医学界新聞

1・9・9・8
新春随想

新薬開発の現状を憂う

伊藤 漸(群馬大学名誉教授)


 私は大学に在職中から国内外の数多くの製薬企業と消化器薬剤開発でかかわり合いを持ってきた。国外企業の製品は当然自社開発の新薬であるのに反し,国内のものは海外からの導入品が大部分であった。このことはわが国の製薬企業の後進性を示すものばかりで,何とも情けない現状であるが,こうした現実はわが国の製薬企業の責任ばかりではなさそうである。さらに最近の状況を見ると,薬剤開発の世界にも国内の空洞化が認められつつある。
 わが国の医療費のうち薬剤費の占める割合は約30%で,その総額は約7兆円である。これらは当然健康保険でまかなわれる。ところで,新薬ができればそれ相応の薬価をつけねばならぬが,7兆円の総枠が決まっているのだから,古い薬は切り捨てるか,その薬価を下げなくてはならない勘定になる。
 こんなことがしばしば起こると,非常によい薬でも古いという理由だけで二束三文になり,企業としても売れば売るほど損をする状況に追い込まれる(最近の例では全身麻酔の導入薬であるラボナール)。
 古くてかつ効き目が怪しい薬がこうして淘汰されるのは結構だが,古くはあってもよいものはそれ相応の値段で使えなくては医師も患者も困る。このように医家向けの薬の世界は自由経済の中にあって7兆円の枠の中で厚生官僚のご機嫌をとりながらひしめき合っている。
 新薬には当然高い薬価がつくので,それぞれの企業は何とかよい薬を開発しようと必死の努力をするのだが,その開発には一般に約200億円を要すると言われている。そこで採算性を考えるならすでに海外で定評のある新薬の導入のほうが賢いという結論になる。しかし,こうしたことを続けていたのでは,わが国の新薬開発の力はいつまでたっても身につかないことになり,欧米からの「基礎科学ただ乗り論」の汚名は一向に消えることはない。

なぜ日本で新薬開発が進まないのか

 ところが,実際にわが国の製薬企業の研究所を訪問してみると,その研究環境や設備,人員の点で一般の国立大学よりはずっと立派である。これでどうして新薬が開発できないのかと不思議なくらいである。
 その理由としてはいくつか思いあたる点はある。
 日本の企業は一般的に病気についての実際的知識に欠けている。立派な研究所にも医学部の出身者は皆無といってよい。元来,薬は医師が患者に処方するもので,病気の本体は言うにおよばず,まずヒトの生理学がわからなくては新薬の発想は難しい。欧米の製薬企業には,実際多くの医学部出身者がいるし,医学部出身でない人たちの病気に関する知識はなかなかすごい。この辺にも,彼我の差異がある。
 ところが最近はそうした現状を改善しようという傾向よりは,むしろその拠点の一部を欧米に移す製薬企業が目立つ。臨床試験(治験)1つを例に取ってみても,欧米のやり方は正確で速い。
 例えば,アメリカでは臨床試験の参加者をインターネットで募集する企業がある。
 インターネットを見て集まった応募者の中から適格者を選び出し,まずプラセーボ効果を見る。プラセーボにも反応してしまうような応募者は除いた集団を作り上げ,それから臨床試験を行なう医師団と製薬企業に一定人数の被験者を提供している。
 もちろんFDAの厳しい制約はついているが,一定の報酬のもとに極めて合理的にかつ迅速に臨床試験が行なわれている。
 こうしてみてくるとわが国の新薬開発を取りまく環境は何1つ明るいものはない。
 少なくとも消化器病学の分野では,わが国が独自に開発した画期的新薬は皆無だといってよい状態である。21世紀に向けて将来に夢を託せるような研究開発の基盤作りが急がれるが,それには医学・薬学のもっと緊密な連携も必要だろうが,それにもまして重要なのはこの業界を取り仕切っている行政の意識改革である。何かやろうと思っても最終的に「規制」で縛られてしまうのでは誰も手を出さなくなる。
 この辺の問題については最近の拙著『胃は悩んでいる』(岩波書店)にも詳しく述べた。
 今年こそは国際的評価に十分堪えうる行政改革が実行され,新薬開発の世界にも明るい話題を期待したい。そろそろ真剣にやらないと,この方面でも日本は完全に駄目になってしまう。