医学界新聞

消化器病学の過去,現在,そして未来へ


日本人が初めて観察した「臓器」-『蔵志』

「消化器病学前史」としての『蔵志』

 1892年に帰国した長與稱吉(1866~1910)がドイツから持ち帰った「Gastroenterologie」という考え方をもとに,私的な一病院が中核となって「胃腸病研究会」として発足し,今日にいたる日本消化器病学会の100年の歴史に入る前の「前史」を書くにあたって,どこまで歴史を遡ればよいのか,これは大問題である。限られた紙面であるから,わが国で消化器の解剖や生理に取り組み始めた18世紀中ごろ,つまり消化器病学会の創立の年(1898)より約150年前から説き起こすことにする。
 『蘭学事始』(1815)を書いた杉田玄白(1733-1817)らの『解体新書』(1774)はよく知られているが,彼らが腑分けを見学するきっかけになったのは山脇東洋(1705-1762)の活動が刺激になったのである。わが国で初めて人体の解剖を試み,それを書物に著したのは山脇東洋の『蔵志』(1759年)である。それまで信じられていた漢方の解剖図と西洋から伝来した解剖図に大きな違いがあり,それを実証したいと願って,1754年京都で処刑された遺体を解剖するところへ立ち合えた僥倖によるものである。しかし,5年後に完成した「乾坤」の2冊からなるこの書物の中にはわずかな解剖図しか描いてないし,それで見ると決してすぐれた観察がなされたわけでもない。山脇東洋は大腸と小腸の区別を試みたが,できなかったと書いている。
 わが国の漢方ではそれまでは五臓六腑説が主流を占めていた。消化器でいうと,実質臓器である「臓」では心・肺・腎・脾は除外されるから,肝臓のみが残り,中腔臓器にあたる「腑」では胃・小腸・大腸・胆嚢が消化器の領域で,膀胱と三焦が無関係になる。『蔵志』のこの図を見ただけで気づくことは膵臓がないことである。
 中国の医学は隋・唐の時代から金・元の時代の医学に至るまで,さまざまな書物でわが国に到来しているが,わが国では解剖までしてそれらの書物の中身を検証することなく,うのみにしていたのであった。
 16世紀の後半になって,南蛮医学が入ってくる。これは17世紀のオランダ医学よりも古い中世の医学であった。解剖や生理といった基礎の学問は入ってこないが,外傷の処置など特に外科の臨床に効き目の早い技術として一部に受け入れられるようになった。とはいえ,検査の手段がないことから,臨床的にはいまだ消化器はブラック・ボックスに入ったままであった。

監修 日本消化器病学会創立100周年記念事業準備委員会
 大村敏郎(日本消化器病学会創立100周年記念事業準備委員)