医学界新聞

 

連載
アメリカ医療の光と影(9)

医療過誤防止事始め(3)

李 啓充 (マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学助教授)


 7歳の少年ベン・コルブが耳鼻科の手術中の事故で亡くなるという痛ましい事件について,リスク・マネジャーのドニ・ハスを責任者としてマーティン・メモリアル医療センターによる原因調査が始められた。
 患者の循環動態が急変したのは手術部位に「キシロカイン」を局注した直後であったが,調査を始めた時点で,調査チームは3つの可能性を考えていた。
 第1は,患者が薬剤に対して例外的に激しい副作用を起こした可能性であったが,患者にとっては3回目の手術であり,以前の手術では何ら異常が起こらなかったことを考えると,特異体質による副作用を起こした可能性は考えにくかった。
 第2は,使用した注射液に不純物が含まれていた,など何らかの問題があった可能性であるが,手術に使われた注射器の中身を特定するために,使用された注射器と薬剤バイアルはすでにジョージア大学の検査施設に送られていた。
 第3の可能性は,手術チームが注射液を取り違えて誤った薬剤を注射した可能性であったが,何千回となく繰り返されてきたルーティンの手術で致命的なミスが起こるなどとは考えにくかった。
 いずれにしても患者の循環動態が急変したのは,「キシロカイン」が局注された直後であり,ハスたちによる調査は注射液が局注された際の手順に焦点が絞られることとなった。

手術手順を徹底調査

 ハスはベン・コルブの手術に関わったスタッフ全員から手術の実際について詳細な聞き取りを行なった。それぞれのスタッフが行なった処置をフローチャートに書かせ,必要に応じて手術器具がどのように配置されていたかを絵に描かせたりした。
 ハスは,耳鼻科の手術において清潔野に持ち込まれる注射液は,局所麻酔のキシロカインと,止血目的で外用されるエピネフリン1000倍希釈液の2種類であり,この2つの注射液は容器の種類を変えることで区別されていることを知った。キシロカインは金属のカップに,エピネフリンはプラスチックのカップに入れられていたのだが,全米の病院でごく普通に行なわれている手技であり,マーティン・メモリアル医療センターでもこれまで何ら問題となることなく何千回と繰り返されてきた手順であった。
 ハスはさらに,ベン・コルブの手術には立ち会っていなかったスタッフにも,どのように清潔領域に注射液を持ち込むかについてその手順の実際を詳細に聞き出した。やがて,それぞれのスタッフの手技に微妙な差があることが明らかとなった。ハスは,個々のスタッフの手技の違いが組み合わされると,カップに入れられる注射液の内容が入れ替わる可能性があることに気がつき愕然とした。

証明された病院側のミス

 手術が行なわれてから1週間後の12月20日,患者の局注に使われた注射器の内容物を検査していたジョージア大学から「注射液の中身はキシロカイン液ではなかった」という報告が届けられた。この報告を受けた時点で,マーティン・メモリアル医療センターの調査チームは,患者が亡くなった原因が誤った注射液を使用したことにあった,つまり,病院側のミスによるものであった可能性が高いことを認識せざるを得なかった。
 これ以上の検査を進めて手術時に使われた注射器の中身を同定することは,病院側のミスを証明する結果にしかならないことはわかっていた。しかし,マーティン・メモリアル医療センターは注射器の内容物を特定することのできる検査施設を探しだし,さらに詳細な検査を行なうことを決定した。この決定を下した理由について,同センターCEO(最高経営責任者)のリッチモンド・ハーマンは,後日「あの時点で検査をやめていたら患者が亡くなった原因は永遠に謎のままに終わっていました。手術室のシステムを再検討し改善するということもできなかったでしょう。何よりも,執刀医と麻酔医は『患者が亡くなったのは自分が何か間違いをしたせいではなかったか』と一生責め苛まれることとなっていたでしょう」と説明している。
 患者の死から3週間あまりが経過した1月5日,注射器の内容物を検査していたペンシルバニア州の検査施設から,注射された薬剤はキシロカインではなくエピネフリン1000倍希釈液であったとの報告が届けられ,ベン・コルブの死が病院側のミスによるものであることが証明された。

辛い説明

 調査チームはこの検査結果を第1に患者の遺族に伝え,第2に執刀医と麻酔医とに伝えた。州の検屍官にも薬剤取り違えの事実が伝えられたが,マーティン・メモリアル医療センターは「死因の公表は患者の家族への説明が済むまで待ってほしい」と依頼した。
 1月8日,ハスと麻酔医のマクレインとがベン・コルブの遺族に辛い説明を行なった。病院側が手術に使われた注射器と薬剤バイアルを保存してその内容物を検査したこと,検査の結果,取り違えられた薬剤を注射したことがベンの死の原因であると明らかになったことが説明された。これらの説明の後,ハスは病院を代表して心から家族に謝罪した。同日の夕刻,双方の弁護士の立ち会いのもと,遺族と病院との間に補償についての示談が成立した。家族は,示談成立後,ハスと医師たちにもう一度会いたいと希望した。

この項つづく