医学界新聞

アメリカ病理科レジデントとして

寄稿 荻野周史 Case Western Reserve University3年度病理科レジデント


 私は2年前にもこの「週刊医学界新聞」にレジデントとして渡米することになったいきさつを書き綴ったことがありますが(本紙2189,2192,2199号),その時から,いつかは米国での研修の様子をお伝えしたいと思っていました。
 その後レジデント生活は2年半が経過しましたので,今回は私がアメリカでの経験と研修している中で感じていることなどを述べてみたいと思います。


Allegheny General Hospitalでの研修

 1995年7月より,私が最初に勤めた病院はペンシルベニア州ピッツバーグにあるペンシルベニア医科大学(現在はAllegheny大学)附属Allegheny General Hospital(AGH)という病床数750の大学病院のbranchのような,市中病院の性格も濃い病院でした。750床といっても日本の感覚からすると,1500床以上の規模はあるかもしれません。というのは,米国の病院はできる限り患者を多くさばくために,入院期間を短くし,または簡単な手術は外来ですませてしまうため,診察する患者さんが多いからです。
 例えば1996年6月に私がウイルス性髄膜炎を患ったときのことです。AGHに入院しましたが,脊髄液穿刺をして診断が確定し,細菌感染が否定されると,起立性・座位性の頭痛は続いていたにもかかわらず,病院から追い出され(?)ました。髄膜炎自体は2日間の入院期間中には治っていたようですが,その後,髄液穿刺の後遺症としての頭痛に1週間悩まされ,ついにblood patchによって硬膜にあいた穴をふさいで,ようやく頭痛は治まりました。

アメリカのレジデントの位置

 さてAGHでは,1年目のレジデントがしなければならない義務はたいへん多く,毎日夜遅くまで仕事をしていました。特にクビにならないように必死でした。実はのちに,そんなに簡単にレジデントをクビにできないことがわかりました。プログラム側にしても代わりの,しかも優秀なレジデントが,年度の途中でそんなに簡単に見つからないことは承知しています。AGHでも昔,そして今なお結構わがままな問題児がおり,そうしたレジデントを病院側も辞めさせようと試みたそうですが,結局不可能であったそうです。レジデントの研修する権利は,それほど過保護なまでにも,尊重されているのです。
 また,たいていのレジデントプログラムには,レジデントとアテンディングスタッフのミーティングが月1度約1時間設けられ,そこで,そのプログラムにおけるレジデント教育の問題点を議論し,改善すべき点は改善していきます。ミーティングでレジデントは,例えば雑用が多すぎるとか,教育に当てられている時間が少ないとか,あるカンファレンスを改善すべきだとか,真剣に問題点をあげていました。

レジデントの生活

 レジデントとはいえ,自分に割り当てられた仕事や当番をこなしさえすれば,仕事の後の時間,週末,休暇は保証されています。臨床科の場合でも,時間外の仕事はすべて当番の仕事となります。つまり時間外には,当番の人が病棟のすべての患者の面倒を見るために,いつもたいへん忙しいかわりに,当番以外の人は自由の身となるのです。病理科では,私はいつも遅くまで残って,スライドを鏡見するのを楽しんだり,勉強したりしますが,他のレジデントは週休2日で,勤務時間8-17時か,せいぜい8-18時の生活を守る人が多いです。
 もちろんどの科であろうと,認定医試験に合格することは重要ですので,家で試験勉強をしているレジデントは多いと思います。
 休暇について詳述しますと,AGHでは年間3週間=14実働日(うち4日はクリスマスの週か,新年の週に限る),CWRU(私が今研修している施設で,後述します)ではほとんど自由に4週間=20実動日。アメリカでは休暇は人間の生きるための権利,基本的人権と言ったような面があります。休暇を取る理由等が問われることもまずありません。どちらの病院でも,この他に学会等に有給で5日間休みを取り出席できます。CWRUでは自分の発表があればさらに複数の学会に出席することができます。
 レジデントやフェローの給料は通常,年功序列制で,場所によっても違いますが,税金を引かれる前で,年収約30,000ドルからスタートして,1年ごとに約1,500ドルずつ上がっていきます。そしてチーフレジデントになると少額ですが,手当てが出るようです。ボーナスはありません。サラリーはニューヨークのような大都市では一般的に高く,また有名な施設になればなるほど低くなる傾向はあります。大都市では物価が高いですし,また有名な施設は給料以外の魅力でレジデントをひきつけるので,いずれもreasonableな気はします。さて私の場合はおよそ平均値であると思いますが,ただ税金も年功序列のように取られ,手取りではほとんど増えずに,年収約26,000ドルのままです。
 病院の実際の仕事にしても,アメリカでは日本に比べて,雑用が少ないように感じます。例えばアメリカでは,どこの病院にいっても秘書が多く,レジデントやスタッフのdictation(口述)をタイプするのです。日本では文書はほとんどレジデントやスタッフが自分でタイプしているように見えます。またアメリカではnurse,physician assistant(PA)や医学生が積極的に医療に介入して,レジデントやスタッフを助けています。病理でもその例にもれず,PAが病理検体をある程度は取り扱うため,レジデントにとっては大助かりです。こうして雑用が少ないだけ,自分の勉強に使える時間が多くなるのです。

USMLE Step3

 ところでどの科のレジデントであろうが,1年間の研修をほぼ修了した段階で米国医師免許試験(USMLE)Step3の受験資格を獲得します。私も1996年5月に受験しました。問題の傾向としては,Step2よりさらに臨床重視で,もっぱら臨床問題です。問題文には実際に患者が登場し,一にも二にも患者のマネージメント(どう病態を把握し,どう治療するか)です。例外といえばStep1,2でもおなじみの統計に関する問題(例えばsensitivity,specificity,positive predictive value等の計算問題)でしょうか。とにかく問題文(ほとんど病歴)はStep2よりさらに長く,3時間15分で195問(1問1分!),1単位のパートが1日に午前と午後の2つ,そしてこれが2日間続きます。英語を速く読む力と集中力の持続が要求されます。私はなんとか合格しましたが,今までの試験の中で,最も過酷な試験の1つでした。

新天地を求めて

 さて前述のように,私は1年目の研修をほぼ終えた1996年6月に,ウイルス性髄膜炎にかかりました。それまで猛烈に忙しかったのが,急に病院のベッド,あるいは自宅のアパートで寝るだけの生活を約10日間送ったので,少し自分の将来等を考える余裕ができたわけです。そして自分にとってAGHでの研修のもの足りなさ(academicでないこと)を再認識して,もう少しacademicな病院を新天地にしようと決心したのです。
 そこで私は1996年7月に,新しい病院に移るための準備を始めました。こうした準備については,2年前に沖縄米国海軍病院にいた時に経験しましたので,今度はスムーズに運ぶかに見えました。その上,今回はあの面倒な米国医師免許試験(USMLE)Step1,2を受ける必要もありません。
 ところが,実際に私がいろいろな研修プログラムにレジデント応募要項を請求する手紙を出したところ,たいていの返事は,3年目のレジデントは募集していない,というものでした。通常,病理の研修プログラムは,4-5年間の一貫教育です。私のように途中で移動しようとする人は,例えば夫や家族の仕事の都合で移動せざるを得ない人を除いて,少ないのです。結局,アプリケーションを送付できたのが,わずか6プログラムにすぎませんでした。しかしようやくのことで,その6プログラムとインタビューの約束をとりつけることができました。
 推薦状については,AGHの,私を非常に高く評価してくださっていた3名の病理の先生にお願いしました。どの先生も私に推薦状のサンプルを見せて,これでいいか,と私に聞きました。こうした推薦状がたいへん強力だったことは確かで,私が米国の病理研修プログラムにおいて,問題なくしっかり働いていることの証しとなったわけです。実際のところCWRUではプログラムディレクターが私に,推薦状の1つを見せて,その内容を非常に高く評価していると私に言いました。余談になりますが,その中で私のアテンディングドクターは,私を日本からやってきたSamur'eye'(サムライにひっかけているのです,病理医は「eye」と顕微鏡が商売道具であります)であると紹介し,その理由を詳しく説明している(つまり私の働きぶりを誉める)のです。まさしくこれは型破りの推薦状でありましょう。ただし,私はAGHのプログラムディレクターには秘密にしていたので,彼には推薦状を頼めず,結構その点で苦労しました。
 インタビューはやはり2年前と同じように1月に行なわれました。インタビューをしたプログラムの中では,オハイオ州クリーブランドにあるCase Western Reserve University(CWRU)から2,3日後にプログラムディレクターより電話連絡で,私を採用したいとの通知がありました。それを聞いた時は,2年前にmatchingに成功した時に優るとも劣らない喜びを感じたことを,今でもありありと覚えています。その後インタビューしたロードアイランド州プロヴィデンスにあるブラウン大学からも採用したいとの通知がきましたが,私は結局CWRUを選びました。
 その他に,私は一応National Residentmatching Program(NRMP)の応募もしましたが,採用決定後はNRMPには全く関与していません。
 やはり以前からも指摘されていることですが,難関はレジデントとして渡米することにあり,渡米後は比較的簡単に研修プログラムの変更,病院間の移動は可能だということです。通常4-5年間一貫教育の病理の研修プログラムでさえ,変更可能ですので,これが他の臨床科ですと,研修プログラムの期間も1-3年間と短いですし,レジデントやフェローの動きも激しく,もっと簡単に移動ができると思います。

Case Western Reserve Universityへ移動

 そうして1997年7月よりCWRUで半年,病理レジデントととして過ごしたわけですが,academicな大学病院に移ることができたという以上に,私は移動して正解だったと思います。というのも移動してみて初めて,考えていたよりももっといろいろなメリットがあることに気づいたからです。まず1施設だけにいたのでは体験できないようないろいろな病院間の違いを知ることができます。例えば病理においては,外科病理検体の切り出し方にしても,剖検の仕方にしても,大筋は変わらないのですが,病院間で微妙な差が存在します。それはまた病院内のあらゆること,システム,ポリシー,考え方にまでわたります。もし私がAGHで研修を続けていれば,おそらく私は「井の中の蛙」にすぎなかったでしょう。より多くのいろいろなドクターと出会い,刺激を受け,また何か自分にとって新しい考え方・知見に触れることも,いうまでもなくたいへん貴重な経験です。
 そのことに関連して思い出されることは,日本の外勤制度です。これは勤務医の経済上の理由もあって行なわれているようですが,実は病院間の人の交流という面からみると,たいへん優れた制度に見えます。基本的に米国では,レジデントであれ,スタッフであれ,病院とフルタイムの契約を交わします。他の病院に行くことは普通の勤務医でも日本ほど多くはありません。ローテーションの都合で他の施設を回る以外は,レジデントが他の施設で働くことはムーンライティング(時間外の夜に働くことから)と呼ばれ,基本的にご法度だと思います。

英語について

 AGHでの最初の数か月は,英語のハンディを感じながらも,とにかくいい仕事をしてクビにならないように必死で食らいついていたことを思い出します。英語力については,その前年度に沖縄米国海軍病院で鍛えられていたのが幸いしました。それでもアメリカで研修を始めた当初は,英語のlecture,肉眼所見の口述がたいへんでした。しかし毎日,ひたすら英語の聞き読み書き話しの生活で徐々に慣れていきました。

ラジオ番組を聴く

 病院の外では,映画を見たりもしましたが,何より英語力の増強に役立ったのはラジオです。最初ピッツバーグにいた時は,音楽番組や宗教番組を中心に聴いていました。宗教番組といっても,キリスト教の真面目で敬虔なもので,米国ではどこでも必ず存在します。私は別にクリスチャンではないですが,こうしたものも英語の練習と異文化の中での貴重な経験として受けとめていました。
 のちにクリーヴランドに移ってからは(1997年7月),おもしろいトーク番組を見つけました。司会者の名前をそのままとって「The Rick Gilmore Show」といいます。これは月曜日より金曜日まで毎日,午後8時から3時間放送されています。番組の途中30分おきに5分程度のニュースがあり,それもよかったです。この番組では,司会者がトピックを毎回決めて,それについて聴者が電話をスタジオにかけて,司会者と討論するというものです。自動車からの電話が異様に多く,クルマ社会を実感させます。この番組は人気があり,かかってくる電話をいつもすべてさばききれないようです。トピックは政治,経済,アルコール,同性愛,AIDS,堕胎,タバコ,狩猟などの社会問題から,野球,フットボール,その他の娯楽までありとあらゆる方面にわたり,私の社会的知見を広めるのにも役に立ちました。英語という面で何よりもすばらしいのは,英語が常に話されていて,そのスピードが速く,しかも発音が明瞭であることです。今でも私は毎日,仕事から帰るとラジオをつけっ放しにして聴いています。日本でもそういった英語のラジオ番組があればいいと思います。
 英語辞典についても述べます。医学・科学用語については「リーダーズ英和辞典」(研究社)と「ステッドマン医学辞典」(メジカルビュー)で十分なのですが,一般の英語辞典では“Longman's Dictionary of Contemporary English”を使います。これは非常にスグレモノで,英語で明解な語義解釈がしてあり,初心者からアメリカ人まで使えると思います。この辞典には豊富な図や挿し絵があり,視覚的に理解しやすくなっています。これがあると,専門用語以外,英和辞典はほとんど使いません。

日本の英語教育の欠点

 ここで私の英語遍歴を振りかえってみて,やはり医学生時代,いや中高生時代にもっとヒアリングと会話を練習すべきだったと思います。中高生時代は特に,英文解読と英文法のパズル問題中心で,あまり楽しくなく,時間と労力を費やした割にはあまり報われなかった気がします。これは典型的な受験戦争の弊害でしょう。今は英語教育の改善が進んでいるようですが,中学・高校では,もっと外国人を呼んで,彼らとコミュニケーションすることの楽しさを,まず生徒に最初に感じてもらうべきだと私は考えます。私も大学を卒業してから,初めて英会話学校に行き,外国人と話す楽しさに驚いたものです。その後,英語の学習がもっと楽しいものになったのはいうまでもありません。そして中高生時代に自分が経てきた受験英語が,いかに無味乾燥なものであったかも再認識しました。
 私は英語というのを道具であるとみなしています。それを通じて,異文化・異なる考え方に触れ,そして世界中の人とコミュニケーションを図る道具です。私は日本人がもう少しこの英語という,ほぼ全世界で,特に科学界で通用する共通の道具を使いこなせるよう,願ってやみません。

雑感

 アメリカ人は病院の外での生活や家庭生活をとても重視します。極端なことを言えば,休みのため,休暇のために働くようなところがあります。前述のように時間外の自由時間が保証されているのも,休暇をとる権利が尊重されているのもアメリカ人にとっては至極当然のことなのです。そういうアメリカ人の目には,私はやはり日本人の典型例として,仕事中毒のワーカホリックworkaholic(work+alcoholicから)に映るようです。
 そういう私はといいますと,病院の外では音楽,旅行,映画を特に楽しんでいます。音楽では,ピッツバーグにはピッツバーグ交響楽団,そしてクリーヴランドにはさらに有名なクリーヴランド管弦楽団という世界的な名門オーケストラがあり,私はそれらの定期演奏会を常時ライヴで聴いて楽しんでおり,非常に満足しております。
 アメリカでの病理研修は私にとって,たいへん貴重な,そしてexcitingな体験です。仕事の量も多いかわりに,それ以上に面白いこと,新たに学ぶことも多く,今私はたいへん充実した日々を送っています。自分自身ラッキーであると思います。私はこれから引き続きCWRUで残りの2年半の研修を終え,そして可能ならば,どこかまた別の大学で2年間のfellowshipも経験して帰国したいと考えております。
 私の希望としては,病理学・病理医を志す日本人医師,またアメリカでトレーニングを受け,その長所を日本に伝える日本人医師(できれば病理医も)がもっと増えてほしいと思います。

(詳細なアメリカでの病理研修の様子は「病理と臨床」〔文光堂〕に現在投稿中です。興味のある方はそちらもご参照ください)