医学界新聞

 

 連載

「WHOがん疼痛救済プログラム」とともに歩み続けて

 武田文和
 (埼玉県県民健康センター常務理事・埼玉医科大学客員教授・前埼玉県立がんセンター総長)


〔第11回〕がん・痛み・モルヒネ(7)
WHOがん疼痛治療暫定指針の試行(2)

反応のなかった国内学会発表

 埼玉県立がんセンターでの,WHOがん疼痛治療暫定指針の試行対象患者が90名ほどになった時の治療成績を,「第5回痛みの研究会」(現日本疼痛学会,1983年12月,東京)で報告した。しかし,フロアからは何の反応もなかった。ただ,聴衆の1人であった「医薬ジャーナル」の編集者がこの報告に関心を示し,私はWHOがん疼痛治療暫定指針に関する原稿の執筆を依頼されたが,これがWHO暫定指針の広報の第一歩となった。
 そして翌年,対象患者数が150例を越えた時の成績を「第18回ペインクリニック研究会」(現日本ペインクリニック学会,1984年7月,大阪)で発表した。
 この時の発表内容は,試行対象患者156名の時のもの。WHO3段階除痛ラダー総計で,86%の患者で痛みの継続的な完全消失があり,9%の患者は痛みがほぼ完全に消失。残る4%は痛みの軽減にとどまった。また,鎮痛薬は86名に非オピオイド(アスピリンまたはアセトアミノフェン)が処方され,33%の患者の痛みが消失。これが効果不十分であった患者を含む59名には,弱オピオイド(リン酸コデイン)を追加処方したところ,47%の患者の痛みが消えた。さらにこれで効果不十分な60名と診断時の痛みが強かった68名には強オピオイド(モルヒネ)を処方した結果,83%で痛みが消えた(表参照)。
 また,適応があれば鎮痛補助薬(抗うつ薬,抗けいれん薬など)を併用し,胃症状,便秘,嘔気などの頻度の高い副作用には,予防的に制酸薬,緩下薬,制吐薬などを併用した。
 90%以上という高率で患者の痛みが解決し,また危険な副作用はなく,依存性の問題も起こらず,WHOが採択した治療法の普及には大きな効果が期待できると発表した。しかしながら,前回の発表と同様にフロアからの反応はなかった。
 座長の藤田達士氏(群馬大教授)が,「この成績は9月の世界疼痛学会でも発表予定です。日本のデータと認知されることになりますから発言してください」と促したが,やはり発言はなかった。「それでは,お認めいただいたことになります」と藤田教授は締めくくった。この研究会の演題の中で鎮痛薬を主題にしたのは私の発表1題のみであった。当時の日本の疼痛関連の学会では,それほど鎮痛薬に関する発表が少なかったのである。

埼玉県立がんセンターにおけるWHOがん疼痛治療暫定指針の試行成績
(1982年12月から1984年1月までの実施分)
薬剤群I.非オピオイド
アスピリン
II.弱オピオイド
コデイン
III.強オピオイド
モルヒネ
3段階総合成績
対象患者数
(鎮痛補助薬併用)
86
(30)
59
(34)
118
(21)
156
除痛成績 ( )内は%
 完全な除痛
 ほぼ完全な除痛
 痛みの軽減
 無効

29(33)
10(12)
37(43)
10(12)

28(47)
11(19)
15(25)
5(8)

98(83)
14(12)
6(5)
0

136(87)
14(9)
6(4)
0

世界疼痛学会での反響

 同じ年の1984年9月に,私はアメリカ・シアトルで開催される第4回世界疼痛学会に,「WHO暫定指針の日本における試行成績」と題する演題を申込んでいた。痛みが鎮痛薬投与で消えたという単純な内容なので,ポスターでの発表でよかろうと思っていた。ところがシアトルのJohn Bonica世界疼痛学会長から航空便が届き,「大切な発表なので,会長の一存で演説発表に格上げした」と伝えてきた。
 そのような経過があり,シアトルに着いた私は,「第4回世界疼痛学会」の開会式に出席した。多くの旧友に会えることも学会出席の大きな楽しみであった。開会式では,WHOのJan Stjernsward博士がゲストスピーチでWHOがん疼痛救済プログラムについて,初めて公式に言及することになっていた。会場での私の席の左にはブラジルのMartelete教授(世界疼痛学会副会長),右にはオックスフォードのTwycross博士が座っておられた。
 驚いたことに,Stjernsward博士は演説の中で,「WHOプログラムの有効性は,本学会での日本の武田の演説で明らかにされる。明後日の15時からなので皆さんに聞いていただきたい」と2度もくり返したのである。Martelete教授が,私に「開会式で宣伝してもらえるのはとても名誉なこと」と囁いた。
 当日,その発表会場は開会式の宣伝が功を奏したのか満席となった。会場には,Stjernsward博士の姿もあり,座長も命じられていた私は緊張するばかりであった。私の演説にフロアからは,Twycross博士はじめ2-3の方から質問があった。
 席に戻ると,Twycross博士が笑顔で本を差し出し,「出版されたばかりの私の本だ。君へのおみやげ」と小さな本をプレゼントしてくれた。これが後に,医学書院から私の訳で1987年に出版された『末期癌患者の診療マニュアル-痛みの対策と症状のコントロール』である。この本が日本のがん医療に新しい考え方を吹き込むことを助けてくれたのである。
 そしてStjernsward博士から,「WHO暫定指針の有効性が世界で初めて示された。しかもアジアからだ。ここが大切。12月に,ジュネーブのWHO本部で同じ内容の演説をしてほしい。招請状を送る」と伝えられた。
 日本における関心の低さに比べ,世界学会での反響は思いもよらぬほど大きかった。しかし,世界の動きについて十分な情報を持たなかった私は何となく不安があった。国内の誰よりも情報が伝わりやすい立場に置かれているはずだが,それでもである。反響が大きかった要因は,がん疼痛治療が多くの先進国でもうまく行なわれていない側面を残していることだとは,後になって実感することになる。その背景因子は何なのか,日本と世界の反響の差は何に由来するのか。自問し,答を探していた。
 そのようなことを考えながら,埼玉県立がんセンターの職員が寄せてくれた協力の成果が世界学会で反響を呼んだことに感動しながら,私は帰国の途についた。

この項つづく