医学界新聞

〈連載〉

国際保健
-新しいパラダイムがはじまる-

高山義浩 国際保健研究会代表/山口大学医学部3年


〔第7回〕祖国に帰った子どもたち

 21世紀は「難民の世紀」となるかもしれない。東西冷戦の瓦解をきっかけに,世界各地で噴出している民族紛争は止むところを知らず,そのすべてから難民が発生している。
 僕が,「難民」の存在を知ったのは小学生の時だった。カンボジア難民が大量発生した頃で,ボートピープルがしばしば日本に漂着するなど,当時のメディアは難民問題を積極的に報道していた。同じ年頃の子どもたちが国を逃れ,難民として苦境に立たされている姿は,ものごころついた僕にとってある種の衝撃であった。
 それから15年後,僕はカンボジアの土を踏むことになる。遠い記憶は確かに僕を支配し続けていたのだろう,あの時の家族がいまどうしているのか,僕はとにかくそれを確認しようとしていた。
 今回は,そうした過程で知り合ったセンさんという家族を紹介する。そして,「難民キャンプ」という特殊な空間が,子どもたちにどのような後遺症をもたらしたのかを考えてみたい。

家族の歴史

 チャン・センさんは,1958年にプノンペンで生まれた。彼は伝統舞踊を学んでいたが,彼が17歳の時に,ポル・ポト政権樹立によりプノンペンを退去させられた。都市生活者を粛正する政策により両親は虐殺され,彼自身は4年間にわたり農村で強制労働させられたらしい。現在の妻とはその間に出会っている。
 1979年にポル・ポト政権が打倒され,内戦は激化,戦火を逃れてセン夫妻はタイ・カンボジア国境にある難民キャンプに収容された。そして,そこで4男1女,つまり5人の子どもたちをもうけた。
 センさんは,難民キャンプでの生活は総じて楽だったと言う。配給によって食糧,日用品など必要なものは何でも手に入れることができたからだ。そして,子どもたちも本当に幸せだったと言う。本や鉛筆,おもちゃに至るまで援助でもらえたし,病気になれば難民キャンプ内の病院で診てもらうことができた。ただし,外国人が偉くて,カンボジア人はお世話になりっぱなし,という異文化優位の環境の中で,子どもにカンボジア語や文化をしつけるのにはそうとうな苦労をしたらしい。また,自由も不自由もない単調な生活が何年も続き,子どもたちに未来を切り開くこと,そのためには勉強しなければならないことを理解させることが難しかったという。
 1992年,カンボジアは国連の管理のもと新政府を樹立。その翌年の2月に,センさんは妻の親戚のいる村に定住が決まった。親戚は家を建てるための土地と農地を譲ってくれた。そして,国連からの援助金で現在の家を建てることができた。
 1994年,国連の続けていた帰還難民に対する配給は打ち切られた。センさん一家の自立した生活は始まったばかりである。

子どもたちの性格について

 僕がセンさんの家族と出会ったのは1995年のことである。調査の過程で,たまたま彼の家を訪問したのがきっかけだったが,家族が片言の英語を理解し,またあまりに外国人を懐かしがるので事情を聞いたのが,この身の上話であった。以来,センさんの「近くまで来た時は必ず寄ってくれ」という言葉に甘えて,僕は,彼の村を訪れるたびにこの家庭を訪問した。両親は農作業に出ていないことが多かったが,子どもたちが代わりに歓迎してくれ,僕はこの5人兄弟をよく知るようになっていった。
 この兄弟は,典型的なカンボジア農村の子どもとはかなり違っていた。外国人なれしているということもあったが,それ以上に遊び方だとか,勉強への取り組み方だとか,あるいは将来の夢だとか,もろもろ「帰還難民なんだなぁ」と思わせるところが多かったように思う。
 とりわけ,この兄弟を観察していていつも感じたのは,兄弟間の交流の少なさである。カンボジアの村々を訪れていると「子と子の関係がいかに重要であるか」ということに気がつく。昼下がりの村の小道を歩いていると,必ずといっていいほど赤ん坊を抱えた10歳にも満たないような子どもを見かけるだろう。それは,両親が仕事に出かけた後は,残された年長の子どもが家を守り,弟や妹たちの面倒を見なければならないからである。しかし,センさん一家の子どもたちには,そういった交流関係がほとんど欠如していた。他の兄弟間で見られるような,面倒を見ているのか,おもちゃにしているのかわからないような「じゃれ合い」といったものも,あまり見ることはなかった。
 その理由について,僕は,難民キャンプの生活環境にあるのではないかと考える。難民キャンプでは,両親がともに出かけていなくなることは少なく,年長児が弟妹の面倒をみることを要求されることもあまりなかったのだろう。ところが,農村では毎日のように両親とも仕事に出かけてしまい,子どもたちだけが残されている。ここで,年長児は弟妹の面倒をみる訓練がほとんどできていなかったために,兄弟間の交流の少なさとして表われたというわけだ。
 実は,それが一番年下の女の子(4歳)にしわ寄せされていた。彼女は,ほとんど口もきかず友達もまったくいなかった。それどころか,家族と一緒に食事をとることすらほとんどできずにいて,誰もいなくなってから家の台所で残り物を盗み食いしていた。このように彼女が自閉的であったのは,社会性の教育が必要な時期に,兄弟による社会参加の促しもないまま,家の中に
 1人取り残されてしまったことが原因であるとも考えられる。つまり,難民キャンプと農村における兄弟の役割の違いにより,帰還難民の年少児の自閉的な傾向が助長されたのかもしれない。

農村に適応できているか

 村の子どもたちに,将来は何になるのかとたずねると,多くが農民と答える。また,金細工師や兵士,ドライバーという回答もしばしばみられる。ところが,センさん一家の長男は将来,医師になりたいという。また,次男は教師になりたいという。これは,農村ではめずらしい回答である。こうした志望の背景には,難民キャンプで医師や教師は地位が高く,カンボジア人に対し指導的であったことがあるのかもしれない。そして,2人とも自分の夢のため熱心によく勉強をしている。これも村の他の子どもたちとは一線を画している。
 センさん自身も,自分の息子たちがみな勉強好きで頭がよいことを誇らしく思っているようだ。そして,彼はよく僕に,「うちの子どもたちはね,農民が向いていないんだよ」と語っていた。その言葉には,子どもたちが村から巣立っていくであろう将来への期待と,農作業の手伝いがあまりできないことを残念に思う,入り交じった気持ちが込められていたと僕は感じた。
 難民キャンプの思い出について,長男(12歳),次男(10歳)と話をすると,彼らは口をそろえて難民キャンプが楽しかったと答え,できることなら戻りたいと訴えていた。理由を聞くと,難民キャンプでは,「友達がたくさんいた」,「学校が楽しかった」,「たくさんおもちゃがもらえた」などと少々興奮ぎみにならべたてた。
 次に,「この村での生活はどうなんだい」と聞くと,居心地の悪さを訴える答えが返ってきた。さらに突っ込んで具体例を求めたのだが,彼らは意図的であろう,答えなかった。僕の観察経験から推察すると,1つには友人との価値観の相違や話題の食い違い,そしてもう1つには,自分でやらねばならないことが増えたことに対する不満があると思われた。ただ,この話題の最後に長男が「この村に来たんだから,頑張らなければならないんだ」と,自分に言い聞かせるように語ったのは印象的であった。
 難民キャンプでの生活は,子どもたちにとっては楽しく,友人も多く,学校もあり,医療設備も充実しており,現在の生活に比べれば,安全で楽しいものであったようである。しかし,帰還先の農村の生活は,難民キャンプの生活とは大きく異なっている。例えば,遊びの内容についても,農村では川など自然を取り込んだものとなるし,両親の仕事の手伝いや留守番など,さまざまな社会的義務も生じてくる。また,難民キャンプにおける教育の質の高さによって,帰還先の子どもたちとの知能発達の差も予測される。
 このような相違が,帰還難民の子どもたちに適応への困難を与えている可能性が考えられる。難民小児の帰還とは,ある文化から異なる文化への移住と捉えることができる。さらに,難民キャンプの閉鎖による強制移住という側面から,難民の帰還とはかなり特殊な移住といえよう。このような過程で育った子どもたちが,アイデンティティ,特に民族アイデンティティを形成する上では,多くの困難があるのではないだろうか。そして,年長児にインテリ志向がみられたように,伝統的な農業生活,ひいては農村文化の否定が根底にあるため,農村文化を積極的に受け入れようとする姿勢があまり見られなかったのかもしれない。こうした姿勢が,農村文化の受容過程の摩擦をさらに増大させてしまっている可能性がある。

帰還後を意識した難民キャンプ運営を

 これまで,僕たちがしばしば耳にする難民問題とは,難民受入国の体制のことや,経済的な影響のことであり,先進国の内側で議論が終始している印象がある。また,難民の精神保健についても,いくつかの報告があるが,そのほとんどが,先進国に移住した難民についてのものである。しかし,20年以上にわたったカンボジア紛争においては,難民キャンプで結婚し,子どもを産み,その子どもが思春期を迎えた,というような家族の例がめずらしくはない。これほど長期にわたって閉鎖された空間に家族を押し込めることは,いったい何をもたらすのだろうか。
 「3年間何もしないで過ごせば,戦争に行かなくても気が変になる」とは,旧ユーゴスラビア難民を観察した心理学者リディア・ザコバの言葉である。
 しかし,難民キャンプにおける精神保健については,ごく少数の報告があるのみでほとんど議論されてきていない。特に,難民の子どもに対しては目が向けられてはいない。だが,局地的な紛争が多発し,各地に難民キャンプが設営されている今,そこで生まれ育つ子どもたちに目を向け,難民キャンプという特殊な環境が,彼らの発達にどのような影響を与えるのかを検証し,必要な対策を準備すべきではないだろうか。また,いずれ彼らの多くは,彼らにとってはすでに異文化ともいえる自国へと帰還することになるが,そこで適応しやすいよう考えていかなければならないだろう。
 難民問題とは,「保護をもってよし」とすることはできない。国を逃れ,心に傷を負った人々を救援し,再び国に戻るのを支援する。そして,彼らが今度こそは平和な国づくりに成功する。その時はじめて,難民問題が解決したと言えるのではないだろうか。その意味で,センさん一家の5人の子どもたち,彼らにカンボジア難民問題の解決は委ねられているということになる。