医学界新聞

1・9・9・9
新春随想

不用意の用意

森田茂穂(帝京大学医学部教授・麻酔科)


 過日,洗足池を散策し,勝海舟の墓を訪れた。墓には「海舟」とのみ刻まれ,裏には「明治三十二年一月二十一日」とあるだけで,俗なものは一切ない。石塔の形とともに海舟の指定であったという。この地はもともと津田英学塾を開いた津田梅子の父津田仙にすすめられて,海舟が二百五十両で買い,“洗足軒”という藁葺き屋根の別荘を作った。「富士を見ながら土に入りたい」と言って海舟はここを自らの墓地に定めたという。海舟の墓の隣接する場所に,西南戦争で亡くなった西郷隆盛の碑がある。明治になってから,海舟は西郷とこの洗足池のほとりでよく語ったという。
 今年1999年は勝海舟没後,まる100年にあたる。海舟は1823年1月31日(江戸本所亀沢町)生まれ。激動の幕末,明治維新の時代を生き抜き,1899年1月19日に倒れ,21日逝去した。この間,日本の歴史の多くの局面で海舟の日本を思う真情と尽力があった。幕臣でありながら幕府の存続よりも日本国家の存続を願った。徳川慶喜に対し,「海軍を使えば必ず官軍に勝てる。だが,その作戦を実行すれば欧米諸国か混乱につけ込んでくるだろうし,民衆は塗炭の苦しみに陥る。これでは,旧幕府の『私』だけが先行してしまう。大切なのは欧米諸国に伍していける一国としての日本の将来を思う『公』の立場をとることである」と説くかたわら,徳川慶喜への切腹要求を西郷に却下させ,江戸城の無血開城を成した。維新後は徳川の没落士族の救済に努力しつつ,国内の「和」を維持し,1898年,徳川慶喜を天皇に拝謁させ,徳川家の名誉回復に努めた。一方,長崎海軍伝習所などで,後世活躍する多くの逸材の育成に力を注いだ。そのような海舟の尽力が一因ともなり,外圧下においても日本は独立を維持することができた。
 今日さまざまな外圧が日本に押し寄せている。21世紀に向けて社会システムにも多様化が進んでいる。医療分野も2000年以降,規制緩和(英語のderegulationの訳は規制緩和というよりは規制撤廃を意味する)の対象となることが決定している。多様化しつつある社会には多様化した人材が求められる。医学部を卒業する者の中には,単なる医者としてある科の専門医として一生を過ごすよりも,他の分野にも才能を十分に発揮し得る可能性を有している人材が多く存在するのではないか。事実小生の属する医局では,米国でレジデントを終了した後,米国の大学院でMBA(Master of Business Administration)を取得してきた者もいる。ダイナミックに動く社会の中にあって,「医者であっても医者でない」人物が輩出してくることは,多様化・国際化を目の前にした医学界や社会を強固にする方策の1つであると考えている。海舟は事を成すにあたって,周到な用意を怠らなかった。しかも,十分に用意をしておきながらそれにはこだわらない。あくまでも柔軟な行動をとった。これを海舟自ら“不用意の用意”と言ったという。このような十分な用意をしつつ,かつ柔軟な行動をとれるようにすることの重要性は今も変わらない。とりわけ資源に乏しい日本が21世紀を生き抜くためには,グローバルな視野に立った国際競争力のある人材,他国,とりわけアジア諸国から尊敬される人材,あるいは海舟の言う用意周到でかつ柔軟な行動を取れる人材を,日本から輩出することが重要であると考える。
 まさに「人は城,人は石垣,人は堀」である。将来の日本,否世界を生き抜く次期世代の人材の育成に何か少しでも役に立てることがあればと思う。