医学界新聞

連載 市場原理に揺れるアメリカ医療(20)

バンパイア効果

李 啓充 Kaechoong Lee
マサチューセッツ総合病院内分泌部門,ハーバード大学医学部講師


 「管理医療」を煎じ詰めて定義するとすれば,医療サービスの供給者(病院・医師)および消費者(患者)双方にさまざまな制約を強いることで,消費者(患者)に割安の医療保険を提供することを目的とする制度であるということができよう。
 保険会社にとって,保険価格を低く設定するためには,サービス供給側に対する支払いを減らすことがもっとも手っ取り早い。ここ2―3年間,米国における医療費支出が減少傾向にあったのも,実は病院・医師側に大きな値引きを呑ませたことによる医療コスト削減がもっとも大きな要因となったといわれている。

限界にきた医療供給者側の値引き

 しかし,医療サービス供給側による値引き努力は限界に達し,医療費支出は再び上昇傾向に転じつつある。医療サービス供給側にこれ以上の値引きを迫ることが難しい現状に加え,管理医療分野全体の成長が鈍り,業界全体の市場規模が固定化し,保険会社間の顧客争奪戦はますます厳しくなっている。管理医療のさまざまな問題が議論される際,とかく保険会社は「悪役」として扱われることが多いのであるが,市場原理に翻弄されるアメリカ医療の中にあって,実は保険会社も生き残りを賭けた熾烈な闘いを強いられているのである。
 特に厳しい闘いを強いられているのは,管理医療分野への進出が遅れた老舗保険会社である。遅れを取り戻そうと,大手保険会社は次々と新興のHMO(健康維持機構)を買収する動きに出た。アテナ社がHMO大手のUSヘルスケア社を89億ドルで買収した話は第4回(2206号参照)で紹介したが,シグナ社も今年6月にヘルスソース社を17億ドルで買収した。両社とも既存HMOを買収はしたものの,その後の経営は苦戦を強いられ,9月末には今年第3四半期の収益見積もりを下方修正せざるをえなかった。直後にアテナ社の株価は10%,シグナ社の株価は3%値下がりした。アテナ社の場合は,医療コストの上昇,加入者増加率の減少に加え,合併後の無理な合理化が祟ったといわれている。
 この2社よりも深刻なのは最古参の保険会社プルデンシャル社(以下プ社)である。 プ社が医療保険部門からの撤退を決めたと,10月初めにウォール・ストリート・ジャーナル紙が報じたのである。プ社は同報道に対するコメントを拒否しているが,プ社が他の保険会社に医療保険部門の売却を打診していることは公然の秘密となっている。プ社医療保険部門は,管理医療の保険加入者500万人,旧来型の医療保険加入者200万人を擁し,昨年は60億ドルの売上に対し,1億8000万ドルの赤字を計上したとされている。
 医療サービス供給側に値引きを迫るためにはそれなりのノウハウが必要なのであるが,プ社はそのノウハウ獲得に遅れを取った。また,プ社は管理医療分野への進出の遅れを取り戻し,自社独自の医療サービス供給網を作ろうと,多くの開業医からその経営権を買い取り傘下に加えたが,プ社の傘下に加わった医師たちはサラリーマン化し,期待したほどの生産性を上げなかった。恒常的に2-3%の赤字を抱える医療保険部門を,ついに切り捨てるという決意を固めたというわけである。

「悪貨が良貨を駆逐する」

 市場規模が固定化しつつある中で,医療保険会社間のシェア拡大競争はますます強くなっている。医療サービス供給側に値引きを迫るにはもっとシェアを拡大したいが,シェアを拡大したくともこれ以上保険価格を下げることもできない,我慢比べをしている間にますます経営が苦しくなるという構造である。ここで問題となるのは,「悪貨が良貨を駆逐する」事態が招来しないかということである。悪徳保険業者がシェアを拡大するために,サービスの質を落とすことで保険料を下げ,良心的な保険業者から顧客を奪わないか,という懸念である。
 実際に保険会社間のサービスの質は大きく異なり,特にサービスの質は地域間による差が大きい。
 NCQA(National Committee for Quality Assurance)は,医療保険の購入者となる企業などがスポンサーとなり,管理医療に携わる医療保険会社のサービスの質をモニターする非営利団体である。NCQAが作成するデータは,例えば企業が医療保険を購入する際の資料として利用されるが,全米HMOの半数以上がNCQAの調査に自発的に協力している。個別の保険会社の比較データは有料であるが,NCQAは全米8地域の地域間によるサービスの質を比較したデータを無料公開している。
 サービスの質を表す指標として,例えば,各保険会社における予防医学的処置の実施率が比較される。有効とされる予防・検診を保険でカバーし,実際に患者に勧めて実施しているほど,サービスが良心的で質が高いと考えられるわけである。驚くべきことに,比較された指標のほとんどにおいて,最も高い実施率を示したのは,マサチューセッツ州など6州を含むニューイングランド地域であったのに対して,最も低い実施率を示したのはテキサス州など8州からなる中南部地域であった。両地域を比較すると,例えば心筋梗塞後のベータ拮抗剤使用率77%対55%,乳癌検診率75%対68%,子宮頸癌検診率77%対57%,小児の予防接種率81%対59%,糖尿病患者における眼科検診率51%対33%,となっている。地域が異なると医療サービスの質がまったく異なるということが如実に示されたのである。

生き残るためには……

 ケンブリッジ病院地域医療部部長兼ハーバード大学公衆衛生学部準教授のデビッド・ヒンメルシュタイン医師については,彼とアテナ社との口止め条項を巡るトラブルを第4回(2206号参照)で紹介した。筆者はヒンメルスタイン医師に,マサチューセッツ州のHMOは良心的との評判が高いが,HMOがすべて悪者とは限らないのではないかと,尋ねたことがある。それに対する彼の答えは次のようなものであった。
 「マサチューセッツ州のHMOは確かに良心的な医療を提供している。しかし,問題なのは個々の保険会社が良心的であるか悪質であるかではない。一度悪徳業者が地域市場に参入し,サービスの質を落としてシェアを拡大しようとすれば,良心的な保険会社といえども生き残るためにはサービスの質を落として対抗するしかない,ということが問題なのだ。医療を市場原理に委ねると,吸血鬼にかまれた者が皆吸血鬼になる『バンパイア効果』が歯止めなく広がる危険がある」