,ここまでにたっぷり時間をかけて診断を絞り込んでいく。
 それから診断確定のための検査をみんなで議論し(特異性・感度,陽性・陰性結果の信頼度など),その結果を見る(MRIや骨髄スライドなど)こともあるし,患者に会いに行って,教官の芸術的な問診技術や診察技術を見学したり陽性理学所見の取り方を交代で練習させてもらったりすることもある。
 そして,最後のしめくくりの治療計画は,ほとんどEvidence-Based Medicine(註1)のオンパレードである。新しい治療法についてはもちろん,長い間常識とされていた治療法についても,最新の論文をもとにその有効性が数字をあげて比較検討される。治療方針の結論は,単純には出ないことの方が多い。「われわれにはまだまだわからないでやっていることが沢山ある。誰も答を知らないのです」そして最後に,「以上が99年現在の××病です」と,文献を配って終わる。これを毎日やるのである。教官により多少スタイルは違うが,強調される基本事項は普遍的であり,繰り返すうちに自然と身についていく。
 まず,主訴別に数多くの疾患を網羅的に想起する。つぎに,問診と理学所見によって診断を絞り込む。絶対に除外しなければならない疾患と,あたりをつけた疾患の両方について最適の検査を選ぶ。見落としは許されない。そして,情報の中で常に原点となるのが「問診」なのである。

教育回診での忘れ得ぬ症例

 教官の質問1つで診断がついた忘れられない症例を2つ紹介しよう。1例目は,鉄欠乏性貧血と体重減少で精査入院となった20代前半の男性。外来での便潜血が繰り返し強陽性で時々下痢もあるというのだが,粘血便なし腹痛なし理学所見陰性,培 養も寄生虫卵も複数の検査で陰性。胃内視鏡も大腸鏡(回盲部も含む)も生検・H.ピロリを含めすべて陰性。血液検査でも鉄欠乏以外異常なし(HIV抗体も陰性)。
 チームの面々は冴えない顔で患者の部屋を訪ねたのだが,教官は何か考えがあるらしく,「念のためちょっと質問してみますよ」と皆を振り返ってから患者に優しく質問した。
「子どもの頃,何か食べられない物はありませんでしたか?」
すると患者は勢い込んで,
「ええ,何とかいう蛋白が消化できないからって,パンもマカロニも食べちゃダメだって言われてたんですけど,高校ごろからもうすっかりよくなったんですよ。でも最近顔色が悪いって人に言われるし,そういえば蛋白質が消化できないんだったと思って,血が身に付くように時々生肉食べるようにしてるんですけど追いつかないみたいでね。どっかから出血して貧血が進んでる,ほっといてはだめだって△△先生に言われて入院したんですが……。癌なんですか?」
 もうおわかりと思うが,彼は白人には結構多いグルテン不耐症だったのだ。食事療法を怠ったために(当然)再発したのだが,カルテの鉄欠乏性貧血の鑑別診断にはちゃんとグルテン不耐症が入っていたにもかかわらず,便潜血(生肉のせい)に気をとられて問診で詳しく尋ねなかったため,探索が見当違いの方向に向かったというわけだ。この患者は小腸生検で確診された。治療は食事療法である。
 もう1つの症例はそれほど好運ではなかった。老人の失神発作の精査入院だったが,担当の学生はVasovagalの診断のためにベッドを傾けて熱心に失神発作誘発を試み,見事に誘発に成功した。彼は誇らしそうに寝台傾斜試験に関する詳しい文献を皆に配り,しかも謙虚に「もちろん,最も重要な不整脈除外のため48時間ホルター装着中ですが今のところ陰性で,脳血管性疾患除外のためのMRI検査も正常なら明日退院予定です」とつけ加えた。
 すると,それまでじっと聞いていた教官が,「それでいいんだけど」とつけ加えた。「この患者の既往歴に,昨年肺癌と診断され肺部分摘出および放射線治療,とあるでしょ。早期発見で本当によかったと思うんだけど,僕は外科医じゃないから悲観的でね(笑),明日のMRIでは脳転移が見つかるんじゃないかと心配してる。血管迷走神経反射っていうのは,いわば除外診断でね。極端な言い方をすれば,診断できなくても患者さんの予後にはあまり影響しないんだ。寝台傾斜試験も,支持派はそりゃ診断的価値があるって主張するんだけれども,陽性に出たからといって他の可能性をあっさり捨てていいほど信頼性のあるテストじゃない。擬陽性率はどのくらいか,知ってる?この患者さんの場合,既往歴からいって一番重要なのは,失神発作が肺癌の脳転移によるものかどうかを確かめることじゃないのかな」,一同溜息。翌日のMRIにはくっきりと脳転移巣が描き出されたことは言うまでもない。ちなみにこの教授は呼吸器科でも神経内科でも血液腫瘍科でもなく,内分泌専門であった。

(註1)「うちではこういうやり方だから」「教授がこの方法がいいというので」「オーベンにこう言われた」「私の経験では……」という検査・治療決定法を“Opinion-Based Medicine”という。これに対して,最近誰もが口にするEvidence-Based Medicine(EBM)は,「科学的な証拠(=文献)に基づいて決めよう」というもので,誰にも異存はない正論であるが,問題は,肝心の「科学的証拠」が実に少ない,という現実にある。臨床論文の評価は,体系的なチェック方式に基づいてやれば,誰でも今すぐ実行可能である(あたかも料理番組の手順のように,まず失敗なくできる)。その通りにやってみると,いかに評価に耐える論文の数が少ないかに愕然とするだろう。次に,その論文にあなたの患者をあてはめようとするわけだが,あなたの患者がアジア系の80歳の女性だとすると,そんな治験報告はほとんど存在しないと言ってよい。つまり,厳密にEBMを実行しようとすると立ち往生してしまう。MGHの教育回診では結論が出ないことが多い,というのはこういう意味である。患者へのインフォームド・コンセントでも,この「医療の不確実性」は強調される(後述)。