医学界新聞

1・9・9・8
新春随想

東大創立120周年記念プロジェクトと北里柴三郎先生のこと

加我君孝(東京大学教授・耳鼻咽喉科学)


 欧米の大学を訪問すると,しばしば,その大学が生んだ医学の歴史に大きな足跡を残した卒業生のことや,世界で初めて行なわれた手術や使用された医療器械のことなどを誇らしく説明を受けることがよくある。例えば,ハーバード大学附属病院MGHでのモートンによるエーテル麻酔,ウイーン大学では世界で初めてのビルロートによる胃癌摘出手術,パリ大学ではクロード・ベルナールの肝臓代謝研究やキューリー夫人のラジウムの発見,ジェファーソン医科大学では人工心肺などである。医学ではないが,ケンブリッジ大学では,わが校は万有引力を発見したニュートンを生んだと銘記してあるという。どの大学にも,その人を記念するパネルや医学資料館に特別展示コーナーがある。歴史的事実を残したものとして,パリ大学の正門に面した校舎に戦争に従軍する医師の大きなパネルがある。それには1914-1918年の戦争で1100人以上のパリ大学医学部出身者が軍医として応召し戦死したと刻まれている。わが国ではこのように大学自身が歴史をきちんと刻むことは少ない。

東大公開講座「東大医学部の過去・現在・未来」の講演

 私は昨年の東京大学創立120周年記念事業に医学部を代表する委員として医学部からの資料展示とパーフェクTVの東大チャンネルのためのビデオを各教室より集めたり,新たに制作したりした。新たに制作したものに,東大医学部の医学資料館の解説と旭中央病院長の諸橋芳夫先生にお願いして“第2次大戦の回想と若い医学生に伝えたいこと”というインタビュー番組を制作した。東大公開講座が併行して行なわれ,テーマが「東京大学」であった。「医学部の過去・現在・未来」というテーマが医学部に割り当てられたテーマで,予定されていた先生が都合が悪くなり,突然私に白羽の矢が立った。
 講演は10月4日で,準備期間が約2か月あった。幕末から現在までの東大医学部や日本の医学史関係の資料を大量に読み漁った。たまたま秋の学会の3つのシンポジウムの準備や札幌で入院中の父の容態が悪化するなど,時間的にも心理的にも大きな困難と戦いながらの準備であった。その準備の成果として約2時間近く講演を行なった。聴きに来られた一般の方々は約700人で,講演が終わった時の拍手は大きく,まさに万雷の拍手のようであった。学会の特別講演の時でもこのような大きな拍手の音を聞いたことがなかった。

北里柴三郎先生

 今回の公開講座の準備をしながら,東大医学部の卒業生で,戦前に世界の医学に大きな足跡を残した人は誰かと問われれば,明治16年卒の北里柴三郎先生ではないかと思うようになった。
 北里柴三郎先生は,明治16年に31歳で東大医学部を卒業された。23歳で入学したので8年間在学したことになる。卒業と同時に内務省衛生局に就職し,公費留学生として34歳の時にドイツのベルリン大学のコッホ先生のところに留学し,帰国したのは40歳の時であった。この留学中に破傷風菌の純粋培養の成功と,トキシンの発見,血清療法の開発という画期的な業績を残した。帰国直後,福澤諭吉先生が援助の手を差し伸べ,6室からなる私的な伝染病研究所ができたが,翌年には国から芝愛宕町に土地の提供と予算がつき,本格的な伝染病研究所を建てることができた。42歳の時であった。この年にはペスト菌を発見している。東大医学部出身の志賀潔,秦佐八郎,北島多一らの俊英と野口英世をはじめとする全国の若い医学者が集まって研究し,多くの成果をあげることになった。
 伝染病研究所が大隈内閣の行政改革で内務省から文部省に突然移管され,東京大学の研究所になったのは62歳の時である。この出来事は後世の医学史家は東大医学部の横暴と書くものが少なくない。しかし真実は何であったのであろうか。63歳の時に自己資金で現在の北里研究所を設立した。65歳の時に慶應大学の医学部長となり,教育にも携わるようになる。それと同時に日本医学会の設立に奔走し,第1回日本医師会総会を大正5年に北里柴三郎会長,岡田和一郎副会長で開催した。岡田和一郎先生は,東大耳鼻咽喉科学教室の初代教授である。北里先生は79歳の時に脳出血で亡くなり青山墓地に葬られている。
 北里柴三郎先生の好きな言葉は「終始一貫」であった。まさに終始一貫,感染症の基礎研究,予防衛生,治療に向かって取り組み,東大医学部卒業後の人生のすべてを費やした偉大な医学者であった。
 東大医学部の卒業生で生地に記念資料館が作られ,世界の切手に描かれ,さらに小中学生のための伝記に描かれている人は,北里柴三郎先生の他にはいない。その医学者としての生涯を現在の医学生に語ることは彼らの大きな刺激となるに違いない。
 最近,北里柴三郎先生の東大医学部の在学時代の成績表を見る機会があった。成績は上位にあり,一番良い成績の科目は眼科であった。しかし,なぜ卒業までに8年間も要したのかはわからない。私の新春の夢の1つは,卒業生の1人としての北里柴三郎先生の生涯をこれまでの医学史家や小説家とは違った方向から研究して,学生に語ることができるようになることである。