医学界新聞

〔連続座談会〕

脳を守る I.創薬

野々村禎昭氏
帝京大学医学部教授(編集)
大塚正徳氏
東京医科歯科大学名誉教授
伊藤正男氏
理化学研究所脳科学総合研究
センター所長〈司会〉

宇井理生氏
東京都臨床医学総合研究所所長
板井昭子氏
医薬分子設計研究所所長


 最近,脳科学の推進が軌道に乗り,めざましい成果が期待されています。わが国の脳科学の研究計画は「脳を知る」基礎研究,「脳を守る」臨床病理研究,「脳を創る」情報科学研究の3つの柱からなり,これら3方向の研究の密接な協力体制により,研究の急速な進展をはかり,成果の社会への有効なフィードバックをめざすものです。
 この中で,脳を守る実際の方策について可能性を詰めてみると創薬,再生移植治療,遺伝子治療の3つが大きく浮かびあがってきます。創薬の歴史は古いのですが,脳科学の進歩は新しい創薬の原理を生み出しつつあります。再生移植治療,遺伝子治療はいずれもまだ20年の歴史しかない新しい分野で,まだまだ実験的な域を出ないと思われてきました。
 しかし,この3つを組み合わせれば,脳神経関係のほとんどの病気に対して有効な治療法と予防法を生み出すことができ,長い間治療法のない脳神経の病気に苦しめられてきた人類に福音をもたらすと期待されます。このため,世界的にもこれら3方策の実現をめざして強力な研究推進が図られ,果敢な試みが行なわれています。
 この連続座談会は,21世紀を目前にして,これらの3つの方策の現状と将来性について縦横に論じ,「脳を守る」脳科学の大きな可能性を展望するために企画されたものですが,図らずもわが国の研究体制の不備を指摘する場ともなりました。研究費だけでなく,研究インフラ,科学技術政策,医療行政,産学共同,ベンチャービジネスから研究者の気質や日本人の国民性にまでおよぶ多くの問題点が指摘され,1999年の夢を語るとともに,わが国の研究体制の抱える多くの問題の速やかな解決が要望されました。
 この連続座談会の記録が今後の「脳を守る」脳科学の進歩に向けての研究のよいガイドラインとなることを期待しております。

(『生体の科学』〔(財)金原一郎記念医学医療振興財団発行/医学書院販売〕
編集委員会:伊藤正男


〔連続座談会〕 脳を守る 全3回の構成と出席者

II.再生移植治療(司会=伊藤正男氏)

川口三郎氏(京都大学脳統御医科学系認知行動脳科学科教授)
高坂新一氏(国立精神・神経センター神経研究所代謝研究部長)
西野仁雄氏(名古屋市立大学第2生理学教授)
(編集)石川春律氏(群馬大学第2解剖学教授)
第2324号に掲載

III.遺伝子治療(司会=伊藤正男氏)

豊島久眞男氏(大阪府立成人病センター総長)
小澤敬也氏(自治医科大学分子病態治療研究センター教授)
中福雅人氏(東京大学脳神経医学神経生物学助教授)
(編集)藤田道也氏(浜松医科大学第2生化学教授)
第2326号に掲載

創薬の戦略

伊藤(司会) 今回は創薬でどこまで「脳を守る」ことがカバーできるのか詰めて考えることがテーマです。一般に基礎研究と臨床応用の間には大きな溝があり,これを超えるための特別の努力と仕組みが必要ですが,脳科学の研究から創薬に本当にどのようにつながるかを考えることも重要です。創薬には経験的な要素が強かったのですが,基礎研究がここまで進んでくると大きなヒントが出るという期待が高まります。しかし,その実際の可能性はどうなのか。また,1つの薬を創るためには,大変な投資と時間とさらに行政やベンチャーのありかたなど種々の社会的な問題が絡んできます。これらの問題を通して議論していただければと思います。
板井 一般的には,以前は痛みが止まるといった薬理活性が偶然に見つかった化合物を基に薬が作られてきましたが,最近はほとんどが生化学的メカニズムに基づいて作られます。基礎研究の成果から薬が生まれることも多くなり,基本的には発症のメカニズムがわかれば薬は作れると言っていい状態になってきています。しかし,脳に関しては,例えばアルツハイマー病についても,アセチルコリンの減少やアミロイドの沈着などの所見は見られるのですが,原因なのか結果なのかはわからないので,薬を作るほうも攻めようがありません。メカニズムの解明が急がれますし,脳についての基礎的な研究がもっと必要だと思います。

受容体が鍵か

大塚 今までの薬は大部分が受容体か酵素,病原体に働くわけで,それにトランスポーターを入れると全体の8割ぐらいになるのではないかと思います。そうすると,パーキンソン病はいくらか受容体というアイデアがあり得るかもしれませんが,それ以外の神経変性疾患では,酵素や受容体などは別の概念が必要ではないでしょうか。
宇井 私は薬のターゲットは当分,受容体に限られるだろうと思います。薬は結局は細胞の機能を変化させるように作用するもので,その際の機能は細胞外からもたらされる情報に対する応答です。その情報は必ず受容体によって受容され,細胞内の情報伝達カスケードを伝って最終的に細胞応答を引き起こすわけです。この細胞内情報伝達系に関する研究は最近急速に進歩し,膨大な知識が集積しつつあります。このような基礎研究の結果,発見された細胞内情報伝達カスケードの構成メンバーが薬のターゲットになるならば,新しい薬が開発されることになります。
 しかし私は,細胞内情報伝達物質に直接作用する物質は,よい薬になり得ないのではないかと悲観的に考えています。なぜならば,これらの情報物質の作用は,生理的には受容体を通って入ってくる情報によって支配されているわけですから,受容体を介さないでその作用だけを変える物質は,細胞全体としては都合が悪い。その情報物質の働きを調べる試薬としては有用ですが,医薬としては副作用が強い可能性が高いのではないでしょうか。
大塚 細胞間のメッセンジャーに対する細胞表面の受容体は非常に多様ですね。それがセカンドメッセンジャーになるとわりあい種類が少なくなっているのですね。
宇井 「細胞膜受容体を刺激した時,最初に細胞内に生成する物質」がセカンドメッセンジャーの定義です。物質が生成するのではなく,Ca2+がチャネルを通って細胞内へ入ってくるようなケースが増えたので,セカンドメッセンジャーという表現は最近あまり使われなくなりました。
 いずれにしても多くの受容体が同じシグナルを発生させ,そのシグナルが次々とカスケードを形成するのですが,これも互いにオーバーラップしていて,情報伝達ネットワークと呼ぶべきものがただ一種あるだけという状態でしょう。細胞内情報伝達ネットワークを動かすために受容体という窓口が存在するのだから,そのルートを使うべきで,それを外してネットワークを動かそうとするのは無理だというのが私の持論です。
大塚 宇井先生のような方が,薬というのは細胞間メッセンジャー,あるいは受容体が基本で,細胞内は二の次だとおっしゃると非常に重みがあると思うのですが。
宇井 細胞内の情報伝達系を専門にしている人間が言うのですから,自分で自分の首を締めているようなものです。
 神経伝達物質,ホルモン,サイトカインなど細胞外メッセンジャーの濃度は,生理的にも非常に大きく変動します。受容体のアゴニストやアンタゴニストを薬として使えば,それら自体はもともと身体にとって異物であっても,外から受容体に到達するメッセンジャーの濃度を変化させるのと同じ効果を示すだけですから,細胞にとっては少しも不自然ではないと思います。
 要するに受容体にもたらされる生理的情報が増えるか減るかだけの効果ですから,細胞がいつも経験していることです。そのように考えればイオンチャネルの開閉や物質のトランスポーターの活性を変化させる物質もよい薬になると思います。
野々村 しかし細胞内のものは非常に数が限られているから。それをやれば全部だめになってしまうでしょう。ちょうど抗癌剤の副作用と一緒です。しかし受容体には特異性が結構あるから,それを活用すればいいと思いますが。
宇井 細胞内の情報伝達系はあくまでも受容体からきた情報を受けて動いているわけで,それは生理的なルートです。ですから薬というのはなるべく生理的なルートに乗せようということです。抗癌薬とか免疫抑制薬などはどんなルートでも,癌細胞や免疫担当細胞を殺せばよいのですから,細胞内情報伝達系に直接作用するものも薬になります。
 サイクロスポリンなどがよい例で,カルシニューリンを直接強力に抑制しますから,研究上の試薬としても有用ですし,免疫抑制薬としても優れています。

ペプチドはどうか

伊藤 大塚先生はペプチドを長年研究されてこられましたがいかがでしょうか。
大塚 サブスタンスPやタキキニンの拮抗薬が出始めてからかなり経ちますが,特に1991年にnonpeptide アンタゴニストが初めて報告され,最初は鎮痛薬として期待されました。
 確かに,nonpeptideのタキキニン受容体拮抗薬は鎮痛作用を持っているのですが,臨床的に顕著な鎮痛作用はなかなか見られませんでした。しかし最近,うつ病に効くという報告が出ました(「Science 281:1640,1998」)。NK1型のタキキニン受容体拮抗薬をうつ病患者に用いると顕著な抗うつ,抗不安作用が見られ,その強さは従来の抗うつ剤のセロトニン取り込み阻害薬に十分匹敵するものと報告されています。ペプチド関連の薬物はこれから出始めるかもしれないですね。
宇井 ペプチドの有効なものを見つけるのは比較的容易です。しかしペプチドそのものは吸収や体内分布ないしは血中における代謝の問題かもしれませんが,あまり有効でない。nonpeptideになって初めて薬になるということが経験的にはあります。
板井 そうですが,受容体を見つける手がかりになることと,生理活性ペプチドがわかったら,それをラベルして受容体に結合するnonpeptideを探す目的に使えるわけですから,基礎研究がそのまま薬の出発点になるとよい例だと思います。
伊藤 生体のペプチドは何千とあるという話ですね。脳の中にはそうはないでしょうが,ある1つのペプチドは脳細胞の全部でなくて一部にあります。
 私も最近CRFが小脳にあるので関心を持っているのですが,あれはストレスホルモンで,この過剰生産がうつ病の原因だと言われています。
大塚 1999年のアメリカ神経科学会の前後に「Peptides at the Millennium」と題し,今後の発展を展望したシンポジウムを行ない,ペプチド研究を活性化しようという企画があります。これまではペプチド関連の創薬は,あまり期待通りいかなかったので,これを契機にもっと大きな進展が起こることを期待しています。
宇井 いまや肥満の問題もほとんど脳のペプチドが原因であると言われています。抗肥満ホルモン,レプチンの中枢作用には視床下部ペプチドやニューロペプチドYの分泌が関係しているのでしょう?
大塚 そうですね。ニューロペプチドYは脳に大量に存在していますから。
宇井 もともと脳腸ホルモンという言葉があるように,消化管ホルモンはほとんど脳にもあるということですからね。肥満にさえ中枢が絡むというのもなるほどという感じがします。
 身体の働きは文字どおり「中枢」が握っているのですから,中枢神経に作用する物質の有効性は脳の病気に限らないのは当然なのでしょうね。
伊藤 ただ,脳のほんのごく一部の細胞しか持っていないペプチドを見つけ出すのは至難の技ですね。
 下等な生物を徹底的に分析するとたくさんのペプチドが出てくるので,それに皆抗体を作り,脳の中を片っ端から染めていく戦略を最近聞きました。
大塚 いま知られている神経ペプチドについて,その受容体アンタゴニストを作って,それがどういう病気に効くかを突きとめるだけでも進歩があり得ると思います。

発達と老化,予防の見地から

伊藤 かつては天然物から薬が抽出され,ついで合成化合物が使われましたが,いまは受容体やメッセンジャーが出てきて,この先はどうなるのでしょう。
 神経科学学会の内容を見ていると,発達神経科学の演題が増えてきています。発達神経科学が次の薬の基盤になるのではないかなという気がしてしようがありません。脳を作る過程を制御する物質が薬にはならないのでしょうか。
宇井 その場合,今までのような低分子物質や抑制因子が介在しないで,細胞同士の接着が重要になると思います。もっとも細胞接着を促進したり,抑えたりする低分子物質の開発は考えられますね。
野々村 私はアルツハイマー病やパーキンソン病,また精神病のいくつかもみな老化と関係するのだから,老化の遺伝子が解明されれば,そこからアプローチできると思います。筋ジストロフィー症についての遺伝子治療への努力を考えれば,脳の疾患に対する遺伝子レベルのアプローチは,結構未来があるような気がします。
 今は対症療法でいいと思います。というのは,脳の疾患の病因は本当はわかっていない。それを明らかにするのは遺伝子レベルからだろうし,対症療法に使っている薬から逆に病因に近づこうとしているわけでしょう。精神科の疾患などはそう思います。
 伊藤先生が発達神経科学に触れましたが,むしろ脳の場合には老化の過程が重要だと思います。その点では,Klotho遺伝子などの老化遺伝子の解明を一緒に進めれば,アルツハイマー病の病因解明にも未来があるような気がします。
宇井 Klotho遺伝子が有望だと思うのは,体液性の因子を指令しているようで,体液性因子でしたら薬になりやすいでしょう。あれは期待できると思います。
伊藤 これからは病気を治すことより予防のほうに重点が移るでしょうね。
宇井 おそらく遺伝子の有用性は治療よりも診断でしょうね。
伊藤 神経系の病気は深刻ですね。数は少ないですが,医療費の20%を占めていますし,老化に伴って増える一方でしょう。

病気の克服

アルツハイマー病とパーキンソン病

伊藤 アルツハイマー病は本当に創薬で乗り切れるのでしょうか。
宇井 数日前に送られてきた名古屋大学の鍋島俊孝教授を代表とする文部省科学研究費基盤研究C「アルツハイマー型痴呆の病態と治療に関する基礎研究」のニュースレターを読むと,アセチルコリンを増やす努力がかなり進んで,いろいろな薬が開発されていることがよくわかります。
野々村 ただ,そのような行き方は対症療法と思います。いま使っている薬物は,アセチルコリンの活性が落ちているから,それを上げるというだけで,アルツハイマー病の本質は遺伝子ですね。アミロイドは数%でしたが,プレセニリンは80%ぐらいなので本質に近いわけです。
 一方,老齢で発症するアルツハイマー病の遺伝子については少しもわかっていないのに何か誤解されていて,アミロイドのほうを研究すればよいという傾向があります。結果的にはアミロイド沈着は起きますが,あれはステップがあるので,本質に近づいているわけではありません。
宇井 反論のための反論みたいですが,学生の時に,「今の薬の大半は対症療法薬である,今後君らは原因療法の薬を開発するよう努力するべきだ」と教わりました。しかし対症療法も捨てたものではない,というのが私の心境です。
 私の健康の定義は,「苦痛なしに社会生活を送れること」です。アセチルコリンが足りないのは病気の原因ではなく,結果にすぎなくても,それを増やせば患者さんの苦痛が減るのなら,とりあえずはよいのではないかと思います。
野々村 それはもちろんそうです。
板井 問題は苦痛が減っているかどうかを適切に評価する方法がないことです。脳関係の薬や精神薬の問題点は,vitroの観点は他の病気と違わない。vitroの試験は相手が酵素だったり受容体だったりしますから,その結合を見ればいいわけですね。ところが,vivoの試験法が難しい。例えば,痴呆症の人に薬が効いているのかどうかを調べる客観的な方法がないという問題がまずあります。自分の名前や生年月日が言えるとか,時刻や物の名前がわかるといった項目で点数をつけるしかありません。
大塚 アメリカの医科大学でアルツハイマー病の新薬の臨床試験をしている人たちが言っていましたが,薬が効いた場合,最初に起こるのは付き添っている家族が,「うちのおばあさんの様子が変わった」と言い始めるという類のことだそうです。従来のテストでは見つけにくい微妙な変化を捉える必要があるのかもしれません。
 パーキンソン病ではL-ドパ,アルツハイマー病ではcholinesterase inhibitorについてはかなり研究が進んでいますね。それが本質に迫っていない対症療法だとすると,それよりももっと本質の神経変性をどうやって防ぐかということになる。これまでの受容体とか酵素というアイデアでないとすると,一体どうすればいいのかちょっと困ってしまいますね。
野々村 それは遺伝子治療だと思います。というのは,問題になっているのは老化でしょう。家族性のほうは原因遺伝子がかなりわかってきていますが,治療とは結びついていない。多数派の老化と関連したアルツハイマー病のほうは,まだ少しもわかっていません。

筋ジストロフィー症,精神疾患

野々村 その点で研究が進んでいるものは筋ジストロフィー症ですが,ジストロフィンが原因遺伝子だとわかっていても,それをどうするのかというのが少しも出てきません。あれぐらいはっきりしていてもどうにもならないですね。筋ジストロフィー症は早くから起こるものですから,アルツハイマー病のような場合とはアプローチの仕方が違うと思いますね。そういう意味では,中枢神経の病気はむしろ遺伝子から攻められるのではないでしょうか。
大塚 精神疾患のほうは,例えば分裂症はドパミン,躁うつ病はモノアミンとある程度ターゲットが見えていますね。
宇井 現在の精神疾患の治療に関して少々不満に思うのは,現場の臨床医が薬物療法に頼りすぎていることです。
 もう1つは,指導的な立場の臨床家に,「精神疾患は遺伝的素因が大きいから,いずれ遺伝子治療の面から解決する」と楽観的なことを言われる方が案外多いことです。精神科の医師は薬の将来に関しても楽観的すぎると思います。現在の薬の大半はドパミン受容体アンタゴニストで,それとセロトニン受容体拮抗作用とを微妙に組み合わせた薬物が近い将来開発されて,劇的な効果を示すはずだ,などと言われると,「本当かな」と思います。
野々村 30年前には精神分裂病はどうにもならなかったのが,現在は事情が変わってきていると思いますが。
宇井 私も臨床の方から聞いているのですが,30年前の重篤な緊張型の患者さんが非常に減ったそうです。それは診断が早くつくようになって早期から投薬を始めるからなのか,病型が変わったのか,いずれにしてもかつての激しい緊張型が減ったのは事実のようですね。
 しかし,薬が効いていることは確かですが,なぜか興奮状態のようないわゆる陽性病状を抑える薬によいものがあるのに,陰性病状に対して効く薬はほとんどありません。高血圧症にはよい薬がたくさんあるのに,低血圧症の薬がないという現状と似ています。落ち込んでいる状態を薬で改善するのは難しいようです。
 昨年(98年)11月に科学技術振興事業団の新表象プロジェクトの講演会がありました。また,「脳と意識に関する東京99年国際会議」が今年開かれるそうです。このように精神,意識,感性という,従来は客観的なサイエンスの対象にならなかったものが,今後脳科学の対象となっていくのでしょうか。このような新しい脳科学の動きを取り入れないと,従来の受容体アンタゴニストのようなものだけでは精神疾患の治療は難しいでしょう。人の感性とか,美しさや楽しさを感ずる心,それをいわば裏返した状態が精神病ではないかと思います。したがって,従来のサイエンスの対象とならなかったこのような分野に踏み込まないと,精神疾患の治療法は生まれないのではないかと漠然と考えています。

創薬の体制

日本の水準:企業と大学

大塚 日本の創薬の体制も大きな問題だと思います。この間,オーストラリアの3D CentreのPeter Andrews教授がサイエンスにおけるオーストラリアの貢献は世界の2%であるのに,薬を創ってマーケットに出す点では0.1%であるのは,国家経済の上からはまずいので政府に働きかけて,体制を改めてようやく黒字に変わったと言っていました。また,スウェーデンのカロリンスカ研究所のキャンパスに製薬企業が出資した建物が建っています。日本はそういう面はまったくだめではないでしょうか。
板井 アカデミアと製薬企業の連携という意味では,日本は相当遅れていると思います。創薬の研究開発は高度に知識集約型で,幅広い学問分野のレベルが高くないと不可能ですね。世界でも薬を創れる国は限られていて,まずアメリカ,その次がイギリス。スイスがどういうわけか大きな製薬企業を持っています。その後ドイツですね。フランスとかイタリアになると少なくなって,日本のほうが上です。
 日本の製薬企業は長年,俗にゾロと言われる模倣薬しか創れませんでしたが,ここ10年,新薬を開発する力がついてきました。新薬開発力は一朝一夕にできるものではありません。オーストラリアでもまだ全然新薬は創れませんし,韓国もだめでしょう。アジアで創れる国はゼロです。そういう状況ですから,日本はこの技術を大切に育てていくべきだと思います。
宇井 実際に創薬に携わる製薬企業の面から考えると,2つの大きな問題があります。
 第1は大学の協力の問題です。産と学との連携の必要性が叫ばれていますが,大学人はどうやって企業から研究費を獲得しようかという発想ばかりで,自らの研究成果を企業を通じて社会に還元しようという意欲に欠けています。
 第2は企業規模の問題です。もともと日本の製薬企業は欧米の企業に比べて小さいのですが,能率の点で著しく不利になるのは当然でしょう。
大塚 平成2(1990)年に日本学術会議会長から「創薬基礎科学研究の推進について」で勧告が出ていますが,これに沿って日本薬理学会でも,創薬基礎科学研究所の設立に向けて努力がなされています。このような創薬研究機構でできることの1つは,アカデミアの知識をどのように企業に導入し,生かしていくか,ということのための仲立ちみたいなものではないかと思います。そのためには産学協同のガイドライン,ルール作りも必要だと思います。
宇井 私は大学がもっと情報公開をすべきだと思います。生命科学はいま非常に拡大して,ある分野の一流の専門家は日本全体でも数人しかいないというケースが多い。企業はある薬を開発する時に,必要な人材すべてを自分の研究所に揃えるのは不可能です。そこで大学の研究者に頼るのは絶対必要ですが,必要な専門家がどの大学にいるか,現状では企業にはまったくわかりません。それぞれの大学が研究計画や研究成果のアウトラインをホームページに公開すれば,必要な研究者がどこにいるかを企業は直ちに知ることができます。
板井 問題は日本の大学がアカデミズムにこもってしまって,新しい研究をしないことにあります。外国で発掘され有名になったテーマに飛びつく傾向が強いですね。製薬会社も新しいメカニズムをめざさなければ新薬は創れません。そういう意味ではパイオニア的な研究をする研究者が増えないと,日本の製薬企業はやっていけないと思います。
大塚 改革を迫られているわけですよ。機構改革のチャンスかもしれないですね。
板井 大学も一緒に変わってもらうことが必要だと思います。

治験の問題と国際競争

宇井 もう1つの大問題は,現在日本では新薬の臨床治験がほとんど得られないということです。いわゆるフェーズ II やフェーズ III のスタディがきわめて小規模でしか行なえない。欧米ではボランティアとして病院に出かけて行って被験者になる健常人がたくさんいるそうですが,日本ではまったく考えられません。
板井 その理由の1つは,わが国は健康保険制度が発達していますが,アメリカは医師にかかれない人がいまだに何千万もいるからです。そのために,ただで入院させてもらえるとか,薬を使ってもらえることが誘因になっています。さらに,日本は禁止されておりますが,治験をボランティアした人はお金がもらえるのですね。
野々村 創薬に関しては行政にかなり問題があります。いろいろな事件から厚生省が非常に弱気になった結果,アクティビティを抑える方向になってしまっています。
板井 病院のシステムに問題があって,外国では臨床試験ができるような病院は限られていて,そこに患者さんが集まっているわけですが,日本では医療レベルが高くない施設にも患者さんが分散しています。
野々村 しかしここ数年,日本の製薬会社が創薬に関してずいぶん頑張り始めました。薬事審議委員会の委員をしていても,かなりオリジナリティのあるものが出てきましたが,それにストップをかけたのは,今度の薬価と治験の問題ですし,もう1つは国際協力の問題があると思います。薬事審の中で,私の任期の終わり頃のことですが,厚生省が外資系の薬をなるべく早く通すために,外国のデータをそのまま通すということを主導的に行なうわけです。
板井 外国で治験をすることになってしまうわけですね。

企業の創薬戦略とベンチャービジネス

伊藤 創薬は学術会議からの提案があるなど,1つの大きなコンセプトであり,独自の戦略があるように見えるのですが,どのような内容があるのでしょうか。
 製薬会社はそれぞれ創薬の戦略が違いますね。この間外国のある製薬会社の人に聞いたのですが,体中のチャネルを全部クローニングするよう100単位の研究組織を作って,毎月2つぐらいずつ新しいチャネルがクローニングされている。それでチャネルに一義的な原因のある病気の薬を全部それで何とかしようというのですね。
大塚 そういうチャネルの100種類,受容体100種類を徹底的にやるのはよい考えでしょうが,日本の小さな製薬会社では外国の製薬産業にかないっこありません。
板井 規模が違います。基礎研究の面ではすごく遅れてしまいますね。アメリカにはバイオベンチャーが1500社ほどあって,新しい技術や情報,新しいメカニズムの医薬候補化合物を製薬企業に提供しています。また,企業規模が大きいですから,研究開発費の25%を外部からの技術や製品の導入に当てていますので,技術の導入が非常に早いです。バイオベンチャーのほうもその恩恵を被って成長しています。しかし,日本の製薬企業では,もともと研究開発費自体も少ないので,バイオベンチャーが育つような環境にありません。
 今は例えば受容体や酵素を単離して,それに対して結合する化合物をハイスルブットスクリーニングで見つけることが多くなりました。ロボットを使って何十万という化合物を片っ端から夜昼なくスクリーニングしています。日本の会社でも10-30万の化合物をスクリーニングしていますね。
伊藤 今度はテスト法が問題になってくるわけですね。
大塚 力ずくということになると,少なくとも現状では外国の強大な会社になかなか追いつけないですね。
板井 そもそも持っているアッセイ系の数が違います。
伊藤 脳科学総合研究センターができてもアプローチしてくるのはみな外国の製薬会社です。日本の製薬会社からはあまり言ってこないですね
板井 最近ある外国の製薬会社が,新しいターゲットを見つけるために5年間で600億円をベンチャー企業に投資することにしたというニュースを見ました。他の会社も社内で研究をしたり,ベンチャーにお金を出して,遺伝子のレベルから新しいターゲットを探そうとしているのですね。
野々村 逆に,日本はむしろベンチャーに徹したほうがいいのかもしれませんね。
伊藤 成功率はどれくらいですか。
宇井 よく見積もって40に1つか,50に1つで,1%にもならないという辛い計算もあるようです。

創薬の推進

伊藤 創薬は脳科学の成果を現実に生かす大事な方向ですが,どうしたらもっと推進できるでしょうか。板井先生,分子設計の立場からいかがですか。
板井 発症のメカニズムとともに,医薬のターゲットとなる生体高分子を明らかにすることが創薬には重要です。攻めどころがわかれば,薬は必ずできると思います。
伊藤 たくさんバラエティを作って,一斉にスクリーニングするというシステムを作ればいいのですね。そのレベルでやれば日本もまだ勝負できる。
板井 先ほど言ったように,巨額の資金を外部に投じている会社があるということは,彼らも自分たちでは探せないということですよね。
伊藤 宇井先生はいかがですか。
宇井 日本の創薬研究の将来については,私は必ずしも悲観ばかりはしていません。
 第1に,幸いにして生命科学が非常に発達したので,創薬をめざす応用研究の科学としてのレベルが,基礎研究に比べてさして見劣りしなくなってきました。
 第2は,薬というものは理想的なものが1つだけあるのではなく,構造や作用機序がかなり異なっても同じように好ましい薬効を持つものがたくさんあるのではないか,ということです。もし1つだけですと,大きな組織で理詰めに網を絞っていかないと,そのものには到達できないことになりますから,日本の企業は欧米の大企業には太刀打ちできません。しかし,たくさんあるのなら小さな組織である特定の戦略だけを用いても,そのどれかが見つかることは期待できるのではないでしょうか。
 日本の製薬企業の研究所で有機化学者が種々の化合物を合成して,薬理グループがスクリーニングにかけます。その時,有機化学者は自分の出身大学の研究室が手がけていた母核に,例えば現在使われているアドレナリン遮断薬と似た構造の側鎖をつける。そうすると案外,現在の遮断薬よりもサブタイプ特異性が高かったり,作用持続性の薬ができたいう例があります。一種のtry and errorでも薬は見つかるという例だと思います。
伊藤 四六時中見張っていて,少しでも前へ出れるところは出るという外国勢のアグレッシブな姿勢に比べると,日本の研究者はわりにのんびりしていて,成功,不成功は時の運とすましているところがある。
宇井 しかし,実情はある化合物を薬に仕上げると決まると,10年間はそれにかかりきらないといけない。その間はルーチンワークに近くて,アグレッシブになる余裕はその研究者には与えられないのです。
 私の理研の研究室も,私の代は試薬を開発しただけですが,私の後継者は医薬の開発に意欲を燃やしています。「試薬から医薬へ」がキャッチフレーズです。
伊藤 そのための何か特別な戦略が大事ですね。
宇井 研究者の意欲の問題ですね。特にこれから若い研究者が意欲を燃やして医薬を開発するのに値するような環境は整っていると思います。
伊藤 このあたりで本日の座談会を終わりたいと思います。今日はお忙しいところありがとうございました。

 この座談会は,伊藤正男氏が「序文」で述べられている雑誌『生体の科学』(医学書院販売)で企画された「連続座談会(全3回):脳を守る-I.創薬,II.再生移植治療,III.遺伝子治療」のうち,「I.創薬」を医学界新聞編集室で約3分の1に再構成したものです。
 なお,引き続きII.再生移植治療,III.遺伝子治療を再構成して掲載する予定ですが,全3回の全文は同誌第50巻1号(2月発売予定)に掲載されます。
〔週刊医学界新聞編集室〕