医学界新聞

 

連載
アメリカ医療の光と影(11)

医療過誤防止事始め(5)

李 啓充 (マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学助教授)


〈症例〉
ホゼ・マルティネス,2か月,男性

1通の処方箋

 ホゼがヒューストン市ハーマン病院の救急外来に連れてこられたのは1996年8月のある夜のことであった。ホゼはこの時,初めて心室中隔欠損症と診断され,心不全の治療のために入院することとなった。
 病棟でジゴキシンの投与が始められることとなり,受け持ちのレジデントと指導医が体重から必要量を計算し,0.09mgという計算結果を確認しあった。ここで,レジデントが処方箋に「0.9mg」と誤った値を記入したことが,ホゼが不幸な転帰をたどることの原因となった。
 レジデントは指導医に処方箋の確認を求めたが,指導医は書き間違いに気がつかずそのまま承認してしまった。というのも米国では「0.09mg」を「.09mg」と一の位の0を省略して記載することが広く行なわれているため,指導医は指示簿の「0.9mg」という記載を「.09mg」と思い込んで誤読したらしいのである。

幾重ものチェック

 この処方箋がファックスで薬局に伝えられたが,受け取った薬剤師は量が多すぎるのではないかと疑問を持ち,ポケットベルで担当のレジデントを呼び出した。しかし,処方箋を書いたレジデントはすでに帰宅し,ポケットベルの電源は切られてしまっていた。薬剤師は処方箋をコーヒーポットの上に置いたが,ハーマン病院の薬局では古くからの習わしとしてコーヒーポットの上に処方箋を置くということは「要確認」という意味を持っていた。
 やがて病棟からフォローアップの処方箋が再度ファックスで送られてきたが,これを受け取った薬局補助員は処方箋の指示通り0.9mgのジゴキシンを注射器に吸い,薬剤師の確認を求めた。薬剤師は補助員から示された処方箋が,自分が当初投与量に疑問を持ったものと同一のものであることに気がつかず,注射器に貼られたラベルの内容と処方箋の内容とが一致していることを確認し,注射器を病棟に送ることを承認した。
 かくして,0.09mgではなく,十倍量の0.9mgのジゴキシンが入れられた注射器が小児科病棟に送られることとなった。病棟で注射器を受け取った看護婦も投与量に疑問を持ち,当直のレジデントに投与量に間違いがないかの確認を求めた。当直のレジデントは「0.09mg」と正しい計算結果を出したものの,注射器の0と9だけを見て小数点の位置が誤っていることには気がつかず,「量はあっている」と看護婦に告げた。看護婦は別の看護婦に投与量についての最終確認を求めた。第2の看護婦は,注射器のラベルに書かれた投与量と処方箋の投与量とが一致することを確かめたが,処方箋には初めから「0.9mg」と誤った量が記載されていたのであった。
 午後9時35分,ジゴキシン0.9mgがホゼに投与された。投与は点滴で20分かけて行なわれた。午後11時,ホゼが嘔吐を始めた。ジゴキシンの投与を担当した看護婦は初めから投与量に疑問を抱いていたのだが,ホゼが嘔吐を始めるや否や「ジギタリス中毒」の症状であると判断し,即座に「ジギバウンド」(抗ジギタリス抗体)の投与を始めた。しかし,ホゼの状態はその後悪化するばかりで,懸命の処置にもかかわらず,投薬ミスの結果ホゼは2か月という短い生涯を閉じることとなった。
 処方から投薬までの間のいくつもの段階で,多くの医療者が投与量に疑問を持ち,何回も確認作業が繰り返されたにもかかわらず,生後2か月の乳児が死亡するという痛ましい結果となってしまったのであった。

衝撃を与えた事故発生頻度

 医療事故の中でも最も頻度が高いものが薬剤投与に関するものである。薬剤に関連する医療事故がどれくらいの頻度で起こるかについて調べた研究として,ブリガム・ウィメンズ病院とマサチューセッツ総合病院が行なったプロスペクティブ・スタディが有名である(JAMA,274巻29-34頁,1995年)。
 この研究では,看護婦(士)・薬剤師による自己報告に加え,専任の研究担当看護婦(士)による患者カルテのレビューという2つの方法で薬剤副作用の起こる頻度を調べている。この研究では,薬剤副作用(adverse drug events, ADE)は「薬剤に関連した医療行為の結果患者に害が及んだ場合」と定義され,狭義の薬剤副作用だけではなく,薬剤の過剰投与など医療側の過誤によるものも含めている。
 6か月に及ぶ調査の結果,ADEが入院患者の6.5%で起こったことが判明した。さらに,入院患者の5.5%でADEが起こりかけたものの未然に防がれたとし,実際に起こってしまったADEと合わせると実に入院患者の10人に1人がADEに遭遇する可能性があるという結果となり,全米でも最先端をいく2病院でのADEの頻度の高さが全米の医療界に大きな衝撃を与えた。
 またADEの転帰をその重症度で見た場合,1%が死亡,12%は死亡する可能性があったほど重篤,30%が重症,57%が軽症という結果となっていた。死亡した症例はすべて予防不可能のADEによるものであったが,重症のADEが起こった症例のうち42%は医療側のミスが原因であった。これに対し軽症のADEが医療側のミスで起こった割合は18%と低く,重症のADEほど予防可能であることが示された。

この項つづく