医学界新聞

 

[連載] 質的研究入門 第4回

保健医療サービスにおける質的研究方法とは(1)


“Qualitative Research in Health Care”第1章より
:CATHERINE POPE, NICHOLAS MAYS (c)BMJ Publishing Group 1996

大滝純司(北大総合診療部):訳,
藤崎和彦(奈良医大衛生学):用語翻訳指導


 質的研究は,社会科学の分野では古くから行なわれており,保健や医療サービスの分野でも重要な位置を占めている。質的アプローチと量的アプローチは,対立的な関係にあると誤解されやすいが,本書の目的は,質的方法の幅広さが持つ価値や,それが量的研究をどのように補うかについて紹介することにある。

本書の目的

 医学の発達,専門分化,患者側の期待の増大,医療サービスの規模や多様性の急速な拡大などにより,医療専門職が働く現場はますます複雑な状況になってきている。この複雑さのために研究テーマは幅広くなり,新たな研究手法が必要になっている。保健医療に関する研究が急速に広がったのは,そして近年になってそれが研究領域として認知されるようになったのは,研究者,研究協力者,そしてその評価者としての医師やその他の保健医療専門職によるところが大きい。しかしこの領域では,サービス提供者側の組織や文化にかかわる――例えば無作為化比較研究(randomized control trial)の結果を日常診療に適用しにくいことが多いのはなぜかといった――重要な問題が未解決のままになっている。そうした点について研究する適切な社会科学的方法は,多くの保健医療専門職が慣れ親しんでいるものとはかなり異なる。
 質的な方法になればなるほど,臨床や生物医学的な研究で用いられる実験的,量的な方法とは一見相容れないように見えるかもしれない。しかし,この研究方法は保健医療サービスを研究する上で重要な手法の1つであり,量的な研究がやりにくい領域(例えば非医療者と医療者の健康観の違い)を取り扱うことを可能にするだけではなく,特に,それまでにほとんど研究されていない領域の量的研究をしようとする際にも,質的な記述研究は欠くことのできないものなのである。
 例えば,新しい遺伝子技術によって遺伝子疾患をスクリーニングする調査はその好例である。新たな遺伝子技術が導入されると,人々は新たな状況に直面することになる。つまり,妊娠・出産,出生前診断,遺伝疾患の発病予測といった事柄に関して,今までにしたことのない決断を迫られるのである。この領域の社会学的研究は,人々が遺伝のリスクについてどのように考えているのか,それはどのような理由からなのか,そして実際にそうした状況に直面した場合にどのような理由に基づいて行動するのかを理解しようとすることから始まる。
 本書の目的は,保健医療の研究で現在用いられている質的研究の方法をいくつか紹介し,それらの適切で実用的な利用方法を示すことにある。各章では,観察(observation),深いインタビュー(in depth interview),フォーカスグループ(focus groups),consensus method,そして事例検討についてまとめてあるが,これらのいずれも,医師や他の保健医療職がどんどん利用するようになっている方法であり,その使い方や評価の方法を解説したい。本書を読むことで,質的研究に対する違和感がなくなり,保健医療サービスの研究における道具の1つと受け止められるようになることを願っている。
 なお,本書の第3章から第6章では各々の質的方法を解説し,第2章では質的研究の妥当性や信頼性について取り上げている。またBox 1()には,この本で扱う,質的研究で用いられる言葉の一部について簡略な定義をまとめてある。
 保健医療サービスの研究では質的方法は比較的馴染みはないが,社会科学の分野ではずっと昔から使用されている。例えば,社会人類学は未開地の人々の習慣や行動を理解するという研究を基盤としているが,それらの資料は,研究者がその社会の中に入って生活をともにすることで得られるものであり,多くの場合,研究者はその社会の言葉を学びその社会の一員となる。それと同様の方法で,本書で紹介する自然主義的方法(naturalistic methods)とは,要するに研究対象集団を観察し,そこに参加し,会話し,解釈することであり,この方法は質的社会学者が,より身近な社会,すなわち私たち自身の社会を研究する場合にも用いられる。保健医療分野は,この研究手法が適用される領域の1つにすぎず,保健医療サービスの組織や医師―患者関係,医療職の役割の変化などが研究対象となる。
この項つづく

表 Box1〔本シリーズの用語集〕

Epistemology(認識論)――知識の理論;知識の起源や妥当性について取り扱う科学的研究

Naturalistic research(自然主義的研究)――自然に生じた事象に関する実験ではない研究

Social anthropology(社会人類学)――人々,文化,社会に関する社会科学的研究;特に伝統的な文化の研究と関連が深い(注:英国では文化人類学のことを社会人類学と呼ぶことが多い)

Induction(帰納法)――観察やデータをもとに一般論,仮説,理論を導き出す過程

grounded theory(グランデッドセオリー)――データから帰納的に仮説を立てること,特にその対象独自の類型,概念を用いる;既知の理論や仮説について検討することを目的としてデータを収集する演繹法(deduction)とは対極的な関係にある

Purposive or systematic sampling(目的別あるいは組織的サンプリング)――回答者の選定,対象,設定について十分に吟味すること。これはstatistic sampling(統計的サンプリング),すなわち全人口の特性を代表しているかどうかに注目する方法とは対極にある。Theoretical sampling(理論的サンプリング)とは,前もって立てた仮説や理論との関係の中でこのサンプリングを行なうことである

Fieldnotes(フィールドノート)――観察,会話,インタビュー,写本,その他の記録の総称。典型的なフィールドノートには,フィールド日記,すなわち事象の経時的記録,研究活動の進展状況だけでなく,研究者自身の反応や感情や意見なども記された記録が含まれる

Content analysis(内容分析)――文章(フィールドノート)について,論点の抽出とグループ化,コード化,階層化,類型化により,論理的に検討すること

Constant comparison(継続的比較)――内容分析を繰り返し行なう手法のことで,各類型をすべてのデータに適用し,全例について新たな類型が認められないことを確認する。

Analytic induction(分析的帰納法)――特に仮説を立てる際に,継続的比較を用いることその後さらに多くのデータ収集や検討を行なう

Triangulation(トライアンギュレーション)――3つ以上の異なる研究手法を組み合わせて用いること。基本的に,妥当性の検討に用いる

Observation(観察)――自然に起こっている事象の中の行動や会話を系統的に注視すること

Participant observation(参与観察)――研究者が観察するだけでなく,その状況の中に身を置いたり,何らかの役割を務める形での観察を行なうこと

In depth interviews(深いインタビュー)――ある話題について詳しく探求するために実施される対面式の会話。一連の質問を事前に用意することはしないが,決められた話題に的を絞って行なわれる

Focus groups(フォーカスグループ)――データ収集のためにグループ内での相互作用を含む,またはその相互作用を利用する,グループ形式でのインタビュー

Consensus methods――Delphinominal group techniques,そしてconsensus development conferencesが含まれる。これらにより,情報を統合したり,議論の対立点について検討して,ある特定集団において合意されたことが適用できる範囲を定めることをめざす

Case studies(事例検討)――1つの,あるいは限られた数の状況に焦点を当て,新たな現象を探索するもので特に複雑に入り組んだ事象に用いられる。探索的,解釈的,記述的なもの,あるいはそれらを組み合わせたものがある

Validity(妥当性)――ある方法が特定の事象を検討する際に正しく適用できる範囲

Hawthorne effect(ホーソン効果)――研究者が研究対象やその設定に及ぼす影響,特に対象者の行動を変えてしまうこと

Reliability(信頼性)――その方法を繰り返し行なっても同じ結果が得られる範囲