医学界新聞

 連載
 ものの見方・考え方と看護実践(最終回)

 看護実践を支える理論

 手島 恵 
  医療法人東札幌病院看護部
  ミネソタ大学大学院博士課程


学問と理論

 「私の背中を見て,その実践から看護を受け継いでほしい」あるいは「理論的なことよりも実践を重視し臨床にすぐ活かせる看護」という表現をみかけたことはないだろうか。また,「あの人は理論家だから」と実践と遊離していることを揶揄するようなこともある。
 理論とは何なのか。理論と実践の関係は?というようなことについて大学院生として私は悩まされた。この連載でタイトルを「看護理論と看護実践」とせず,あえて「ものの見方・考え方」としたのは,「理論」すなわち難しいという,「理論」という言葉に対する私の心理的抵抗を反映してのことである。英和辞典をみてみると,「theory」の項目の第7番目に見解とか考え方という意味があげられている(小学館ランダムハウス英和辞典 第2版)。このように理論には何かを説明したり,考えを示すという意味がある。
 1950年代のはじめからアメリカでは数多くの看護理論が積極的に開発されてきた。それはなぜだろうか。独立した学問分野には,独自に関心を持つ領域が明確にされている。そして,理論開発,理論の検証,そこから得られた結果に基づいて理論を精錬していくというたゆみない努力が求められる。これらの理由で,看護を学問以前の分野から独立した学問分野として確立していくために,不断の努力が積み重ねられてきた(Rogers,1990)。

1950年代初期のマーサ・ロジャーズ

独自の看護理論を確立し,米国看護界をリードした
(『マーサ・ロジャーズの思想 ユニタリ・ヒューマ
ンビーイングズの探求』手島恵監訳医学書院刊より)

理論と実践の関係

 日本で理論や理論開発に関するカリキュラムが重要視されてこなかったのにはいくつかの理由が考えられるだろう。最も大きな理由は,西洋と東洋の理論の組み立て方からくる違いではないだろうか。理論の語源であるtheoriaというギリシャ語は,外からものごとを眺めるという意味があり,西洋文化の中では理論は実践に先立って,諸概念の関係を記述し実践の方向性を指し示すものであった。しかし,私たちの文化の中では,修行や経験を積むことによって体得することを重んじ,実践が理論に先立ってきた(湯浅,1991)。
 また,多様な文化,民族の集まりで,個人がさまざまな価値観を持つアメリカでは各々の信念,すなわち考え方,理論を明確にし,明文化することに大きな価値があったのだろう。
 国民全員が同じ言葉を話し,言葉によるコミュニケーションよりも推し量ることに価値づけをし,集団主義的一体感に基づいて同じような行動をとってきた日本では,あえて実践の意味を明文化しなくても「背中を見て学ぶ」ことでこと足りてきたのかもしれない。
 しかし,看護が独立した専門職として,また学問分野として社会に貢献していくためには,私たちがめざすところと,実践の基盤となる理論を明確にしていかなければならなくなっている。
 連載の第1回目に「清拭は看護の本質か?」というリンデマン博士の言葉と,アメリカでは看護婦がそのようなケアを提供する機会はほとんど奪われてしまっていることを述べたところ,数人の方から「残念だ」というお便りをいただいた。手で何かをすることに価値をおき,それ自体を看護の本質とみなすのではなく,その意味するところを看護学は明らかにしていかなければならない。科学技術が進歩し,病院でも在宅でも人が機械に頼って療養することが多くなってきた。そのような時に,看護婦の提供するケア,サービスがどのような意味を持つのかを理論的に検証し,看護学の焦点を明らかにすることがますます大切になってくる。
 現在コンプリメンタリーセラピー(相補療法)というような名称でリラクゼーション,瞑想,セラピュ-ティックタッチといった癒しを促す療法が社会で注目を浴びている。これらの療法は人間を全体としてみること,すなわち心とからだ,人と環境は切り離せない関係にあるという理論的基盤からそれらの実践が導かれていることを知ったうえで行なうのと,そうでないのとでは結果に大きな違いがみられるだろう。
 今年の1月から隔月で始まった本連載も6回目の最終回を迎えた。この連載をどうして引き受けたのかと何人もの方に尋ねられたので,最初にそれに触れるとともに,連載中にいただいた皆様からのご質問に答えるようなかたちで本稿をまとめてみた。連載中にご声援をいただきました皆様に,この場を借りてお礼を申し上げたい。
(おわり)