医学界新聞

 Nurse's Essay

 雪の日に思う

 八谷量子


 正月気分も抜けない1月8日,関東地方は記録的な大雪に見舞われた。交通機関はマヒし,滑って転んだけが人が続出,また除雪用具が飛ぶように売れた。北国育ちの人間から見ると,「あんな程度の雪で」交通機関をはじめとする都市機能が大打撃を受け,人々がパニックに陥ってしまうこと自体が不思議でもある。
 それにしても大変な1日であった。ある同僚は,帰宅路の電車が大雪で止まってしまい車内に閉じ込められたまま,家にたどり着いたのは翌朝だったとのこと。また,高速道路で動かなくなったマイカーを乗り捨て,雪の中を4時間かけて歩いて帰宅した者もいる。「雪はこりごり」というのが大方の感想である。
 それでも,雪は悪い印象ばかりを残したわけではない。大雪の日の翌朝,病室から明るい笑い声が聞こえてきた。その病室を訪ねると,若い看護婦が小さな雪玉を患者さんたちに配っていた。その部屋は寝たきりのお年寄りが多く,「患者さんに雪の感触をじかに楽しんでもらいたくて」と,彼女は中庭から雪をかき集めてきたのである。ほとんどシャーベット状になってしまった雪玉を,そっと頬に押し当てる人,解けて滴が流れ出すのも構わずに雪玉を握りしめる人,さまざまな患者さんたちの反応が嬉しかった。
 「すごい雪だったね」,「おれの田舎ではこんなもんでないよ」,めずらしく患者さん同士の会話も弾んだ。病室の窓の外には雪をかぶった無数の山茶花の蕾が陽光に映え,いつもとはまったく違った風景を写し出していた。その時,私は患者さんたちにはそれぞれに故郷があり,生活があり,長い人生を経て積重ねた時間の重さがあるのだということを強く意識した。そして,自分もまた確実に限られた時間の中に生き,死んでいく存在であることを痛感したのである。
 雪は,私の日常の中で弛緩しかけていた,「生きる」ということそのものに対する緊張感を,強烈に呼び覚ましてくれたようだ。