医学界新聞

 

《看護版特別編集》
【鼎談】

看護の質の保証と専門性
改めて看護の「専門性」を問う

山内豊明
(大分県立看護科学大
・助教授)
中木高夫
(司会/名大・教授)
立岩真也
(信州大医療短大部
・助教授)


中木 「専門性」という言葉は,いろいろな意味を含んでいます。ある人の言う専門性と,別の人が使う専門性の中身にかなりの違いがあると思います。看護の世界でもよくこの「専門性」が議論されます。今日は,特に看護の「専門性」というものについて議論を深めようと集まりました。
 立岩先生がお書きになりました『私的所有論』(剄草書房,1997年刊)を買いました。中身は,社会学・倫理学の重い論文がぎっちりでなかなか手ごわいのですが,あとがきに載っていたホームページをのぞいてみましたら,「専門性」に関する刺激的な発言がありました。そのようなことがあり,いつかお話しをしたいと思っていました。
 また山内先生は,医師から看護職,クリニカルナーススペシャリスト(CNS),看護教育者・研究者へという段階を踏んでこられたわけですが,ある意味での専門性の追究という経験をお持ちです。
 私も出身は医師ですが,看護・看護教育に興味を持ち,今や看護の世界にどっぷり浸っています。その意味では,3人ともが看護職を養成をする場で勤務をしていますが,純粋な看護界出身ではありません。そこを意識して,ちょっと違った視点から看護の「専門性」について語ろうと思います。
 「広辞苑」(第5版,岩波書店)で「専門」という言葉を引きますと,「特定の分野をもっぱら研究・担当すること。また,その学科・事項など」とあります。「専門家」となると「ある学問分野や事柄などを専門に研究・担当し,それに精通している人」となります。英和辞典で「専門」と関係のありそうな言葉を見てみますと,specialty,speciality,technical, professional,expertという言葉もあり,実践能力というような意味でのcompetent,expertiseという言葉もあります。こうして英語でいろいろに使い分けているものが,日本語では「専門」という言葉でひとくくりになっています。
 それでは「専門」ということについて,立岩先生からバックグラウンドも含めてお話しいただけますか。

「専門」とは何を指すのか

専門家はネガティブか

立岩 僕は社会学者ですが,勤めているのは看護職を養成している短大です。看護の世界では,専門性という言葉自体が,非常にポジティブなものとして語られていると思います。これは社会福祉の業界でもそうで,よく「介護の専門性」というように語られていますが,若干違和感があるのも事実です。
 というのも,私は仕事の一部として,障害のある人たちの社会運動を十数年追いかけているのですが,その中では,専門性とか専門家という言葉は明らかにネガティブな意味で使われてきた歴史があるのです。現在でもそうです。つまり,1970年ぐらいから始まる障害者当事者の運動,一種の消費者運動なのですが,彼らからするとその供給者である「専門家たち」は,自分たちの生活を規定し生活を支配するという実感があり,彼らの運動はそれに対する抵抗というか,消費者が主権を取り返す運動であります。そうすると,あくまでもポジティブに専門性を語っている側と,私が今まで知ったものの側との間のギャップとはいったいどういう具合になっているのだろうと思います。そうやって考えてくると,専門性というものをどう使うのか。どのような人たちが,どういう専門性を主張すべきなのかということを考え直してみる必要があるように思います。
 第1に,例えば「私は内科学が専門です」とか,「外科の中の心臓が専門です」という場合に使う「専門」という言葉は,全体の中のある一部分を専攻する,担当するという意味で使われます。第2に,いわゆる玄人という意味で,「素人にはできないことができる人」として専門家という言葉が使われることもあります。両方は,「その部分については他よりもよく知っている」という具合に関係してもいます。
 看護職の専門性を第1の意味に求めることが,かえって看護という仕事の意味を薄める可能性があることは後で述べます。まず第2のほうです。これは,例えば介護には一般の人にない専門的な知識や技術が必要で,専門職,家族ではなく専門家がする仕事だというふうに,その仕事を有給の仕事として確立し,社会的な地位を向上させようとする意図のもとに使われたりします。「看護の専門性」という言葉も似たような文脈で使われることがあります。他方,介護者・介助者を利用しながら日々の生活をしている身体に障害を持つ人たちは,介護という仕事は学校へ行って資格をとってやるような仕事じゃない,と言います。要は,自分たちがやってほしいことを,変な口出しをしないできちんとやって,指図どおりに動いてくれる,そういう態度や姿勢をちゃんと持っていさえすればその仕事はできる,と言うわけです。そこでは,むしろ専門家としてのプライドとか,「介護とはこうあるべきもの」といったものは,かえってマイナスになると言います。以上が,看護にすべてあてはまるとは言いませんが,少なくとも一理はあると言わざるを得ない。そして,他の人にできないことをもって,介護職や看護職の地位向上を主張する必要は必ずしもないのではないかということも後で述べたいと思います(これらを論じた文章として,立岩「資格職・専門性」,後藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』,世界思想者,近刊)。
 とにかく,こんなふうに考えていくと,なぜ専門性を言わなければいけなのか,言うとしたらどういう意味で言うべきなのか,考えてみることが必要になりますね。僕は当事者じゃないので,端からお気軽なことが言えるわけですが,看護の当事者の人たちも,ちょっとクールな視線で専門性という言葉をとらえ直してみることがあってもいいと思います。

パターナリズムと専門性

中木 ケアをする側が,パターナリズムで専門性をとらえていることがあると思います。そうすると,受ける側は「それが非常に嫌だ」と思ってしまうことはありますね。似たようなことが,医療の世界,医師と患者の関係で言われています。しかし,もう1つ別の見方をすると,専門家というのはその分野についての情報,経験をたくさん持っている人とも言えますから,受益者にはよいアドバイスをする人とも言えます。
立岩 利用者は消費者であり,サービスは消費財ですから,品質が悪いことは消費者にとって非常にマイナスです。そういう意味で提供者には技術が必要ですし,品質を高める努力もしなければいけません。そういう場面があることは確かです。
山内 コンシューマー・ベースでしたら,自分の思っている「よい」という判断が,消費者の判断と合致しているかどうかを確認するというか,保証しておかないと,パターナリズムと取られてしまうことも十分ありますね。
中木 専門家としてふるまうためには,多くの情報と経験をどんどん蓄積していく姿勢を持って,それをアドバイスとして提供していく。消費者は,その分野のメニューをそれほどたくさん知らないでしょうから,その中から選択してもらう,医療で言われているところの自己決定ですとかインフォームドコンセントという手続きも必要なのではないかと,立岩先生のお話を聞いて思いました。

「専門職」と「資格」

「資格」が意味するもの

立岩 専門職の1つの特徴として資格があげられることがありますが,資格は,消費者が直接そのサービスの質を評価し,選択できるのであればそもそも必要がないものです。しかしながら,医療のように命にかかわったり,個人が評価することが難しいサービスの場合には,あらかじめ直接の消費者ではない人が,その提供できるサービスの質を一定に保持していく必要が出てきます。資格というものの正当性は,そこにしか存在しないのだと思います。
中木 看護職の免許は1度取得したら死ぬまで看護職をすることができます。医師免許もそうですけど(笑)。
山内 医師の場合は医道審議会での資格剥奪の可能性があります。極端な脱税とかの場合ですが,でもその人の診療行為が今の時代に合わないとか,その人の考え方,接し方が消費者には有利に働かないという理由では剥奪されません。いわゆる「おしおき」的に使われているだけであって,本来の質を保証するという意味での使い方ではありませんね。
中木 ですから,免許を持つ人たちの集団が,そこに属する人たちのサービスの質を高めるための責任を担う制度を作っていく必要があると思います。多くの医学会には専門医制度や認定医制度があり,ある一定の勉強をしていないとその資格が更新できません。資格を持っている人たちの集団が,常に自分たちの内容を高めておくということについては,日本の看護界の場合はちょっと弱いようですね。
山内 免許が,「一般とは違って何かができる」というスタンダードを超えていることを示しているというよりも,「こういうことはしない」という最低要件を果たしているものでしたら,それが維持できていればいいでしょう。ただ,今のように「免許資格」=「専門家」と読み替えてしまうと,スタンダードを常に更新していかなければいけなくなります。
中木 看護職が「専門性は1つ」と言うのは,たぶん「玄人と素人」で分けた程度の意味しかないという気がします。
山内 先ほど立岩先生がおっしゃったように,免許資格というものは,第三者が「この人は少なくともとんでもないことはしない人であることを一応チェックはした」という意味での保証の機能はあると思うのですが,日常的に維持されているかの保証にはなりませんね。常にチェックが続いているわけではありませんから。
中木 提案できるとすれば,免許を持つ職能集団がそれを維持する機構を持つべきだということですね。

「資格」の能力をどう評価するのか

立岩 医師のほうが成績評価をしやすい部分があるように思うんです。薬の知識などをきちんと更新しているかを試そうと思えばできますから。ですが,看護という職業をどう評価するかとなると,もともとの仕事の中身として難しいところがあるのでないでしょうか。
中木 そうでしょうか。医学も看護も一緒だと思います。手術法も進歩していますが,一方で手術が下手な人がいて,それでも勉強してついていく。看護も,ケア技術は改善されているのに,20年前のケア技術を通用させているような,例えば褥創をいまだに乾かしているのではダメですからね。
立岩 むしろ私からお聞きしたいのですが,看護者としての技術や資質というものは,最低限のところはさっき言った資格でやるとしても,それ以後というものを含めて評価し,フィードバックしていくことはかなり可能であるとお考えですか?
中木 僕は可能だと思っています。
山内 私もそうだと思います。ただ,結果として現れてくる「患者さんがよくなること」に関して,どこまで看護がかかわり,どこに医師がかかわったのかが分けられないことがたくさんあります。褥創を例にとりますと,処置を医師が決める場合もあれば,看護が主体的に処置している場合もありますが,ある技術を取り入れる前と取り入れた後で,褥創がどのくらい早くよくなったのかという成果は,明らかになると思います。ただ現状としては,例えば医師の場合なら,その治療によって早期回復ができた,合併症が少なくなったということで評価されやすいのですが,看護の場合はなかなか出しづらいですね。
中木 免許に値する能力を今でも維持しているかどうかの評価は,最低限,医師の場合と同じように,ちゃんと講習会に出ているとか,看護の場合には院内教育もよく行なわれていますので,そこに参加しているかなどでみることは可能だと思います。ただ,病院には人事評価システムがありません。ある学会のシンポジウムで,「特に看護にはない」と話題となったことがありましたので,そういう体質なんでしょうか。
山内 アメリカでは,州によって違うのですが,だいたい5年で免許の書き換えとなります。その間に「何時間の講習に出なければいけない」という規定があり,その証明書を出さないと更新ができない制度です。更新のためには,必ずしも講習に出るだけでなく,ある読み物を読んで,それについている問題を解いて,その正答率によって何時間分かのクレジットをもらえるといったような,いろいろな方法でその人の今の能力を評価する方法があります。
中木 これだけ勉強した,ということがすぐわかるわけですね。
山内 ええ。そこはルールの世界で,合意を得た上でやっています。基準もオープンになっていますし,そうすればクリアできるものだという気がします。
立岩 自分たちが自分たちを律して,そのことを社会に対して保証する,自分たちの質というものを,自分たちはこういう形でコントロールしているのだということを保証するという意味がありますから,1つの方法としては,職能集団自体が自分たちの質を保証するということはありうると思いますね。

地位の向上をめざすことと専門性は別

山内 資格は,絶対的な数にもある程度依存するのではないでしょうか。例えば,自動車運転免許は何年かごとに更新もしているわけですが,「車の運転の専門家」とは言いません。でも,先ほどの意味合いからすると,一応道路交通法を遵守し,車を運転することについての質は第三者が評価しているのだから,専門性を持っているということになってしまいます。こう考えると,専門家というにはある程度の絶対数みたいなものがあって,それを概念的な定義ではなく,数的なバランスも無意識に考えているのではないかという気がします。
立岩 確かに(笑)。たぶん20歳以上の男性の98%が運転免許を持っていますよね。それを専門家と言うかとなると,普通は言いません。それで思うのは,例えば看護の地位の向上,社会的なステータスの向上と専門性というものがしばしばリンクさせて語られるのだけれど,それはちょっと慎重に考えたほうがよいのではないかということです。看護という仕事は「他の人にはできない仕事」という意味での専門的な仕事だから,もっと地位を上げなければいけない,と言わなくてはならないのか。僕はちょっと苦しい気がします。 看護という仕事は,歴史的にはボランティア精神みたいなものが論じられたり,女性の仕事という認識があって,社会的地位が必ずしも高くなく,どこかで無償性みたいなものとリンクされています。それは,男女の力関係ということも含めて発言力がないとか,病院の中での権限が小さいということにつながるのですが,そのことと専門性のあるなしの話は,分けて考えたほうがよいでしょう。
 確かに,他の人には真似のできない看護を実践できる看護者もいるでしょう。そして,それに特別の資格や名称を与えることがあってよいと思います。でも,それはあくまでも看護という大きな,たくさんある仕事の中の一部分であって,それがいかに専門性が高いと証明し,力説したところで,それ以外の,もっと一般的な看護と呼ばれる日常業務を何十万という人がやっているという事実は残るわけです。もし,大切なことは看護全体の底上げ,地位の向上だと考えるのであれば,「私は他の人にはできないこれができます」という主張の仕方では限界があるのです。別の言い方で訴えていかなくてはいけないと思いますね。

看護職は何をする人?

アメリカにおける看護の資格

中木 日本では,看護職の資格はいわゆる看護婦と准看護婦の2種があるわけですが。一方では,その上というと語弊があるかもしれませんけれど,日本看護協会が養成をしている資格として認定看護師と専門看護師の存在があります。アメリカになるともうちょっと広いですね。医師の代わりをするナース・プラクティショナー(NP)という資格もあります。アメリカの状況は山内先生がよくご存じだと思いますが。
山内 アメリカでは,いわゆるCNSという,日本が専門看護師のモデルにしている資格があります。アメリカでの専門看護師というのは,看護の中の特化した仕事を専従的にやるために,それを保証する資格と言いますか,グループ分けしたものとして始まっています。それが,例えばNPのように,これまでは医師だけがやっていた領域まで踏み込んだことで,看護が本来持っている業務を持ちながら医師の業務も行なっています。つまり,看護の業務をある意味で上にも横にも広げていった形だと思います。分担を狭くして,今までよりも深くという分化の仕方もありますが,日本の場合は専門特化型に進むような気がします。
立岩 そういう形で,ある分野を得意とする人というのが出てくるのは,ある種の必然性があると思いますし,その人にある種の認定を与えることにもそれなりの合理性があります。ですから,その方向にいくのはありうることだし,それ自体を否定すべきものではないでしょう。
 ただそのことと,先ほどの繰り返しになりますが,看護なら看護という職自体の大切さを主張するとか,権限を強化する,地位を向上させるということとはイコールではありません。それを頭のどこかに置いておく必要があると思います。
山内 直接には関係のない話ですが,実はアメリカでNPの資格を取ってきました。その免許は州政府が発行するのですが,認定はいろいろなところがします。最も大きいのは,アメリカ看護婦協会の下部組織の認定センターで,そこの試験に合格すると「NPとして認定された」と名乗れます。それ以外に,アメリカ・ナース・プラクティショナー協会も認定をしていますし,認定は認定,免許は免許といわゆる2本建てで混乱している状況とも言えます。
 で,その免許はアメリカ国内のどこでも使えるのかというと実はそうではないのです。私はニューヨーク州のNPの免許を持っていますが,もしこれだけだと,例えばオハイオ州では書き換えができません。なぜなら,アメリカでは州が違えば国が違うと思っていますから,ニューヨーク州で認定されているものがオハイオ州で認定されているものと等価であるという保証がないという理由からです。
 しかし,私はアメリカ看護婦協会のNPの認定を受けていますので,それを持ってニューヨーク州の免許を受ければ,一応ニューヨーク州の免許のレベルもあるし,全国統一レベルもあるからということで,他の州の免許への書き換えも可能なのです(笑)。ごちゃごちゃですね。
中木 合理的といえば合理的なのかなぁ。
山内 アメリカで看護学生をしていた時のことですが,病院で単純に「看護婦は何をする人ですか?」と質問をしたことがあるんです(笑)。シーツ交換は助手がしますし,栄養や食事のことは栄養士がします。で,答えは,薬をきちんと管理することだというのです。薬は,薬剤師のいる薬剤部から下りてきますが,患者さんが薬を飲むのをきちんと確認し,管理するのは看護婦の仕事です。アメリカにも日本の准看制度のようなものがあるのですが,この薬の管理と服薬確認は許されない業務でした。そのようにはっきりと,業務上のアイデンティティがありました。ただ,それは自分の専門とする分野,例えば心臓をみる人だとかいうのとは別の話です。

医療職は患者に使われる人?

中木 1人ひとりの患者さんの面倒をみるプライマリナースがいて,「この患者さんにはこういう問題があって,それは私の手には負えない」となった時に専門看護師に来てもらうというように,うまく利用して問題が解決していけば,すごく便利になるだろうとは思います。しかし,専門看護師のほうが偉い人,と思ってしまうとダメかもしれませんね。立岩 そうなんですね。分化していくということは,ある種のパーツになっていくということでもあります。細かいことが深くできる人と,全体をみる人とがいるということです。どっちがどっちということは本来ありません。むしろ後者に看護の特質があるかもしれない。
 医師は,かかりつけ医という話も一方にありますが,大きな病院ではどんどん細かいところの専門家になっていく。そういう意味で,看護という仕事はプライマリという形で患者さんを一手に引き受ける。つまり,その患者さんに対して最も責任のある仕事ということになり,薬ならあの人,手術はこの先生と考えていくようになればよいのでしょうね。 その意味では病院の中の力関係と言いますか,権限の問題にしても,もしかしたら1つひとつのことに特化していく医師よりも,プライマリな窓口に立つ看護婦のほうに大きな権限,発言力を与えていいのだという話も成立すると思うんですね。特化していくことにアイデンティティを見つけることも必要ですが,それとは別に,看護自体はプライマリに人に接していく仕事だということを保持した上で,病院の中,社会の中における自分たちの地位,立場というものをはっきりさせて主張していくことは,僕は可能ではないかと思っています。
中木 それが大事なことだと思います。最初のところで,障害を持った人たちがケアする人を「使う」とおっしゃいましたよね。ナースも医師も,実は患者さんに使われるわけですね。
立岩 患者さんが医療職を使うという時に,とりあえず使われる側の代表という感じで看護職が出てくる。医師は,場合によっては,使われる人に使われる(笑)ということになりますね。
中木 主治医とプライマリナースがペアを組んで,うまく考えていくというのが,最も現実的かもしれませんね。
山内 主治医制度のもとでは調整役を担当医師がして,担当医師はその任を務めながら自分の専門もしているわけです。ただ,プライマリ制度が導入されてくると,これはまた数の話になってしまうと思います。つまり,その形が優先されるとプライマリナースという振り分け係が何十万人も必要なのだろうか,という話になってきます。

「看護教育」は何を教えるのか

伝統的教育の継承とやくざな社会学

立岩 それは,教育の話にもつながっていきますね。先生がおっしゃったように病気を持っているという前提で人に接していく仕事である以上,当然医学的な知識も必要になるわけです。だけど,それを深めていけば医師と同じになる。それなら医師になればいい。やはり看護の特色は別のところに存在するわけです。ただ,それをどう教えるかが問題です。最低限,どういうことをやってはいけないのか,どういうことをすべきかは,マニュアル化しやすいでしょうし,その人が覚えたかどうかのチェックも試験や実践でわかることです。
 ただ,看護という仕事が最初から存在する微妙さというのでしょうか,介護には,とにかく言われたとおりにやればいいんだということがありますが,身体と心の両方が弱っている場合には,そうとばかりも言い切れない部分があると思います。一方で,それはある意味でパターナリズムと友だちというか(笑),きわめて微妙なところになるわけですね。
中木 たぶん,そういうところで大学教育が必要とされたのではないかと思います。専門学校は,こう言うと叱られるかもしれませんが,どちらかというと躾けが厳しくて,技術をたたき込まれる場という感じがありますよね。押しつけといってしまうと語弊があるでしょうが,悪しきパターナリズムみたいなものが存在していて,まるで患者さんのニーズをちゃんと満たしているかのように錯覚してしまっている感じが強かったと思います。それが,大学教育になると「この患者さんに最もよいのは何なのか」を考えていける能力を身につける教育となりますし,そこに期待しています。
立岩 社会学というのは,もともとやくざなところがありまして,昨日作ったことを明日引っ繰り返したりすることを始まって以来やっているんです(笑)。僕が看護系の学校に来て思ったのは,やっぱり「学」にも僕のやっている社会学のような極端にやくざな学問と,先祖代々みたいな学の2通りあるなということだったんです。
 看護学とか医学というのは,もちろん新しくなっていきますが,どちらかというと基本的には先祖代々の学という感じがありますね。偉い人がいて,それを拝受していく。看護教育自体がそうだったと思います。医学の影響でしょう。社会学がよいとは言いません。自己破壊的なことばかりやって非常に非生産的なのですが,どこかで自分のやっていることを「あぶないぞ」という目でみている。それを自覚できることは大切なことで,今までの先祖代々伝授されていくという形の教育システムとは反りが合わないと思うんです。
 そういう意味では,自分のしていることの危うさを自覚する,あるいは自分の仕事を相対化してみる視点を持つと同時に,例えば病院や医師に対して発言したり議論を持ちかけ,自らを主張するということ,この2つが看護を正当に評価するには必要で,大きな意味で教育をどうしていくかということの基本的な話だと思います。
中木 大学教育はそういうところをめざしていくのでしょう。かなり個人個人の学生の能力を引き出そうとしていますね。

専門学校と大学教育の違い

山内 これは一概に言えないのですが,私が本当にびっくりしたのは,医師として看護学校の授業を担当した時に,教室に入ったら教壇の机の上に座席表があって,「起立,礼!」が始まった(笑)。この人たちは,高校を終わってきた人たちなのに,また小学校に戻っているのかと思いましたね。
立岩 僕も,最初に非常勤講師をしたのが看護学校なんですが,教室のサイズはちょっと大きいですが,小学校と同じように座席表があって,「起立,礼!」でした。
山内 確かに,ある程度のスタンダードを教える時には,教えるほうも教わるほうもスタンダーダイズしたほうがいいと思いますが,看護という仕事は,スタンダードとして言われたことをやればそれでいい仕事ではなく,もっと深く広い仕事だと思います。仕事をやるにあたって,ミニマムのスタンダードだけを手いっぱい教えるだけでは,せっかくの能力を生かしきれなくて,逆に無理にそこに押し込めてしまう形になってしまいます。今,大学教育ではしきりに「クリティカルシンキング」が言われています。ただ,これについてもどうしたらクリティカルシンキングできるかというハウツーを教えようとしていること自体をクリティサイズしなければいけないと思います。
中木 私は,「看護診断」というものを教えているわけですが,ミニマムをいっぱいあげて,こういうデータがある患者さんはこういう診断だよ,ということは教えていません。その看護診断の背景にある心理学とか社会学など,裏づけとなるようなものを基にして診断ができあがっているんだよ,という教え方をしています。そうしておくと,マニュアルみたいなものを持っていても,そういうことを思い出しながら患者さんをみてくれるだろうと思っています。
 実習の時にも,時間があったら患者さんに今までの人生を聞いてみるとか,あるいは病気とどうつきあっているのかという話も聞いてみたらと指導しますと,ぜんぜん違うことが聞けたと喜んで帰ってきます。
 大学教育の中でも,どうしても免許を取らせるための教育というものがあるから,そこは型にはまったものを最低限押さえなければいけませんが,それプラス,自分のやっていることを常に疑って,もっと患者さんを理解するためにはどうしたらいいかというようなところに自分を持っていけるような教育が理想になりますね。

「看護学」は確立できるのか

内の世界にとどまらず他流試合を

立岩 教員自身が徒弟修業の教育システムの中で教員になってきたわけですから,学生と一緒に議論するといったことが難しいのは事実だと思います。それが,看護系の大学院等に行かれるようになることで,解消していけるのかどうかですね。それよりは,むしろ他流試合というか,学士は看護で取っても,修士は社会学がいいとは言いませんが(笑),少なくとも人文社会系の大学院というのはディスカッションしたり,人のことをバカにしたりすることが平気でできるところではありますから(笑),そういうところで他流試合をしたほうが,教員になられる人にとってはむしろよいのかもしれないと思ったりします。
山内 私は,日本の医学系の大学と大学院を終えたあとにアメリカで看護の学部と大学院を経験したわけで,いろいろな垣根を越えた形で勉強をした気がします。
 アメリカではファミリー・ナース・プラクティショナーのコースをとりましたが,そこで看護がどう使われるかは別にして,ファミリー・ダイナミクスとはこういうものだということをその道の専門家に聞くことができましたし,ある意味で枠が取っ払われるような教育を受けました。それがすごくよかったと思っています。
 結局,受益者と言いますか消費者は,看護のことをよく知っているわけではありませんし,人は一生のうち何度も病気になるわけでもありません。病院にいると,みんなが病気をするように見えますけど,病気になるというのは人にとって一大事のことです。そういう非日常のイベントが起こった人を理解するためには,自分たちがいる病院の世界しか知らないようでは,ますます距離が離れていってしまうと思います。そういう意味では先生がおっしゃったように,できるだけ他流試合をして,ある意味で社会人というか常識人としてのセンスを維持する努力,それを伝えるルート,チャンネルを残しておかないと,その世界の善を押し通してしまうような気がします。

看護の核と土台

立岩 「看護学の確立」という言葉をよく耳にします。その言葉に込められている大変重い思いはわかるような気もするのですが,どうなんでしょう。
 学問には2種類ぐらいあって,例えば経済学は,最初のミクロ・マクロ公理から始まる学問で,だから嘘っぽいところもあるのですが(笑),教科書にはだいたい同じことが書いてありますよね。でも,「社会学とは何ぞや」となると,社会学者1人ひとりが全部考え方が違うわけです。だから,「社会学は学問じゃない」という話もあるのですが(笑)。
 看護学はそれでは困るかもしれませんが,あまり「……とは何ぞや」みたいな形で純化していくだけが学問ではありませんし,もっといろいろあったほうが,かえって看護という仕事にとってはいいのかもしれない,ということも思います。
山内 私が思っていたことも今のお話と同じで,例えば数学のように,何か種があって,それが膨らんでいって形ができるものと,まず現実があって,それの皮を剥いて芯を探していく両方の作業があると思うんです。でも,もしかしたら,看護学はタマネギみたいで剥いていくと何も残らないのかもしれない(笑)。だから,「これが看護学の種ですよ」というのはなくて,でもいろいろなものが寄り集まった存在であって,1が10個集まると10かもしないけれども,固まり方によっては10以上のものになったりするわけです。また,その並び方,関係という存在が新しくできるわけで,そういうものがもしかしたらエッセンスだとなれば,純化というものにも限界があると思いますから,どちらかの方向だけを追究するのではなくて,どちらも探していかないと……。実学というのはそういうところが大きいのではないでしょうか。
中木 山内先生のおっしゃった,剥いていったら芯に何もないという,そういう恐れというのはすごくよくわかります。別の言い方をすると,上から順番に削っていった時に土台がないというのか,実は土台はあるのだけれども,その土台をあまり明らかにしたがらない。それはなぜかというと,「看護学の確立」という言葉に代表されるように,看護学だけで1つの独立した固まりのようにしたがっている気がします。学生に看護診断を教える時に,社会学のある部分をそのまま持ってきてもテキストに使えるんですね。別のところは心理学のある部分がそのままテキストとして使えるわけです。そこに患者さんが必要としているサービスをつないでいくと,そういう学問とぴったりつながっていくという現象があります,つまりは応用科学ですよね。
立岩 対象で規定することができるわけですね。病気をしている人とのかかわりについての学問とか,病気をしている人とのかかわりについて考える学問であるとか,そのくらいアバウトな定義でいいのかもしれないし,それについてどう考えていくのかについては諸説あるのかもしれません。
 看護系の学会発表なんかを見ていますと,もちろん統計調査も必要な時には必要ですが,その全体に占める割合がひどく大きい。そうした手法で調べられることだけが調べられる。そして,「もう知ってる」「調べなくてもわかってる」という結果が多い(笑)。それは看護学に限らないのでしょうが,僕の感覚だと,看護とか看護学はもっとおもしろい学問であり,もっと調べるに足る,考えるに足る学問領域だと思うんですね。それが,ある種の自然科学主義みたいなものに引きずられいるというのか,論文の書き方1つにしても形が決まっている。看護は自然科学的なものとはもっと違う領域にも広がっているわけで,ある種の統計に偏った研究論文が多いことが看護学をつまらなくしていると思うのですが。
中木 これからの看護学とか看護の専門性を考える時には,「なんでもあり」の社会学がいちばんおもしろい気がしますね(笑)。なんでもありのわりに,かっちりしたものもたくさんあるわけですから,社会学のおもしろいところをうまくつまみ食いして,自分たちと患者さんとの関係でそれを利用していくことで専門性につないで,新たな変化,専門性の変化というものを作りあげていったらよいと思います。  今回は,男性だけの,しかもちょっとジャンルを異にした者たちが看護を語ったわけですが,とてもおもしろい話し合いができたと思います。今日はありがとうございました。